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  リオナと宿の前で別れた青司は、商業ギルドへと向かった。

 朝の通りはすでに活気づき、パン屋の香ばしい匂いが漂っている。

 青銅色のギルドの門をくぐると、書類を抱えた職員たちが忙しなく行き交っていた。

 昨日、ギルド長のラシェルから「明日も顔を出すように」と言われていたことを思い出しながら、青司は少し身なりを整え、執務室へと通される。


 重厚な扉の奥には、木の香りと紙の匂いが混じる落ち着いた空間が広がっていた。

 机の向こうに座るラシェルの傍らには、彼女の夫で副ギルド長のガラントの姿もある。

 二人は、まるで人の心の内まで見透かすような目でこちらを見ていた。


「おはようございます。昨日はありがとうございました」

 軽く頭を下げて席に着くと、ラシェルがゆっくりと視線を動かす。


「リオナさんは?」


「今日は姉のマリサさんのところに出かけています。黒猫亭という食堂を旦那さんとやっているんです」


「ほう、あの食堂か。評判がいいと聞いている」

 ガラントが感心したようにうなずく。


「そう。……なにかあったわけではないのね?」

 ラシェルは少し眉を寄せ、青司の顔を探るように見つめた。


「いえ、特には」

 青司は小さく首を振る。昨日の夜の穏やかな笑顔が頭に浮かんで、思わず口元が緩む。


 ラシェルはその表情の変化を見逃さなかった。

 ふっと目を細め、少し声を落とす。

「ところで――あなたとリオナさんは、どういう関係なの?」


「関係……?」

 青司は一瞬言葉を探し、首の後ろをかいた。

「うーん、友達、ですかね?」


 その答えに、ラシェルとガラントが顔を見合わせる。

 ラシェルは眉を上げ、ガラントは喉の奥で小さく笑った。


「友達、ねぇ……」


 ラシェルは小さくため息をつくと、椅子を離れた。

「少し席を外すわ。――ガラント、続けておいて」


 扉が閉まると、部屋に静けさが落ちる。

 外では、ラシェルが誰かに何か指示を出している声がかすかに聞こえた。

 青司には、何をしているのか見当もつかない。


 その間、ガラントが柔らかい口調で促す。

「森での生活を、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」


 青司は少し迷いながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。

 ――怪我をして倒れていたリオナを助けたこと。

 ――そのまま一緒に暮らすようになったこと。

 ――彼女がとても綺麗で、料理が上手で、どんな時でも周りを気遣う人だということ。


話しているうちに、自分でも気づかないうちに声が柔らかくなっていた。

「……正直、俺なんかと一緒にいてくれるのが、不思議で仕方がないんです」


 ガラントはそれを静かに聞いていたが、やがて口の端を上げた。

「なるほど。森での共同生活か……そういうものは、心を近づけるからな」


 ちょうどその時、扉が開き、ラシェルが戻ってきた。

 執務室には、ひとときの穏やかな沈黙が流れる。

 ガラントは静かに紅茶を口にし、窓の外では白い光が石畳を照らしていた。

 その光景を眺めながら、青司はなんとなく落ち着かない気持ちで背筋を伸ばした。


「なるほどね」


 ラシェルは席に戻ると、少し柔らかく微笑んだ。

 その目には、どこか含みのある優しさが宿っている。

「森で出会って、いまは一緒に暮らしている……そういう関係なのね」


「……ええ。あ、でも別に、そういう意味じゃ――」

 思わず言い訳じみた言葉が口をついて出る。

 誰かに勘ぐられるのも、なんとなく気恥ずかしかった。


 ラシェルは軽く笑みを浮かべた。

