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宿を選んだのは、ギルドからほど近い通りの石造りの建物だった。

 外観は質素だが、手入れが行き届いていて、窓からこぼれる灯が柔らかい。


 受付で部屋を頼むと、宿の女将がにこやかに応じた。

「お二人様ですね。――あぁ、ご安心を、部屋は別々にご用意できますよ」


 その言葉に、リオナがほっとしたように目を伏せ、青司も小さく頷いた。


 案内された部屋は、温かいランプの光に包まれた、清潔な宿だった。

 洗面所の棚には、一回分と思われる小瓶の透明な液体と、香りのよい石鹸が並んでいた。宿側が気を利かせ、滞在に十分な量だけ用意してくれているようだ。


「これ……シャンプーと、リンス?石鹸も」

 リオナが不思議そうに手に取る。

 女将が得意げに微笑んだ。

「ええ。最近組合から提案があってね。お客さまに“髪を洗う薬”と今までと違う石鹸を置いてみようって。評判もいいんですよ」


 青司はその説明を聞きながら、胸の奥が少しくすぐったくなる。

(ああ……こうして少しずつ、街に広がっていくんだな)


 夕食は一階の食堂でとることになった。

 温かなスープと焼き魚、香草を添えた野菜のプレート。

 飾り気はないが、丁寧な味だった。


 静かに箸を動かしていたリオナが、ふと顔を上げる。

「ねぇ、セイジ。さっきの……商会の名前、“ホヅミ”って」

 青司はスプーンを置き、少しだけ間を置いて答えた。


「うん。――前の世界での、俺の名前なんだ。穂積 青司、って言う」


 リオナは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな表情に戻った。


「……前の世界の、名前」


「うん。もう戻ることはないと思うけど、それでも、あの名前があったから今の自分がある。だから、形だけでも残しておきたかったんだ」


 彼は静かに笑った。

「“森に運ばれてきた命”だからな、なんとか、この世界でも居場所がつくれたら――それでいいかなって」


 リオナはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに微笑んだ。

「……いい名前だと思う。ホヅミ。あたし、好き」


 その言葉に、青司は少し照れたようにうつむく。

 窓の外では、初夏の夜風が看板の鎖をわずかに揺らしていた。



 夕食を終えたあと、二人はそれぞれの部屋へ戻った。

 廊下にはまだ灯がともり、窓の外では虫の声が遠くに響いている。

 青司は湯を借りるために、用意された浴場へ向かった。

 湯気が立ちこめる浴室には木の桶が並び、湯面にはほのかにハーブの香りが漂っていた。


 髪を洗うと、指先から馴染むような感触が伝わる。

 泡立ちは柔らかく、香りはどこか懐かしい。

 ――自分が考えた処方が、こうして街に形として残っている。

 青司は小さく息をつき、目を閉じた。

 温かな湯が肩を包み込み、ようやく緊張がほどけていく。


 上がる頃には、心も体も軽くなっていた。

 部屋に戻る途中、廊下の向こうからリオナが歩いてくるのが見えた。

 湯上がりの髪がまだ少し濡れていて、灯りを受けて柔らかく揺れる。

 その髪から、ふわりと花と森の香りが混じるような香気が漂った。


「いいお湯だったね」

 青司が声をかけると、リオナは少し照れたように笑った。

「うん……びっくりした。お湯が、ちゃんと香ってるなんて。髪までふわっとするの」


「昔は拭くだけとか、水で洗って風で乾かすだけだったから……。こんなの、セイジが作ってくれたからだね。艶も出て、ふわっと香って、手触りもすごく柔らかい」


