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翌朝、森は澄んだ冷気に包まれていた。

家の戸を開けると、夜露を含んだ土の匂いが立ち上る。


歩いて十五分ほどの湖へ向かう道は、二人にとって久しぶりでありながら、確かに“いつもの”道だった。

鳥の声を聞き分け、踏み跡の柔らかさを確かめながら、青司は桶を担ぎ、リオナは周囲に気を配る。


湖面は朝の光を受けて静かに揺れていた。

青司が水を汲み、桶の蓋を閉める。


「ここからは別行動ね」

「ああ。無理はするなよ」


短い言葉だけ交わして、リオナは弓を背負い直す。

その口元には、ほんのわずかだが弾むような気配があった。

森へ踏み出す足取りは軽く、狩りに向かうことそのものを楽しんでいるのが伝わってくる。


青司はその背中を見送り、無言で頷いた。

自分が作業場に戻り、薬を作るのと同じように――

彼女もまた、自分の得意な場所へ向かっているだけだ。


リオナの姿が木々の間に溶けて見えなくなってから、青司は家路についた。


*


作業場に戻ると、朝の光が窓から差し込み、整えられた棚の瓶を照らす。

昨日採取した紫痕蔦と、補助となる解毒草が布の上に並んでいた。


青司は深く息を吸う。

ここからは、薬師としての時間だ。


まず蔦を手に取り、昨夜途中まで進めた処理の跡をあらためて確認する。

一見すると問題はない――だが、節の色味がわずかに違う。


「……やっぱり、だめだな」


昨日は、毒の流れを読み違えていた。

刃を入れる角度がほんの僅かに深く、結果として毒性を刺激してしまっている。


青司は迷いなく、そこまでの処理を破棄した。

もったいないという感情は、薬師の判断には不要だ。


改めて蔦を丁寧に分解する。

毒が集中する節と、薬効を持つ繊維を見極め、今度は刃を浅く、繊維の流れに沿わせる。

不用意に傷つければ毒は活性化する――それを理解した上での手つきには、もう揺らぎはなかった。


「……よし」


乳鉢に素材を入れ、ゆっくりと摺る。

その動きは一定で、呼吸と同調していた。

粉が均一になったところで、抽出液を加える。


ここからが、錬金術師としての領域だ。


青司は掌をかざし、意識を集中させる。

体内を巡る魔力を、糸を引くように静かに引き上げる感覚。

荒々しく流せば薬は壊れる。

必要なのは、制御と理解。


「……鎮め、繋げ」


低く呟くと、魔力が溶液に染み渡る。

紫がかった液体が、次第に澄んだ色へと変わっていく。


毒性を削ぎ落とし、薬効だけを残す工程――

本来なら知識と感覚、その両方が求められるところだが、授けられた恩寵のおかげで、青司の中には学びや経験がなくとも、その感覚が最初から備わっている。


この世界に来たとき、青司は明確な優遇を受けていた。

物を作り出す制作の技、錬金と薬師としての知識、成功率を底上げするスキル――いわゆるチートだ。


だが今、彼はそれを優遇とは呼ばなくなってきていた。

ここへ来たときに授けられ、今も借り続けている力――

使えるから使うのではない。使わせてもらっているから、無駄にはしない。

その力を、恩寵として受け止め始めていた。


額に汗が滲む。

だが手は止まらない。


魔力を練り込み、一定のリズムで循環させる。

器具がかすかに共鳴し、空気が張り詰める。


やがて、ふっと重さが抜けた。


青司は手を離し、液体を見下ろす。

そこには、安定した淡い色の解毒薬が完成していた。


「……できたな」


瓶に移し、封をする。

ラベルには迷いなく〈紫痕蔦 解毒薬〉と記した。


外から、風に揺れる森の音が聞こえる。

今頃、リオナは獲物を追っているだろう。


青司は瓶を棚に並べ、軽く拳を握った。


剣を振るうでも、矢を放つでもない。

だが――誰かの命を確かに守る力が、ここにある。


その自覚が、胸の奥で静かに熱を帯びていた。



*******



 執務室の窓から差し込む午後の光は、いつもより柔らかく感じられた。

 フィオレル子爵は書類から顔を上げ、入室してきたビリーの姿を見るなり、口元をわずかに緩める。


「戻ったか。……どうだった?」


 問いかけは簡潔だが、声の調子は明らかに機嫌が良い。

 それに気づいたのだろう、ビリーは一瞬だけ眉を上げた。


「問題ありません。セイジ殿と猫人族の娘リオナ殿、無事に森の家へ戻られました。紫痕蔦の採取も確認しております。……しかしながら、私の護衛に気づかれていたようでした。」


