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朝の台所には、まだひんやりとした空気が残っていた。
竈に火を入れ、昨日の夕食で残ったキッシュをフライパンに乗せる。弱火で、蓋をして。焦がさず、中まで温めるのがコツだ。
香ばしい匂いが立ち上るころ、青司が作業場から顔を出した。
「……それ、昨日のだよな」
「うん。でも、朝に食べるとまた違うでしょ」
皿に移して差し出すと、青司は素直に頷いて椅子に座る。
一口食べて、少しだけ目を丸くした。
「……やっぱり、美味しい」
「卵がいいのよね。温め直すと、余計に分かるのよ」
リオナはそう言いながら、自分の分を口に運ぶ。
昨日よりも、少し落ち着いた味。森の朝に、よく合う。
「今日も狩り?」
「うん。でも明日は街に戻るし……持て余さないように、小さいのでいいわよね」
そう言って、ちらりと青司の顔を見る。
「じゃあ、夕方に何か焼けるな」
「……ふふ」
その一言で、胸の奥がくすぐったくなる。
誰かの「楽しみ」になる狩り。悪くない。
食後、弓を背負い、森へ入る。
朝露の残る地面は静かで、足音を殺しやすい。
(大物は、今日は要らない)
狙うのは小型で、肉質のいいもの。
罠にかかりやすい、緑毛森兎か、森栗鳥あたり。
風向きを読む。
音を拾う。
気配を、切り分ける。
リオナの動きは、無駄がない。
枝を避け、葉を踏まず、視線だけで周囲を測る。
――いた。
低木の影、わずかに揺れる草。
弓を引く音すら、森に溶かす。
放たれた矢は、短く、正確に。
一息で終わる。
(これなら、柔らかい)
頷いて獲物を回収する。
血抜きも手早く、無駄に傷つけない。
もう一つ。
少し離れた場所で、森栗鳥のつがいを見つける。片方だけを狙い、もう一羽はすぐに飛び立った。
(……ごめんね)
けれど、それも森の理だ。
帰り道、荷の重さを確かめながら、ふと思う。
(青司、喜ぶかな)
焼いたら、塩だけでいい。
昨日のキッシュみたいに、構成を考えなくても、素材が応えてくれる。
そう想像すると、自然と歩調が軽くなった。
狩りは、リオナの日常だった。
森に入り、気配を読み、獲物と向き合う。
それは生活であり、腕を試す時間でもある。
でも最近は、少しだけ――
その先に、誰かの顔が浮かぶ。
森の出口が見える。
家に戻れば、きっとあの人は、作業の手を止めて顔を上げる。
(……ちゃんと、いい日になってるといいな)
リオナは弓を背負い直し、最後まで背筋を伸ばして歩いた。
狩人としての誇りと、ほんの少しの甘さを胸に抱いたまま。
*******
森の家が見えてきた頃、煙突から細い煙が上がっているのが見えた。
(……まだ作業してる)
扉を開けると、獣脂の独特な匂い――けれど、嫌なものではない、どこか温かみのある香りが漂っていた。
「おかえり」
作業場から顔を出した青司が、手袋を外しながら声をかける。
「ただいま。……なに作ってるの?」
「保湿剤。獣脂を精製して、薬用に使えるようにしてた。
植物油で石鹸を作るようにしたから、獣脂が余ってるだろうと思って」
作業台の上には、小さな陶器の容器がいくつか並んでいる。
白く、なめらかな軟膏状のものが詰められていた。
「唇とか、手のひび割れ用。あと、風除けにもなる」
リオナは一つ手に取り、指先でほんの少しすくった。
体温でゆっくりと柔らかくなり、獣臭さはほとんどない。
「……これ、いい」
「精製を三回やった。余計なものはだいぶ抜けてる。唇用は赤とピンクの二色で、それぞれグラデーションを三段階ずつ用意してみたんだ」
自慢でも謙遜でもない、事実を述べるだけの口調。
それが逆に、彼らしい。
「狩りのあと、唇切れることあるだろ。それに女の子なら色味があった方が嬉しいかなって」
そう言われて、リオナは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……よく見てるわね」
「一緒に生活してたら、嫌でも」
青司は小さく笑い、もう一つ小さな容器を差し出す。
「こっちは、さらに薬草も少し混ぜてる」
受け取ったそれを、リオナは躊躇いなく使った。
薄く伸ばすと、風で荒れていた感触が、すっと落ち着いていく。
「……ありがとう」
短い一言。
耳と尻尾がわずかに動いたのを、本人だけが自覚していた。
その声には、ちゃんと気持ちが乗っていた。
家の中は静かで、外では森が変わらず息づいている。
狩って、作って、手入れをして、また明日を迎える。
そんな当たり前の繰り返しが、いつの間にか、少しだけ大切になっていた。
*******
翌朝、森は薄い霧に包まれていた。
火を落とした竈の冷たさと、昨日の匂いがまだ家の中に残っている。