「街の人たちも、きっと驚いてると思うよ。

 香りや湯の温かさで“日常が少し変わる”ってこと――その小さな変化が嬉しいんだ」


 リオナは青司を見上げ、少しだけ目を細めた。

「セイジが作ったものが、いろんな人の“安心”になってるんだね」


 青司は小さく笑みを返した。

「そうだと、いいんだけどな」


 二人の間に、しばし静かな時間が流れる。

 灯りが壁に揺れ、外の風が小さく窓を鳴らした。


「……今日は、いろんなことがありすぎて目が回りそうだったよ」


「うん……でも、悪くない日だったわ」


 リオナはその言葉に微笑み、軽く頭を下げた。

「おやすみ、セイジ」

「おやすみ、リオナ」


 リオナが部屋の扉を閉めたあとも、青司はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 どこか遠くで湯気の匂いがまだ残っているようで、心の奥に柔らかな灯がともっている。

 ――森の夜とは違う、街の静けさ。

 それでも、不思議と落ち着くのは、きっとこの世界で少しずつ“居場所”ができてきたからだ。


 青司はそのまま、静かに自分の部屋へ戻った。

 窓辺の灯を落とすと、外には金色の月が浮かんでいた。




 翌朝。

 宿の窓から差しこむ光が、白いカーテンを透かしてゆらめいていた。遠くから鳥のさえずりが聞こえ、清掃局に雇われた人たちが朝の光に照らされたばかりの石畳を、洗剤でせっせと磨く音がかすかに届いてきた。


 青司は目を覚まし、深く息を吸い込んだ。

 ――湯気の香りが、まだ少し残っている気がする。

 体の芯まで温まった昨夜の感覚が、ほのかな余韻として残っていた。


 支度を整えて一階の食堂へ降りると、リオナがすでに窓際の席にいた。

 朝の光を受けた彼女の髪は、昨日よりも柔らかく、ふわりと揺れている。

 櫛を通したばかりなのか、毛先が光を含み、ほんのりと香りが漂った。


「おはよう、リオナ。早いね」

「うん、なんか……外の音がせわしなくて、落ち着かなくて、目が覚めちゃった」

 そう言って笑う彼女の表情には、どこか穏やかな余裕があった。


 焼きたてのパンと温かなスープが運ばれ、二人は静かに朝食をとる。

 湯気の立つスープを口に運ぶと、体がまた少し温まるようだった。


「今日はどうする?」

 青司の問いに、リオナはパンをちぎりながら考えるように言った。

「ラシェルさんたちに、セイジはギルドにくるように呼ばれてたけど……私はお姉ちゃんのところに行ってもかしら」


「もちろんだよ。俺も少し、整理したいことがある」

 青司はパンくずを指で払って、微笑んだ。

「商会の話をもう少ししてこないといけないんだろうしな」


 リオナは頷くと、カップの中の湯を見つめた。

 その瞳には、暖かな色が宿っている。


「ねぇ、セイジ」

「ん?」

「昨日ね、あたし、お風呂に浸かってた時に思ったの。――セイジは、森に来てから、ずっと寒かったんじゃないかって」


 青司は少し目を瞬かせた。

「寒かった?」


「うん。命を助けたはずの私に、いきなり首を絞められたし……

セイジからすれば、わけのわからない森に落とされたんでしょう。心が冷えきるわよね。

でも、ほんの少しくらいは、温かく感じてくれてたら良いなって」


 青司は、ゆっくりと笑った。


「なに言ってんだよ。確かにいきなり森に落とされた感じだったし、首も絞められたけどさ。でも、毎日美味い飯を作ってくれて、世話してくれたリオナがいたから、寒くなんて感じてなかったぞ。もっと、もっと、あったかくしていこう。俺たちの暮らしも」