「分かってるわ」


軽く手を振って言葉を遮ると、ラシェルは書類を数枚めくりながら話題を変えた


「それより、今日はもう少し話しておきたいことがあるの。――領主のフィオレル子爵の件よ」


 青司は少し驚いたように目を上げた。

 ガラントがカップを置き、低い声で言葉を継ぐ。


「リルトの領主、フィオレル・ド・ヴァルド子爵閣下だ。

 この街を任されてから十余年、停滞していた交易を再び活性化させ、荒れていた治安を立て直した。

 その功績が王都にも届き、近々伯爵へと陞爵されると目されている」


「交易も内政も、どちらも抜群に優れた方よ」

 ラシェルが補足するように言う。

「外交の折衝も巧みで、隣国の使節団とも堅実な信頼関係を築いてきたわ。

 おかげでこの街は、いまや“人と物が交わる交差点”と呼ばれるほどになったの」


 青司は自然と頷いていた。

 ――なるほど、リルトがここまで整った街なのは、この領主のおかげなのかもしれない。

 初めてリルトを訪れたとき、街の整った道路や市場の賑わいに驚いたのを思い出す。


「そんな立派な方に……俺が、何か?」


「ええ。あなたを紹介しようと思っているの」

 ラシェルは目線を上げ、真っすぐに青司を見つめた。

「薬師として、そして“ホヅミ商会”の代表として。

 あなたが扱う薬や入浴薬は、領主家でもすでに話題になっているの。

 “森から来た錬金の職人”として、正式に面会したいと要請があったわ」


「俺に……?」


「そう。リルトの新しい息吹としてね」

 ラシェルは少し笑みを浮かべ、目尻を和らげた。

「――もっとも、今、紹介する予定だった職員たちが先にリオナさんのもとへ行ったみたいだけど」


「え、リオナのところに?」

「ええ。あなたの商会に入りたいという子たちよ。

 本当なら私がここで紹介するつもりだったんだけど……どうやら、あなたの“友達”の方が先に頼られたみたいね」


 軽い冗談めかした口調に、青司は苦笑いを返す。

 ラシェルとガラントの視線はやはり、どこか温かい。

 その空気の中で、青司の胸の奥には少しずつ、

 ――自分の活動が街に根付き始めているのかもしれない、という実感が芽生えていた。



 部屋の窓から射す光が、机上の書類の端を白く照らしていた。

 ラシェルはその束を整え、穏やかに青司の方を見た。


「さて――少しの間、その子たちが戻るまで話しましょうか」


「はい」


「ホヅミ商会。名前の響きは優しいけれど、商いの世界はそう甘くないわ」

 ラシェルは口元を緩め、軽く冗談のように言った。

「あなたの作る物は、人を和ませて……そして、ほんの少し高揚させるの。

まるで――日々の疲れを癒して、明日が少し楽しみになるみたいにね。

私はそれを信じているの」


「……ありがとうございます。でも、俺はまだ、商いのことは右も左もわからなくて」


「それでいい」

 今度はガラントが静かに口を挟んだ。

「商会を支えるのは、最初から腕利きの商人ではなく、“一緒に成長できる人間”だ。

 ――あんたの真っすぐなところが、それを引き寄せているんだろう」


「そんな大層なものじゃ……」

 青司は苦笑して頭を掻いた。


 ラシェルは、湯気の立つカップを持ち上げながら続けた。

「実はね、ギルドの中にもあなたの仕事を見て、感化された者がいるの。

 “あの人となら、新しい道を歩けるかもしれない”って」


 その言葉に、青司はわずかに驚いたように目を上げた。


「俺なんかと……ですか?」


「ええ。だからこそ、今日呼んだのよ」

 ラシェルは優しく微笑んだ。

「あなたの誠実さは、思っている以上に見られている。人は、そういう光に自然と集まるものなの」


 そのとき、扉の外で控えの者が軽くノックした。

 ラシェルが顔を向け、静かに頷く。