「……そうか。不快に思われなければ良いのだがな」


 満足げに頷き、フィオレル子爵は卓の脇に置かれた銀の盆を指差した。


「報告の前に、ひとつ付き合え。黒猫亭の新作だ。どうやらこれにもセイジが絡んでいたようだがな」

 小さな硝子器に盛られた、淡い色合いのゼリー。

 ビリーは一瞬ためらいながらも口に運び、目を見開いた。


「……これは」


「王都の服飾ギルド長、ダラス子爵の接待で出した。見事に食いついたよ」


 子爵は椅子にもたれ、愉快そうに続ける。


「結果として、王都で一人前の仕立屋になれる腕を持ちながら、資金不足で店を持てずにいる若者たちを、リルトへ紹介してもらえることになった」


 ビリーは静かに聞いている。


「対価として、ゼリーのレシピをダラス家の調理人に渡すことになった。安い取引ではないが…… まあ、こちらが得たものを思えば、十分に釣り合っている。」

 フィオレル子爵は椅子に深く腰掛け、満足げに息を吐いた。

「それにな、まだ“グミ”という菓子がリルトには残っている。リオネで販売を始めるそうだと、クレスから報告があがってきていてな。――セイジは、実に色々とやってくれる」


 フィオレル子爵は肩をすくめ、しかし迷いはなかった。

「王都で店を出すには金がかかりすぎる。だがリルトなら、貧民街の空き家を改装すればいい。初期資金は王都の十分の一で済む。才能ある者には、街として資金を用意する」

 窓の外、街の方角へ視線を向ける。

「若い力で最先端の仕立屋通りができれば、貴族夫人たちは必ずこの街に足を運ぶ。そうなれば街はさらに潤う。すでに清掃員や衛兵隊、職人たちの工房での雇用も増え、貧民街の治安も確実に改善し始めている」


