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3

  夜更け、静かな森の家に、かすかな衣擦れの音が響いた。

 獣人の少女が、閉じていた瞼をわずかに震わせる。

 重たいまぶたを押し上げるようにして、暗がりの天井が視界に入った。


 ――ここは……どこ?


 意識はまだ霞がかかったようにぼんやりとしている。

 頭の奥に鈍い痛みが波のように押し寄せ、腹部には重く鈍い感覚が残っていた。だが、焼け付くような苦しみは和らぎ、代わりにきつく巻かれた布が呼吸のたびにかすかにきしむ。


 少女は反射的に耳を立てる。

 獣人族にとって、目覚めたときに最初に集めるべき情報は「音」だった。生き延びるための本能が、周囲を探る。


 ……すぐ近くから、規則正しい寝息。


 ぎくりとし、首をわずかに動かす。

 視線の先――木の机に腕を投げ出し、眠り込んでいる少年の姿があった。



 「……っ」


 心臓がどくんと跳ねる。

 知らない場所。知らない匂い。知らない人間。しかも男。


 猫人族にとって、無防備に体を預けるということは、一族や血統に直結するほどの重大な意味を持つ。ましてや、眠っている間に誰かのそばに横たわるなど、ありえない。


 なのに――自分は今、裂かれた服の代わりに、厚手の織物で作られたウールブランケットを一枚まとっているだけ。あまりに無防備すぎる姿だった。


 頬に熱が走り、羞恥と困惑と、わずかな恐怖が胸を締め付ける。


 (な、なんで……私はどうしてここに……?)


 記憶をたどる。

 狩りの帰り、獲物を背負い森を歩いていた。

 ――気配。影。鋭い爪か牙。腹に走った激痛。

 そこまで思い出したところで、視界がぐらりと揺れ、吐き気がこみ上げた。



 必死に呼吸を整えながら、少女は少年を観察する。

 まだ幼さの残る顔立ち。乱れた黒髪。血に染まった服を脱ぎ捨て、今は清潔なシャツに着替えている。

 手の甲や袖口に乾いた赤黒い染み――それはきっと、自分の血だ。


 寝息は深く、嘘を隠すような不自然な鼓動もない。

 敵意はない。けれど、だからといって信じていいのか……。



 少女はブランケットをぎゅっと掴み、胸元まで引き寄せる。

 耳と尻尾が落ち着かず、ピクリと震え続けた。


 「……なんで……」


 かすれた声は喉にひっかかり、少年には届かない。


 逃げたい。けれど体はまだ動かない。

 仕方なく身を小さく丸め、厚手のウールブランケットの中に潜り込む。

 視線だけは外さない。獲物を狙う獣のように、眠る少年を警戒し続ける。


 森の外から、夜虫の声が絶え間なく響いている。

 深い夜の静けさに包まれながら、やがてまぶたは再び重くなり――少女の意識は浅い眠りへと引き込まれていった。




**************




  静まり返った森の家。

 机の上には乾きかけた血の染みと、赤く汚れた布切れ、空になった薬瓶が散らかっている。

 床板には赤黒いしみがまだ斑に広がり、鼻をつく鉄の匂いと、薬草の青臭さが入り混じって漂っていた。


 そのただ中で、青司は机に突っ伏し、疲労に沈むように深い眠りに落ちていた。

 その寝息は、あまりにも無防備で。



 ――気を失ったわたしを、ここまで運んだのはこいつだ。

 ――服を裂き、裸にしたのも……こいつ。


 猫人族の少女は、厚手の織物で織られたウールブランケットの中で身を震わせながらも、心を決めていた。

 理由がどうあれ、肌を晒されたという事実は、彼女にとって屈辱に等しい。許すわけにはいかない。


 「……聞き出す」


 かすれた声で小さく呟く。

 彼女はブランケットを体に巻き付けるようにしてそっと起き上がった。まだ体は重く、腹部には鈍い痛みが残っている。それでも、獣人の本能と狩人としての矜持が、彼女を突き動かした。