 窓の外では、朝の陽射しが石畳を照らしていた。

 通りには人の姿が増え、屋台の呼び声や馬車の車輪の音が重なっていく。


 青司とリオナは食事を終えると、宿の女将に礼を言い、荷をまとめて外へ出た。

 扉の向こうには、昨日よりも少し明るい風が吹いていた。

 その風に、リオナの髪がふわりと舞い上がる。


 青司はそれを目で追いながら、小さくつぶやいた。

「――またあとでな」

「うん」


 二人は、同じ朝の光の下で、それぞれの道へ歩き出した。




**************




 通りの角を曲がると、見慣れた黒猫の看板が見えた。

 朝の陽射しを受けて、黒い塗料の尻尾がきらりと光っている。

 街の空気はどこか湿り気を帯びていて、パンを焼く香ばしい匂いと、スープの湯気が入り混じって漂っていた。


 扉を押して入ると、香草の香りがふわりと広がる。

 木の床がきゅっと鳴った。奥から、明るい声が飛んでくる。


「――リオナ? あらまぁ、また来てくれたのね!」


 振り返ると、エプロン姿のマリサが笑顔で立っていた。

 髪は艶やかに光り、肌は湯上がりのようにしっとりしていた。

ただ、頬のあたりにはほんのりとした青白さが残り、唇の色もどこか薄い。

それでも、笑顔には以前より柔らかい温かさがあった。

 その背後では、ベルドが鍋の中をかき混ぜながら「こっちにも挨拶してけよ」と笑っている。


 リオナは思わず目を瞬いた。

「お姉ちゃん……髪、すごく綺麗。前より光ってる」

「ふふ、わかる? あのね、昨日からお風呂が使えるようになったのよ!」

 マリサは嬉しそうにくるりと一回転してみせた。

その動きを見たベルドは、思わず手を伸ばしかけてから、静かに笑った。

「……あんまりはしゃぐなよ」

その声には、少しの心配と、それ以上の愛情が滲んでいた。


「セイジさんからもらった入浴の薬……シャンプーとコンディショナー、だったかしら? あれを使ったら、この艶。ボディーバターで肌もしっとりなの」


「そうでしょ! すごくいいのよ。セイジの作ってくれる物って、自然に笑顔になっちゃうのよね……」


「そうなの! もうね、井戸水で冷たく洗ってた頃には戻れないわ」

 マリサは嬉しそうに笑い、手を合わせた。

「ベルドもね、“こんなに気持ちいい湯は生まれて初めてだ”なんて言って。あの人も上機嫌なのよ」

「ふふっ、よかったね」

 リオナは肩を揺らして笑った。


 テーブルに座ると、マリサが温かいミルクを出してくれた。

 表面に立つ泡が、朝の日差しに白く光る。


「それで? あんたはどうなの。最近は?」

「えっと……セイジが商会を立ち上げることになってね。昨日、ギルドで手続きをして」

「まぁ! 本当に? すごいじゃない」

 マリサの声がひときわ明るくなる。

「なんていう商会?」

「ホヅミ商会。セイジの名前から……あっ、これは、聞かなかったことにしておいて」

「……分かったわ。ホヅミってなんだか、優しい響きね」

 マリサは微笑み、湯気の向こうで妹を見つめた。

「それにしても、リオナ。顔が柔らかくなったわね。前より、ずっと幸せそう」


「えっ、そ、そんなことないよ」

 リオナは慌てて耳を伏せたが、しっぽがふるふると揺れている。

 マリサはその様子を見て、小さく笑った。

「ま、そういうことにしておくわ。ずいぶんと仲良くなったのね。ふふ」

 その言葉には、からかいよりも温かな響きがあった。


 ふと、マリサがカップを置く音がした。

 彼女の表情が少し真剣になる。

「ねぇ、リオナ。実はね……」

「うん?」

「私、お腹に赤ちゃんができたの」


 リオナの瞳がまん丸になる。

「……えっ、本当に?」

「うん。まだお医者さんにもはっきりとは言われてないけど、たぶんね。最近ずっと貧血気味だったの。昨日からなんだか身体の調子が違って……もう、驚いたわ」

 マリサは照れたように笑い、指先でエプロンの端を撫でる。

