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店内の様子を一通り見渡したあと、
青司はクライヴの横に歩み寄った。
「クライヴさん、少しだけいい?」
「ええ」
帳簿を閉じたクライヴが顔を上げる。
「一旦森に戻ろうと思うんだ」
一瞬だけ、クライヴの指が止まった。
だが、驚きはしなかった。
「……アイリさんの薬の件、ですね」
「うん。彼女の足の治療は早いほうがいい。
それに――」
青司は、店内で動く人々に視線を向ける。
「……ここは、もう大丈夫だと思う」
クライヴは、同じ景色を見てから、ゆっくり頷いた。
「……ええ。今の布陣なら、店は回ります。
リオナさんも一緒ですか?」
「うん。森は、一人じゃない方がいいし……それに、本人も行く気でいる」
クライヴは、少しだけ笑った。
「なら、なおさら問題ありません。
こちらは私とクレスさんで見ます。
判断が必要なことは、手紙を飛ばします」
その名を聞いたクレスが、静かに一礼する。
「お任せください。
“回り続ける店”――実践してみせます」
青司は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
「……ありがとう」
帳簿を閉じたクライヴは、静かに立ち上がり、青司をまっすぐに見た。
「こちらこそ。行ってきてください」
一拍置き、クライヴは言葉を選ぶように、指先をそろえる。
「ただ、一つだけよろしいでしょうか。商会の規模が大きくなってきましたので――
これから私たちのことは、呼び捨てにしてください。私のことは、クライヴです」
青司が瞬きをすると、クライヴは穏やかな声のまま続けた。
「そうでないと、いずれ他の商会員たちに、序列を示せない時が来てしまうかもしれません」
「えっ……」
思わず声を上げた青司は、戸惑いを隠せないまま首を振る。
「けど、クライヴさんも、ミレーネさんも、エリンさんも……みんな年上ですし」
その言葉に、クライヴは小さく目を細めた。責めるでもなく、困らせるでもない、静かな微笑みだった。
「お気持ちは嬉しいです」
だが、次の言葉には、商会を預かる者としての確固たる芯があった。
「ですが、セイジさんがこのホヅミ商会の会長です。
年上であっても、私たちは――セイジさんの下で働く者です」
クライヴは一度、店内の方へと視線を向ける。
忙しく動く商会員たちの背中を見渡し、ゆっくりと言葉を結んだ。
「立場をはっきりさせておくことが、結果的に、皆を守ることにもなります」
クライヴの言葉が、静かに二人の間に――いや、リオネの店舗となった空間に落ちた。
青司は、すぐには返せなかった。
年上の人たちに囲まれて、助けられて、ここまで来た。その事実が、胸の奥で確かな重みを持っている。
それでも――。
店の奥で、棚を整えるティオの姿が見えた。
新人のそばで動線を確認しているリディア。
裏方で無駄なく手を動かすダンとサハイ。
そして、怪我を抱えながらも仕事を覚えようとするアイリの背中。
自分が決めた人たちだ。
守ると決めた場所だ。
青司は、ゆっくりと息を吸った。
「……分かりました」
その声は、先ほどまでより少し低く、はっきりしていた。
「じゃあ――クライヴ」
名前を呼ばれたクライヴの目が、わずかに見開かれる。
だがすぐに、深く、満足そうな笑みが浮かんだ。
「はい、セイジさん」
その一言で、主従でも年齢差でもない、
“商会長と右腕”という関係が、確かに形を持った。
青司は、背筋を伸ばす。
「店のこと、任せます。
判断に迷うことがあれば、遠慮なく連絡してください」
「承知しました」
クライヴは一礼し、すぐに実務の顔へと切り替わる。
「クレスさん、森へ出る間の決裁は私が預かる。緊急時は二人で判断させてください」
「了解です」
短く答えたクレスの声にも、迷いはなかった。
青司は、その様子を見て、胸の奥が少し熱くなるのを感じる。
(……大丈夫だ)
ここは、もう一人で背負う場所じゃない。
青司は踵を返し、森へ向かう準備をするために歩き出した。
薬を作るために。
そして、また戻ってくるために。
ホヅミ商会は――確かに、前へ進んでいた。
**************
領主家の馬車が速度を落とすと、車輪の音が石畳から土へと変わった。