「――どうやら、その“光に引かれた人たち”が戻ってきたようね」


 青司は思わず息を呑み、背筋を伸ばした。

 ラシェルの目には、柔らかな光と、どこか母のような確信の色が宿っていた。



扉が開き、三人が執務室に入ってきた。

長身の男、落ち着いた女性、そして少し緊張した表情の若い女性――順に一歩ずつ前に進む。


「お初にお目にかかります。クライヴです。

 使う人の気持ちを考えて作られたセイジさんの商品に、強く惹かれました。

 行政でも、宿でも、食堂でも――どんな場所へでも売り込みに行かせてください」

男は自信に満ちた声で名乗った。営業畑で培った堂々たる立ち居振る舞いが、そのままにじんでいる。


「ミレーネです。素材と職人との橋渡しをしてきました。

 リルトの街だけでなく、近隣の職人たちにも顔が利きます」

落ち着いた声でまっすぐ青司を見つめる。

その瞳には、仕事への誇りと、青司への確かな信頼の光が宿っていた。


「エリンといいます……経理をしていましたが、薬草や製品にも関心があって。

 最近は薬草を栽培する農家と連携し、いくつかの試験区画を作っていました」

最後に名乗ったエリンは、書類を抱えた手をぎゅっと握りしめ、

少し緊張した面持ちで青司を見上げる。



ラシェルが微笑みながら口を開いた。

「――三人ともあなたの作ったものに惹かれて来たのよ。森の薬師としてではなく、ホヅミ商会の仲間として、ね」


青司は一瞬言葉を失った。思いがけず訪れた“仲間の申し出”。

リオナと共に過ごす静かな日々の延長線に、今、新たな世界が差し込んできたようだった。


クライヴが軽く頭を下げる。

「あなたの石鹸や入浴剤――ただ売れるからではなく、人の心を動かす力があると感じました。

私には営業の経験があります。リルトや近隣の街に広め、商会の足場を作りたいです」


ミレーネは少し笑みを浮かべ、慎重に言葉を選んだ。

「素材の目利きとして、あなたが使う薬草や香料をもっと活かせるように、取引や調達をサポートしたいと思っています」


エリンは少し顔を赤らめながら、しかし確かな声で告げた。

「数字や経理は私の専門です。加えて、薬草の栽培や管理を手伝い、より良い製品作りに貢献したいです」


青司は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「え、えっと……皆さん、本当に……その……」

言葉がうまく出ない。まだ、自分が商会を率いるという実感も薄いのだ。


ガラントが静かに口を挟む。

「最初から完璧な商会を作る必要はない。大切なのは、共に歩もうとする意志だ。

 ――セイジの誠実さが、俺の部下……いや、元部下たちを惹きつけたんだからな」


ラシェルも柔らかく微笑み、頷く。

「セイジさん、あなたには心強い仲間ができたわ。

 三人とも、それぞれの分野で力を発揮できる人たち。

 互いに補い合いながら、きっと商会を育てていけるはずよ」


青司は一息つき、胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。

「……できたばかりの商会に来てくれて、本当にありがとうございます。

 これから、どうぞよろしくお願いします」


三人は揃って小さく頭を下げ、決意を表した。

新しい日差しの下、ホヅミ商会の未来が、少しずつ形を帯び始めた瞬間だった。




 室内に小さな間が生まれたあと、ラシェルが静かに口を開いた。


「――さて、取り急ぎ一つ、重要な仕事があるわ。

 今日の夕刻、領主フィオレル子爵との面会をしてもらいたいの。

 フィオレル様から“できるだけ早く”と要請があったのよ」


 そこでラシェルは、少し柔らかく微笑んだ。

「セイジさん、本当は森に帰ってホッとしたいところだったでしょう?