 ビリーは胸に手を当て、静かに頷いた。


「街が、生きているみたいですね」


「生かしているのさ。……無論、優秀な“薬師殿”の存在も忘れてはいないがな」


 子爵は意味ありげに微笑み、ゼリーの器を手に取った。


「さて、報告の続きだ。セイジ殿の様子を、詳しく聞かせてもらおう。別宅での二人の様子――何か気づいたことはあるか?」


ビリーは、わずかに苦笑を含ませた。


「側から見れば……どう見ても仲の良い恋人同士なのですが」


 子爵の眉が、ほんの少し動く。


「ですが、ご本人たちは至って友人のような距離感に見えます。互いに踏み込みすぎぬよう、意識しているようにも」


「ほう」


「他者からの介入は、好まれないでしょう。護衛として前に出るより、見守る方が適切かと判断しました」


 フィオレル子爵はしばし黙考し、やがて静かに頷いた。


「……それでいい」


 机に指を組み、低い声で言う。


「セイジ殿の機嫌を損ねる真似はしない。他の貴族が不用意に近づかぬよう、こちらで手を打つ。ホヅミ商会の後見人として、二人を見守るとしよう」


 ふと、思いついたように言葉を添える。


「黒猫亭にも、目立たぬ形で護衛を回すか……。あそこも、いまや街の顔だ」


 ビリーは胸に手を当て、深く一礼した。


「承知しました。騎士隊の方に伝えておきます」


「ふむ、後で私からも伝えておく」


 フィオレル子爵は再びゼリーに視線を落とし、穏やかに微笑んだ。


「若い芽は、踏まずに育てるものだ――その成功例として、上の者にも見てもらおうか」



**************



 森の家の作業場に、薬草とは別の香りが満ちていた。

 紫痕蔦の毒性を完全に削ぎ落とし、薬効だけを残した液体が、ゆっくりとガラス瓶の底に落ち着いていく。


 青司は最後の魔力を、静かに封じた。


「……よし」


 瓶に蓋をし、ラベルを書き終えたところで、外から微かな足音がした。

 木の葉を踏む音。軽く、迷いがない。


 次の瞬間、扉が開く。


「ただいま」


 狩衣姿のリオナが、弓を肩にかけたまま顔を覗かせた。

 頬は少し赤く、髪には森の匂いが残っている。


「おかえり。怪我は?」


「ないわ」

 気遣ってくれたのが素直に嬉しくて、リオナは少しだけ頬を赤らめた。

「今日は当たりだったのよ」


 そう言って、リオナは背負っていた荷袋を下ろす。

 中から取り出されたのは、布に包まれた、ずっしりとした楕円形のものだった。


「……卵?」


「運良く灰羽(グレイフェザ)走鳥(ー・ランナー)の巣を見つけたのよ」

 布をほどくと、手のひら二つ分ほどもある大きな卵が姿を現す。

 殻は淡い灰色で、うっすらと羽毛のような模様が入っていた。


「親鳥、いなかったの?」


「いたわよ。だから、これ一個だけ。欲張ると危ないから」

「灰羽走鳥は肉も卵も美味しいけど……親鳥はけっこう攻撃的で、足も速いのよね。

でも、飛べないから、しばらく木の上でやり過ごしてから帰ってきたの」

さらりと言うが、その判断の速さと冷静さが、狩人としての腕を物語っていた。



「青司、卵料理……好きでしょう」


少し視線を逸らし、言い訳めいた調子で付け加える。


青司は一瞬、言葉を失ってから、ふっと息を吐いて笑った。

「……うん、好きだよ。ありがとう。ちょうど、薬もできたところだ」


「じゃあ、今日はこれでオムレツとキッシュを作るわね」

そう言って、リオナは迷いなく台所へ向かった。

慣れた手つきで竈に火を入れ、フライパンを取り出す。


 殻を割る瞬間、リオナは一拍だけ間を取った。

猫人族特有の感覚で、中身の状態を確かめてから、静かに力を加える。


殻が割れ、器に流れ出る卵液は、驚くほど濃い色をしていた。

黄身は深い橙色で、白身もとろりと粘りがある。


「……新しい。いい卵ね」


軽く塩を振り、泡立てすぎないように箸で混ぜる。

台所の奥、作業場では、青司が解毒薬の瓶を棚に戻していた。

布で台を拭き、器具を洗い、使い終えた乳鉢を乾かす。

料理に口出しするより、その方が互いに楽だと、二人とも知っている。


「火、強すぎない方がいい?」


仕切りの向こうから投げられた声に、リオナは短く答える。


「そうね。弱めで」


フライパンに油を落とし、温度を確かめてから卵液を流し込む。

じゅっ、という音は控えめで、すぐに火を落とす。


縁が固まり始めたところで、リオナは手早く中央へ寄せた。

混ぜすぎず、放置もしない。

箸の動きは迷いがなく、呼吸と同じ間合いで続く。


ふわり、と立ち上る卵の甘い香りが、家の中に広がった。

森の朝の冷たい空気に溶け込むような、やわらかな匂いだ。


作業場で瓶を並べ終えた青司が、思わず顔を上げる。


「……いい匂いだな」