 慎重に歩みを進め、机に突っ伏す青司の横へ回り込む。

 そして一気に、その肩を押して仰向けに倒した。



 「うわっ!?」


 寝ぼけた声を上げた瞬間、少女はブランケットを押さえながら馬乗りになり、両手で彼の喉を掴んだ。

 鋭い爪が食い込むほどの力で、必死に睨み据える。



 「……ねえ、起きなさいよ!」


 鋭い叱咤が夜の静けさを破った。

 青司は目を見開き、喉を押さえつけられながら必死に声を絞り出す。


 「は、離せっ……!な、なんだよっ……!」

 「質問はこっちがするの! ……答えて、なんでわたしを裸にしたのよっ!」


 琥珀色の瞳は怒りに揺れ、耳は逆立ち、尻尾は大きく膨らんでいる。

 だがその頬には羞恥の赤みも差していて、怒りと恥ずかしさが入り混じっていた。



 青司は慌てて両手を上げ、声を掻き絞る。

 「ち、違う! 服を裂いたのは……傷の治療のためだ!」


 「……治療?」

 少女の目が細められる。


 「腹に……大きな傷があったんだ。このままじゃ血が止まらなかった。……だから、裂いて、薬を使ったんだ!」


 息苦しさに顔を赤くしながらも、青司の声には必死さしかなかった。

 猫人族特有の鋭敏な耳で、彼女はその心臓の鼓動を読み取る。

 ――嘘を吐くリズムではない。


 首を締める力が、わずかに緩んだ。



 「……ほんとに、それだけ?」

 「それだけだ! 誓って、何もしてない!」


 しばし睨み合ったあと、少女は小さくため息をつき、手を放す。

 青司は咳き込みながら喉を押さえ、荒い息を整える。

 少女はブランケットを胸元まできっちり引き寄せ、青司から降りると、床に膝をついたまま彼を見据えた。


 「……仕方ないわね。一応、信じてあげる。命を助けてくれたのは本当みたいだし」

そう言いつつも、頬の赤みはまだ引かず、尾もそわそわと揺れていた。


 「……信じてくれるのか」

 「一時的にね。嘘をついてたら、鼓動がおかしな音するでしょう。あんたの音はおかしくないから」



 少女はまだ赤黒い染みの残る床板や散乱した薬瓶を見回し、唇をかんだ。

 ――血の匂い。薬草の匂い。間違いなく、ここで処置を受けたのだ。


 「……じゃあ、教えてよ」

 リオナは床に膝をつき、じっと彼を見据える。


 「あんたはいったい誰? ここはどこなの?」


 声は低いが、どこか幼さを隠しきれない。

 鋭さと、不安を隠そうとする女の子らしさが混ざっていた。


「俺は青司。……セイジでいい。気づいたらこの森にいたんだ。ここは森の中の家みたいな場所で……」


青司は一瞬戸惑ったが、やがて真剣な表情に変わる。


 少女は耳をぴくりと動かし、その言葉を吟味する。その声は曖昧で、この地に根を持たない者のようで――得体が知れない。


「セイジ、ね……」

 小さくつぶやいたその声音には、まだ疑いが残っていたが――


 羞恥も警戒も消えないまま。

 けれど命を救われたことだけは否定できず、胸の奥で怒りとも安堵ともつかない熱が、じくじくと揺れ続けていた。



**************



 作業場に漂う血と薬の匂いが、まだ生々しく空気を重たくしていた。

机の上では薬瓶が転がり、床板には拭ききれなかった赤黒い染みが点々と残っている。


その中で、青司は咳を整え、少女の真剣な眼差しに向き合った。


「俺は……セイジ……こっちの人間じゃないんだ」

(本当か嘘かわかんないけど、分かるって言うなら本当のこと言っとくか)


「こっちじゃない?」

少女の耳がぴんと立つ。


青司は言葉を探しながら続けた。

「気づいたらこの森にいて……この家にたどり着いた。もともと住んでたわけじゃない。前の世界から、突然ここに来たんだ」


「……前の世界……?」

少女の瞳がわずかに細められる。荒唐無稽に聞こえる響きは、理解を拒んでいた。


青司は苦笑し、手を広げて見せる。

「信じられないだろうな。俺だって信じきれてない。でも本当なんだ。何も持たずに落ちてきたみたいで……ただ、薬の知識とかは付けられたみたいだから、それで生きていこうかと思ってんだよ」