リオナは外套を羽織り、青司は荷を確認していた。
「行こうか」
「ええ」
それだけで、二人は同じ方向を向いた。
森を抜ける道は、来たときよりも足取りが軽い。
霧の向こうで、空気の質がわずかに変わるのを感じた。木々の匂いが薄れ、土の踏み心地が固くなる。
そのときだった。
馬の鼻息と、革具の軋む音。
霧の切れ目に、止められた馬車の輪郭が浮かび上がる。
「――お待ちしておりました」
御者台から降りたのは、予想通りの人物だった。
領主家護衛騎士、ビリー。簡易装備のまま、きっちりと一礼する。
「三日後、と仰っていましたよね」
「はい。予定通りです」
それ以上の説明はない。
護衛していたことも、気づかれていたことも、互いに口には出さなかった。
横を見ると、リオナが一瞬だけ耳を動かし、それから何事もなかったように視線を前に戻す。
――やっぱり、分かっていたんだな。
青司は小さく息を吐き、馬車へと歩み寄った。
森の中で作ったもの、狩って得たもの、整えた生活。
それらを胸の奥にしまい込むようにして、街へ戻る。
だが不思議と、不安はなかった。
この森も、この家も、ちゃんと待っていると分かっている。
馬車が動き出し、霧の向こうへと進んでいく。
青司は背筋を伸ばし、次に向き合う“日常”へと意識を切り替えた。
――さて、今度は街の番だ。
**************
森を抜けた先で、領主家の馬車が待っていた。
御者台にはビリーの姿があり、二人の姿を認めると、静かに手綱を引く。
「お待ちしておりました。問題なく戻られたようで何よりです」
短いやり取りのあと、青司とリオナは馬車に乗り込んだ。
車輪が動き出すと、土の道はやがて石畳へと変わり、揺れも規則正しいものになる。
街の門が見えた頃、空気がはっきりと変わった。
人の声。馬のいななき。石畳を踏む靴音と、朝から立ち上る焼き菓子の匂い。
森の静けさとは違う、生活の気配が満ちている。
門をくぐったところで、馬車は一度止まった。
リオナは外套の襟元を直し、青司の隣で小さく息をついてから、馬車を降りた。
「じゃあ……私は黒猫亭に行くわね」
「うん。後でまた」
視線を交わし、短く頷く。
それだけで十分だった。
リオナは人波の中へと歩き出し、ほどなく姿が見えなくなる。
青司はその背中を一瞬だけ目で追り、
ほどなくして、馬車はリオネの店舗がある通りへと向かった。
店先は、思っていた以上に賑わっていた。
木製の看板の下には人だかりができ、列を作って待つよう声を張り上げる衛兵と、商品の一覧表を並ぶ客に手渡しながら説明するルーカスの声が飛び交っている。
以前は貴族夫人や令嬢の姿が目立っていたが、今は装備を軽くした女性冒険者や、街で働く娘たちの姿も多い。
アイリやエルミナが店に立つようになってから、店の空気が少し柔らぎ、そのぶん賑やかさも増したようだった。
「きちんと列を作ってくれ。通りに広がると迷惑になる」
「商品一覧を見ていただけると、中に入ってから欲しいものがすぐ見つかりますよ。あ、それと――ボディーバター、最近評判なんです」
「肌荒れにもいいって聞いて――」
客の言葉に、ルーカスは笑みを浮かべた。
「試食のグミです。よろしかったら召し上がってください。順番にお配りしますので、並んでお待ちください」
耳に入ってくる言葉に、青司は思わず足を止めた。
自分が森で作っていたものが、こうして街の中で“商品”として生きている。
(ちゃんと、役に立ってるんだな)
邪魔にならないよう脇を抜け、青司は裏手の階段から二階へ上がる。
事務所の扉をノックすると、すぐに中から声がした。
「どうぞ!」
中に入ると、書類に囲まれたクライヴが顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「おかえりなさい、セイジさん! 無事で何よりです」
「ただいま。……前以上に、店が賑わってて驚いたよ」
「でしょう? 特に最近は冒険者のお客様が増えてます。コンディショナーとボディーバターが効いてますね」
クライヴは机の端に積まれた帳簿を軽く叩いた。
「それと――覚えてます?黒猫亭で食べた“グミ“、正式に商品化を進めてます」
「……やっぱり」
「黒猫亭を起点に話が一気に動いてまして。今朝もベルドさんが来て、商品化する工房をどこにするか、最終調整をしていました」
その名前に、青司は少しだけ肩の力を抜く。
あの店なら、変に歪められることもないだろう。
「工房との価格や供給量の調整は、こちらでやります。セイジさんは、今まで通りで大丈夫です」
「ありがとう。助かる」
「いえいえ。――それと、子爵家からも動きがありそうです」
「それは、どういう意味で?」
「表立って口出しはしないということですが、必要があれば、流通や護送で手を貸すそうです。