「ベルドなんて、もう浮かれちゃって。普段はしないトイレ掃除まで手伝うのよ」

 その声に、厨房から「おーい、聞こえてるぞ」と陽気な返事が返ってくる。


 リオナは目を潤ませ、姉の手を取った。

「おめでとう……お姉ちゃん。本当によかった」

「ありがとう、リオナ」

 マリサは妹の手を包み込むように握り、優しく微笑んだ。

「ねぇ、このお風呂のことも、セイジさんに伝えておいて。身体がきれいになるだけじゃなくて、心まで温まるの。……きっと、そういうものを作ってくれた人なんだと思う」


「うん。伝えるよ、絶対」

 リオナは頷いた。

 窓の外では、パン屋の呼び声が聞こえ、朝の光が看板の黒猫を照らしている。


 マリサは湯気越しに妹を見つめ、穏やかに言った。

「……リオナ。あんたも、ちゃんと幸せになるのよ」

 その言葉に、リオナは少し照れくさそうに笑った。

「うん。……きっと」


 厨房からベルドが顔を出す。

「おーい、話はそのへんにして、温かいうちにスープ食え!」

 二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。


 朝の光が窓辺に差しこみ、テーブルの上で湯気がゆらゆらと揺れた。

 その温もりは、森で過ごした季節とはまた違う、街の静かなぬくもりだった。



**************



 黒猫亭の前を、急ぐような足音が三つ駆け抜けていった。

 店の前で止まり、息を整える音が聞こえる。

 まだ開店前の店に、控えめなノックの音。


「はいはい、今開けますよー」

 厨房から顔を出したベルドが、タオルで手を拭いながら扉を開けた。


 立っていたのは、揃いの制服に身を包んだ三人組――商業ギルドの徽章を胸に付けた男女だった。


「あの、リオナさんはいらっしゃいますか」

 一歩引いた口調で、中央の女性が声をかける。


「はい、ここにいますけど」

 店の掃除をしながら、姉のマリサと雑談していたリオナが顔を上げた。


「突然の訪問、失礼いたします。私たちは商業ギルドの所属でしたが……本日付けで辞任いたしました。――そして、ホヅミ商会に入会を希望しております」


「……え? 商会に? あ、あの、私に言われても……」

 リオナが戸惑いながら視線を泳がせる。

 女性は少し柔らかく微笑み、静かに続けた。


「ギルド長より、“まずはリオナさんにご挨拶をして、許可をいただくように”と。――新しい商会のことですから、セイジさんの関係者にきちんと筋を通すように、とのことでした」


「ど、どうして私に……」

 リオナの頬がわずかに赤くなる。

 横で聞いていたマリサが、くすっと笑って言った。


「そりゃあ、リオナがヤキモチ妬かないようにって気づかいなんじゃない? ――こんな綺麗な人たちが仲間になるんだもの」


「えっ、ちょ、ちょっとお姉ちゃん!」

 リオナが耳まで赤くして抗議すると、マリサはおどけて肩をすくめた。


「だったら、“セイジさんを取らないでね”って約束でもしてもらえば?」


 その言葉に、三人のうちの一人――栗髪の女性が小さく笑った。

「ご安心ください。私は年上の男性が好みですから」


「私は冬前に結婚を控えてるんです。婚約者がいるので、安心してくださいね」


「……俺は妻がいるので。って、俺のことはいいか」


「もう……! そんなこと、お願いすることじゃないでしょ!」

 頬をふくらませたリオナに、マリサは手をひらひらと振って笑った。


「はいはい、冗談よ。でもいいじゃない、仲間が増えるのは」


 リオナは小さく息をつき、三人に向き直った。

「セイジは……少し不器用だけど、すごく真面目な人。きっと困ることもあると思うけど……どうか、セイジの味方になってあげてください」


 三人は真剣な表情で頷いた。

 その瞬間、リオナの胸の奥で、静かに何かが温かく広がった。


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