少女は黙って彼を見ていた。

――ここに残る血痕と薬の匂いが、その言葉を裏付けている。必死に処置をし、薬を調合した痕跡が確かにあった。


「……あなたの言う世界のことは分からない」

少女はようやく口を開いた。

「だけど、薬師としての腕は確かみたいね。わたしが生きてるのは、その証拠よね」


青司はほっと息をつき、そして顔を赤らめて言葉を続けた。

「それに……さっきも言ったけど、服を裂いたのは治療のためだけなんだ。誓って、他に意味なんてない!」


必死の言葉に、少女の耳がぴくりと動く。

「……ずいぶんと取り乱すのね」


「当たり前だろ! 俺は女の人に触れたことなんて、今までなかったんだ! だから……その……」

耳まで真っ赤にして視線を逸らす青司。


その不器用な姿を見て、リオナは鼻先で小さく笑った。

――下心の影はない。確かに、こいつは何もしていない。


ようやく緊張が少しほどけ、少女は体に巻きつけていた織物の厚手布(ウールブランケット)を整え直し、改めて彼に向き合った。


「……わたしはリオナ。猫人族の狩人よ」

その声音には、狩人としての誇りと、命を救われた礼がこもっていた。


「リオナ……」

青司はその名を繰り返し、胸に刻むように呟いた。


朝の光が散らかった作業場に差し込み、二人を静かに照らしていた。



リオナはなおも厚手布にくるまりながら、腹部の痛みに耐えていた。体を起こすのも一苦労で、尾が小さく揺れる。


それでも――知りたいことは尽きなかった。

「……ねぇ、セイジ……どうしてこの森で暮らしてるの? ここはあなたの家じゃないんでしょ?」


青司はわずかに目を伏せ、答える。

「一昨日、気づいたらこの森の中にいて……この家を見つけたんだ。まるで俺のために用意されたみたいに道具や寝具が揃ってて……だから、住むしかなかった」


リオナは息を吐き、室内を見回す。血の跡、薬瓶の残り香、乾きかけた布切れ――すべてが彼の言葉の裏付けとなる。


「それじゃ……これからはどうするの?」


「とりあえず生きていくしかない。ここなら薬草もあるし、なんとかやれると思う」

彼の声はぎこちなくも、真剣だった。


リオナはわずかに頷き、布を握り直す。

「……そう。あなたが薬師なのは分かった……少しは信じてもいいのかもしれない」


だが集中して話しているうちに、不意にお腹が鳴った。


「……っ」

リオナの頬が一気に赤く染まる。厚手布にすっぽり包まれたままの体は、羞恥を隠すにはあまりに不自由だった。


青司は慌てて顔を見合わせる。

「お、お腹……空いたのか」


リオナは小さく頷く。

「……ちょっとだけ」


作業場に漂う血と薬草の匂いは、余計に空腹を刺激していた。


青司は苦笑しつつ、戸棚から昨日のスープを取り出した。

「……あの、これしかないけど……」


器を手渡されると、リオナは耳を伏せ、照れくさそうに呟いた。

「……ありがとう」


スプーンを口に運ぶ。――淡白で、塩気も薄い。正直、美味しいとは言い難い。

リオナは耳を後ろに傾け、顔を少ししかめる。


青司もその反応を見て苦笑した。

「……やっぱりそうだよな」


二人は顔を赤くしながら、それでも器を空にしていった。


朝の光に包まれる森の家で、ぎこちなくも小さな信頼が芽生え始めていた。



**************



 食後の静けさが作業場に戻った。

スープを飲み終えたリオナは、まだ織物の厚手布(ウールブランケット)に体をくるみながら、小さくため息をつく。粗い織り目が肌に触れてちくりとした感触を残し、羊毛の温もりが体温を閉じ込めていた。


耳と尻尾は少し落ち着きを取り戻したものの、視線は青司に向けられている。


「……これ、高級品なんだろうけど、そろそろ……なにか着られるものがあれば……」


布をぎゅっと胸元で握りしめ、声は控えめ。だがその琥珀の瞳には「気づいてよ」という訴えが浮かんでいた。


青司は眉をひそめ、ぽかんと口を開けたまましばらく黙っている。

「え、あ、服……?」

まるで意味を理解できていない子どものように言葉がもたつく。


リオナは耳をぴんと立て、鋭い視線を向ける。

「……ほら……このままじゃ、寒いし……恥ずかしいの」

声は強がりに聞こえたが、頬は赤く、尻尾の先は所在なげに揺れていた。


青司はようやく事態を飲み込み、寝室に駆け込む。

棚から取り出したのは、リネンのシャツと素朴なズボンだった。

「えっと……これで……いいかな……?」

顔を赤くしながら、小さな声で差し出す。


リオナは厚手布を肩からずり落としつつ、ためらいなく服を受け取った。

「……ありがと。でも――ちょっと、外に出てくれる?」

耳の先を赤く染めながらも、視線をそらして言う。


「え? あ、ああ! わかった!」

青司は慌てて踵を返し、扉をばたんと閉めて外へ飛び出した。


部屋に一人残されたリオナは、布を外しながらそっと腹に手を当てる。

――昨夜、獣に裂かれたはずの腹部。


恐る恐る布地をめくると、そこには薄い赤みが残るだけで、深々と開いたはずの傷はもう存在しなかった。


「……嘘、みたい……」

かすれた声が漏れる。


猫人族の狩人として、傷の治りが人より早いことは知っている。だが一晩でここまでとは常識では考えられなかった。

血に濡れた感覚も、皮膚を裂かれた痛みも、記憶にはまだ鮮やかに残っている。だが――鏡のように滑らかな新しい皮膚がそこにあった。


――あの少年が言っていた薬……本物、なのか。


驚きと安堵が胸に広がり、リオナは小さく深呼吸をした。ようやくリネンのシャツに腕を通す。肩が落ち、裾は太ももまで隠れるほど大きい。ズボンも腰紐をきつく締めても裾が床を引きずった。


「……ふぅ。だいぶ大きいけど……ないよりはずっとマシ」

小さくつぶやいた声には、まだ驚きの余韻が混じっていた。


外で落ち着かない様子の青司に向けて声を掛ける。

「……もう着替えた」


恐る恐る扉を開けた青司の前には、ぶかぶかの服に身を包んだリオナが立っていた。

袖をまくり、裾を折り返しながらも、頬はまだ赤い。


「どう? ……似合ってる?」


青司は思わず目を逸らし、顔を真っ赤にして答えた。

「……うん、まあ……似合ってると思う」


血と薬の匂いが残る作業場の中で、二人の距離はほんの少し、確かに縮まっていった。


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