「今、気にしないで。火、見てるから」


そう言いながらも、リオナの耳がわずかに揺れる。


最後に火から外し、余熱で形を整える。

皿に移されたオムレツは、表面がつるりとしていて、触れれば今にも崩れそうだった。


リオナはそのまま、次の器を手に取る。

刻んだ野菜と干し肉、少量の乳と香草を合わせ、卵液を静かに注ぐ。


「キッシュは、あと少し時間かかるわ」


「了解。片付け終わったら、火の番する」


役割を確かめ合うような短いやり取り。

それだけで、家の中の流れが揃う。


竈の火が静かに燃え、

作業場では薬瓶が整列し、

台所では卵が、ゆっくりと料理に変わっていく。


特別な言葉はない。

けれど――ここが、ちゃんと“帰る場所”になっていることだけは、確かだった。


「はい」


 ナイフを入れると、中心からとろりと中身が溢れ出す。

 灰羽走鳥の卵らしい、濃厚で深い色合いだ。

 隣の皿には、こんがりと焼き色のついたキッシュ。表面は香ばしく、中はしっとりと層をなしている。


 青司はまずオムレツを一口運び、目を細めた。


「……美味しい」

 続けてキッシュにも手を伸ばし、噛みしめるように頷く。

「こっちも……いいな。卵の味がちゃんと引き立ってる」


「……なら良かった」

 リオナは、ようやく少し肩の力を抜いた。

 向かいに腰を下ろし、自分の皿にもフォークを入れる。


「立派なお屋敷で、豪華な料理を食べさせてもらってたでしょう?

 口に合わなくなってたらどうしようって、ちょっと心配してたのよ」

 それで、と続ける前に、ふっと柔らかく笑った。

 湯気越しのその表情は、どこか照れを含んでいる。


「でも……やっぱり、ここで食べる方がいい顔してる」


 青司は少しだけ困ったように笑い、視線を逸らしてフォークを置いた。

「……たぶん、それは料理のせいだけじゃない」


 短い沈黙。

 言葉はそこで止まったが、否定する必要もなかった。


 外では風が木々を揺らし、鳥が鳴く。

 家の中では、竈の余熱と食器の触れ合う音だけが残っている。


 狩って、作って、食べる。

 それぞれの得意なことを持ち寄って、同じ食卓につく。


 とろとろのオムレツと、香ばしいキッシュ。

 灰羽走鳥の卵で作られたそれらは、

 二人がこの森で生きている証のように、静かに皿の上で温もりを保っていた。


*


 夜の森は、昼とは別の顔を持っている。

 音は少なく、けれど完全な静寂ではない。風が枝を揺らす気配、遠くで小さく鳴く生き物の声。家の外に出ると、それらが肌に触れるように感じられた。


 東屋の風呂場に灯りを入れる。

 青司が作った簡素な造りだが、雨を避けられ、湯を使うには十分だった。


 桶の中の湯に、彼が作ったシャンプーを少し落とす。

 鼻先をくすぐる、ほのかな草と柑橘の匂い。


「……これ、やっぱり好き」


 独り言は、森に溶けて消える。

 泡立ちは控えめなのに、指通りがいい。狩りで汗をかいた後でも、毛並みがきしまず、頭が軽くなる感じがする。


 続いて、バススクラブを手に取る。

 粒子は細かく、肌を削る感じがない。脚や腕を軽く撫でるように使うだけで、余計な疲れが落ちていく。


(……明日も、ちゃんと動けそう)


 それが、何よりありがたい。

 狩人にとって、身体は道具だ。だが、こうして労わる時間があると、気持ちまで整っていく。


 湯を流し、風に当たる。

 夜気は冷たいが、不快ではない。森の匂いと、石鹸の残り香が混じって、胸の奥が落ち着いた。


 自室に戻り、タオルで髪を拭く。

 最後に、ボディーバターを少しだけ手に取った。


 指先で温めてから、手首と踝に伸ばす。

 強い香りはなく、ほんのり甘い。


(……青司の作るものって、主張しすぎないのよね)


 使う人のことを考えている、そんな感じがする。

 だから、自然に生活に馴染む。


 灯りを落とすと、家の中は静かになった。

 向こうの部屋で、青司が何かを片付ける音が一度だけして、それきりだ。


 同じ屋根の下にいる。

 それだけで、十分だった。


 ――翌朝。


 鳥の声で目を覚ます。

 身体は軽く、筋張った感じも残っていない。


 窓を開けると、朝の森の空気が流れ込んできた。

 今日も狩りに出られる。

 青司は、きっとまた作業場にこもるのだろう。


(それぞれの仕事、ね)


 そう思うと、自然と口元が緩んだ。


 同じ場所に帰ってくるから、それぞれ外へ出られる。

 夜に整えた身体と心は、朝の一歩を軽くしてくれる。


 リオナは髪を結び直し、弓に手を伸ばした。

 今日も、森は変わらずそこにある。


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