 でも、せっかく“ホヅミ商会”が動き出したのだから――いまは流れを止めずに前へ進んでほしいの」


「えっ、今日ですか?」

 青司が思わず目を見開くと、クライヴがすぐに口を挟んだ。


「領主との面会なら、手土産は必須です。品を売る場ではなく、“信頼”を贈る場だと考えてください」」


「確かに……」

青司が考え込む間に、ミレーネが落ち着いた口調で続ける。


「それと、セイジさん。身だしなみも整えましょう。今日はスーツを着た方がいいわ。リルトでは、正式な場ではそれが礼儀です」


「え、スーツ……持ってないんですけど」


 エリンがすぐに書類をめくり、顔を上げた。

「経費で賄います。せっかくですし、季節に合わせて何着か用意しておきましょう」


 青司は苦笑しながら頭をかいた。

「なんだか本格的ですね……」


「当然ですよ」

クライヴが笑う。

「あなたはもう、商会の顔ですから」


 話がまとまると、ミレーネが椅子を立つ。

「じゃあ私は、ドナートの工房に薬草をもらいに行きます。材料が揃えば、あなたの手で贈り物を作れるのでしょう?」


「はい。俺も、やっぱり買った物より、自分の手で作りたいです」

青司の声には、静かな決意がこもっていた。


 「では、その間にクライヴと一緒に仕立屋へ行くといいわね。

 エリンには何度も手間をかけてしまうけれど、リオナさんのところに寄って――仕立屋で合流すると良いわ。彼女の好みも聞いた方がいいでしょう」


 ラシェルはそう言って指示を出すと、窓辺の光を受けながら穏やかに微笑んだ。

「あなたの“誠意”は、見た目にも宿るものよ」


その言葉に背を押されるように、青司は立ち上がった。

窓の外では、昼の光が静かに街を満たし始めていた。




――夕刻。


 陽が傾き始め、リルトの街を金色の光が包んでいた。

 石畳の上を進む馬車の揺れの中で、青司は膝の上に置いた包みを見つめていた。

 包みの中には、自ら調合した薬草の香りを宿すシャンプーとコンディショナー。

 領主フィオレル・ド・ヴァルド子爵への、最初の手土産だ。


 ラシェルが用意してくれた馬車には、なぜかリオナの姿もあった。

 淡い青の外套をまとい、窓の外を静かに眺めている。

 普段の素朴な装いとは違い、今日は少しだけ華やかだった。


 「……なんで、私まで。私はただの狩人なのに」

 何度目かのぼやきに、青司は思わず口元をほころばせる。


 「ごめんな、緊張するよな。領主様から一緒に呼ばれてるみたいだから、悪いけど付き合ってくれ。あとで、このお礼はしっかりするから」


 リオナは少しむくれたように肩をすくめた。

 「……セイジが悪いわけじゃないけどさ。特にお礼なんていらないし」


 「けど、巻き込んだのは俺だからさ。気を使わせて悪いな」

 「ほんとね」

 そう言って、リオナは小さく笑った。

 その笑みには、緊張の中にもどこか安堵の色が混じっていた。


 ――昼、仕立屋で新しい服に袖を通した時も、リオナは同じように笑っていた。

 「似合ってる」

 そう言って、襟の形を整えてくれた彼女の手のぬくもりを、今も思い出す。


 馬車の窓の外、街の灯が少しずつ灯り始める。

 昼の喧騒が静まり、リルトの街が夜の顔へと変わっていく。


 「フィオレル様は、どんな方なんですか?」

 青司の問いに、ラシェルがゆっくりと答える。

 「誠実で、民をよく見ておられる方よ。……けれど、見る目も鋭い。ごまかしは通じないわ」


 青司はうなずき、包みをそっと握り直した。

 ――自分の作ったものが、この街の役に立てればいい。


 やがて馬車が城門の前で止まる。

 衛兵が敬礼し、ラシェルが先に降りる。

 その背を追うように、青司とリオナも静かに足を下ろした。


 初夏の風がやわらかく吹き抜け、二人の髪をふわりと揺らす。


 「行きましょう」

 ラシェルの一言に、青司は深く息を吸い込み、胸の奥で決意を固めた。


 ――ホヅミ商会の、最初の一歩が始まろうとしていた。

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