窓越しに見える景色も、整えられた街道から、背の高い木々の影が落ちる道へと移り変わっていく。
やがて、馬車は森の縁で静かに止まった。
「このあたりでよろしいのですか」
御者台から、ビリーが振り返る。
日に焼けた顔に、いつもの実直な笑みが浮かんでいた。
青司は槍を手に、先に馬車を降りる。
続いて、狩衣姿のリオナが弓を背負い、軽やかに地面へ降り立った。
街道を抜け、森の縁が目の前に広がると、空気が少しだけ変わる。
土と葉の匂い。朝露を含んだ風が、頬をなでた。
「ええ、ありがとうございました。わざわざ送っていただいて」
リオナが静かに言う。
御者台から降りてきたビリーは、二人に笑顔を向ける。
「いえ、お二人の護衛の手当ては大きいですから。どうかお気になさらず」
一拍置き、真面目な声で続けた。
「それと、森に入ったらどうかお気をつけてください。魔物の動きは読めませんので、無理はなさらずに」
「ありがとう、ビリーさん。三日後には、また街へ行くことになると思う」
「では、三日後にこちらへ迎えを出します。待ち合わせましょう」
ビリーは胸に手を当て、軽く頭を下げた。
「ご無事で」
馬車が踵を返し、来た道を戻っていく。
車輪の音が遠ざかるにつれ、森の気配が前面に押し出されてきた。
**************
馬車を街道に戻したあと、ビリーは森へ続く小道を迂回するように歩いていた。
その姿はすでに、フィオレル家護衛騎士の簡易装備へと替えられている。
青司とリオナの二人と別れた後、手早く着替え、気づかれぬよう距離を保って追い始めていた。
(……気配を殺すのは、やはり狩人の方が上だな)
先を行く二人の背中は、木々の間に溶け込むように見え隠れする。
狩衣姿の猫人族の娘――リオナは、半歩前を歩きながらも、常に周囲へ意識を巡らせていた。
足運びは静かで、枝一本踏み折らない。
その隣を行く青司は、まだ森に完全に馴染んでいるとは言えない。
だが、槍の持ち方は安定しており、足取りにも迷いが減ってきている。
(……領主様が目をかけるわけだ)
ビリーは距離を保ったまま、視線だけで二人を追った。
音を追うのではなく、気配の揺らぎを見る。
この距離なら、万が一の事態が起きても、即座に森へ溶け込める。
やがて、二人は足を止めた。
リオナが地面にしゃがみ込み、青紫色の斑が入った蔓草を指差す。
(紫痕蔦か……たしか、生き物の体温に反応して絡みつく、厄介な吸血毒草だ)
青司は頷き、慎重に手袋を嵌めてから蔓を切り取る。
葉の裏、節の位置、根の張り具合――手慣れた確認だ。
毒草を「薬」へと変える人間の所作を、ビリーは初めて目にした。
(……なるほど。あれなら、解毒薬も作れるのだろうな)
二人は必要な分だけを採取し、決して乱獲しない。
リオナが周囲を警戒し、青司が作業に集中する。
役割分担が、すでに自然だ。
ビリーは小さく息を吐いた。
(護衛は要らん――いや、要るが、前に立つ必要はない)
剣を抜く場面が来なければ、それでいい。
来たとしても、自分は“最後の壁”でいい。
紫痕蔦だけでは終わらなかった。
二人は森を進みながら、おそらく解毒薬に使う別の素材も丁寧に採取していく。
日陰に生える淡黄色の苔。
倒木の根元に絡みつく、細い白花。
夜露を吸ったまま閉じた薬草の蕾。
青司は一つひとつ手に取り、匂いを確かめ、必要な分だけを切り取っていく。
リオナはその間、周囲の森に目を配り、時折、進路をわずかに変えた。
(……無駄がない)
どちらも、欲張らない。
必要以上に踏み込まない。
森に敵対する者の歩き方ではなかった。
ビリーは木々の影から、その様子を静かに見送る。
剣に手をかけることは一度もない。
だが、気配だけは切らさなかった。
やがて、荷袋がほどよく膨らむ。
青司が一度、空を見上げる。
リオナが頷き、踵を返した。
(……たぶん帰るんだろうな)
二人は来た道を選ばず、森の流れに沿って歩いていく。
無理に近道を取らない判断も、経験から来るものだ。
森の奥から、ぽつりと煙が見えた。
木立の隙間に、小さな家の屋根。
人の暮らしの匂い。
(……着いたか)
青司が扉を開け、リオナが周囲を一度だけ確かめてから中に入る。
扉が閉じる音は、森に溶けて消えた。
ビリーは、少しの間その場を動かなかった。