子爵家の名前が出るだけで、余計な手出しは減るでしょう」
青司は、自分が森で作ってきたものが、
いつの間にか“街の仕組み”の中に組み込まれ始めていることを、ようやく実感した。
クライヴは声を潜め、簡潔に状況を伝えた。
青司は頷きながら聞き、最後にひとつだけ言った。
「無理はしないで。街のペースに全部合わせなくていい」
「ええ。ちゃんと、足元を見ながらやります」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
仕事の話は、ひとまずそれで十分だった。
青司は、思い出したように鞄の中へ手を伸ばした。
「それと、これ」
取り出したのは、小さな薬瓶だった。
澄んだ液体が、陽の光を受けてわずかに揺れる。
「アイリさんの足の毒を抜くための解毒薬。森で採ってきた素材で作ってきたんだ」
「……さすがです」
「もし、下で動いているなら、飲ませてあげて」
その言葉に、クライヴは一瞬だけ目を見開き、
すぐに表情を引き締めて深く頷いた。
「助かります。今すぐ持っていきますね」
「無理はさせないで。完全に抜けるまで、数日は様子を見た方がいい」
それだけ言って、青司は薬瓶をクライヴに手渡した。
一方その頃――黒猫亭。
黒猫亭の扉を開けた瞬間、リオナは思わず足を止めた。
昼前だというのに、店内はすでに満席に近い。
焼き菓子の甘い匂いに混じって、果物と砂糖が溶け合う、あの涼やかな香り――ゼリーだ。
「いらっしゃいませ、少々お待ちくださいね」
カウンターの内側で声を張っているのは、姉のマリサだった。
「マリサ、無理するなって言ってるだろ」
厨房から顔を出したベルドが、低い声で言う。
「大丈夫よ。まだ初期だもの。今のうちに回しておかないと、あとが大変でしょ」
そう言い返しながらも、ベルドの視線は自然と彼女の様子を追っていた。
マリサは苦笑し、調理台に手をついて体を預ける。
その拍子に、ほんの一瞬だけ腰に手がいく。
それを見逃さず、ベルドは何も言わないまま鍋の火を弱め、次の注文を先回りして片づけ始めた。
言葉は少ないが、動きがすべてを語っている。
そのやり取りに、リオナは少しだけ胸をなで下ろした。
「……忙しそうね」
「ええ、朝からずっとよ」
マリサはリオナに気づくと、ほっとしたように笑った。
「ゼリーとグミを目当てのお客さんが増えてて。
でもね、不思議と前より体は楽なの」
「疲労回復茶、ちゃんと飲んでる?」
「もちろん。セイジさんのおかげよ。
夜もよく眠れるし、足のむくみもだいぶ違うわ」
そう言って、マリサは新しく入った娘に向き直る。
「大丈夫、慌てなくていいの。
お皿はこっちに置いて、次は水をお願い」
「は、はい!」
緊張気味だった娘は返事をすると、言われた通りに動き出した。
足取りは控えめだが、周囲の客や通路の流れを一瞬で見渡し、ぶつからない位置を選んで進んでいく。
その様子に、マリサは気づかないまま微笑んだ。
新人にしては落ち着いている、くらいの印象だったのだろう。
だが、ベルドは鍋をかき混ぜながら、ほんの一瞬だけ目を細める。
水を運ぶ途中でも、娘の視線は自然と店内全体に行き届いていた。
――癖、だな。
そう思ったが、口には出さない。
今は、人手があるだけで十分だった。
ベルドは小さく息をつき、火加減を整えた。
「……ほんと、よく気がつく」
「あなたもでしょ」
短く交わされた視線に、言葉以上の信頼が滲んでいた。
リオナは、その光景を少し誇らしい気持ちで見つめてから、前に出た。
「私も、今日は手伝うわ」
「いいの?」
「うん。街に戻ってきたし」
そう言うと、マリサは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、接客お願い。
猫人族の子がいるってだけで、喜ぶお客さんも多いのよ」
マリサの言葉に、リオナは一瞬だけ瞬きをした。
「……そう、なの?」
思っていたよりも軽い調子で返してしまい、自分でも少し驚く。
リオナはエプロンを受け取り、店内へと向かう。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、何人かの視線がこちらに向いた。
好奇心とほんの少しの親しみ。
ゼリーの器を運び、グミの説明をする。
その合間に、厨房からベルドの声が飛ぶ。
「次、ゼリー二つ!」
「はい」
忙しい。
けれど、不思議と嫌じゃない。
(……こういう場所も、悪くない)
森で弓を引く時間とは違うけれど、
誰かの役に立っている実感は、確かにここにもあった。
黒猫亭は今日も、甘い香りと人の声に包まれていた。
その中に、リオナの居場所も、静かに混じっていた。