気配を探り、異変がないことを確かめる。
やがて、背を向ける。
(ここまでか。一旦戻ってフィオレル様に報告だな)
護衛は終わった。
だが、仕事は終わっていない。
三日後、迎えに来る。
それまで、森が静かであることを祈るだけだ。
ビリーは再び気配を落とし、森の奥へと消えていった。
**************
扉が閉まると同時に、森の気配がすっと遠のいた。
代わりに、木と土と、かすかに残る薬草の匂いが鼻をくすぐる。
「……ただいま、かな」
青司が小さく言う。
「ただいま」
リオナも同じ調子で返し、弓を外して壁に立てかけた。
二人きりになった途端、張り詰めていた空気がゆるむ。
リオナはふっと息を吐き、肩越しに振り返った。
「……紫痕蔦のところで気づいたんだけど、やっぱりビリーさんだったよね」
「そんなに早く気づいてたのか。俺は家に着くころだったけど、気配がなんかプロっぽかった」
視線を交わして、どちらからともなく苦笑がこぼれる。
否定する必要も、改めて確かめ合う理由も、もうなかった。
「領主様の命令だろうし、仕方ないか」
「私たちの邪魔をするわけでもないみたいだしね」
そう言いながら、リオナは荷袋を下ろす。
青司も槍を壁に立てかけ、採取してきた素材を作業台へと運んだ。
まずは片付けだ。
「埃、結構たまってるわね」
「数日いなかったから、換気するよ」
窓が開けられ、森の風が流れ込む。
布巾を濡らし、棚を拭き、床を掃く。
言葉は少ないが、動きに迷いはない。
リオナが瓶を避け、青司が棚を拭く。
青司が道具をまとめ、リオナが位置を整える。
いつの間にか、呼吸が合っていた。
「……最初より、だいぶ片付ける意識が出てきたわよね」
「“最初”を思い出すの、やめてくれ」
ぴしっと即答されて、リオナは笑う。
その笑い声が家の中に残り、少しだけ温度が上がった気がした。
ひと通り掃除が終わると、リオナは持ち帰った食材を取り出す。
「じゃあ、私はご飯作るわね」
「頼む。俺は、解毒薬に取りかかる」
役割は自然に決まった。
台所では包丁の音が規則正しく響き、
作業場では乳鉢を擦る低い音が重なる。
青司は紫痕蔦を慎重に刻み、他の素材と分けて並べる。
毒と薬は紙一重だ。
量、順番、温度――どれか一つでも間違えれば、結果は逆になる。
(……集中)
意識を研ぎ澄ませると、外の音は遠ざかる。
代わりに、台所から漂ってくる香りが、ふと現実に引き戻す。
油の熱。
根菜の甘さ。
森の草の青い匂い。
リオナの気配が、壁越しにわかる。
それだけで、胸の奥が静かになる。
一方、リオナは鍋をかき混ぜながら、耳を澄ませていた。
乳鉢の音が一定で、乱れがない。
――大丈夫。ちゃんと、集中してる。
(……無茶は、しないよね)
心配しつつも、口には出さない。
代わりに、火加減を少し弱め、塩を控えめに入れる。
やがて、解毒薬の一次調合が終わる。
青司は深く息を吐き、肩の力を抜いた。
「……よし」
「ちょうどいいタイミング。もうすぐできるわよ」
声を掛け合うだけで、距離が縮まる気がする。
同じ家に帰ってきた、という実感。
食卓に並んだのは、街から持ってきた柔らかなパンと温かい煮込みと焼き野菜。
特別な料理じゃない。
けれど、森で採れたものを、森の家で食べる――それだけで十分だった。
「いただきます」
「いただきます」
湯気の向こうで、視線がぶつかり、すぐに逸れる。
それが、少しだけ照れくさい。
「……美味しい」
「……なら良かった。立派なお屋敷で、豪華な料理を食べさせてもらってたでしょう?」
そう言いながら、リオナは視線をわずかに伏せ、指先で椀の縁をなぞった。
「それで、私の料理が口に合わなくなってたらどうしようって、少し心配してたのよ」
「……たまに食べるならいい。でも、毎日あれだと落ち着かないな」
少し間を置いて、青司は続ける。
「毎日食べるなら……リオナが作ってくれる料理の方が、俺は好きだ」
短い会話。
けれど、その言葉は、確かな安心になって胸に残る。
外では、森が変わらず静かに息づいている。
中では、鍋の音や器の触れ合う音が重なり、二人の生活が確かに続いていく。
護衛の視線は、もうない。
ここにはただ、帰ってきた家と、役割を分け合う二人がいるだけだ。
その当たり前は、思っていたよりもずっと甘く、心地よかった。




