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 食後の食卓を片づけ終えると、青司は家の外の東屋の壁にかけていた皮袋から小さな石を一つ取り出す。

 青司は指先に魔力を込め、赤く光る小石を湯の中へそっと沈めた。

 しゅう、と音を立てて湯気が立ちのぼり、風呂の中の水が静かに温まっていく。

 火も焚かずに湯が温まっていく光景に、リオナはいまだ少し目を丸くしていた。


 「湯の温度はこれくらいでいいかな」

 青司は湯船に手を差し入れながらつぶやく。


 「今日は、入浴グッズの石鹸とシャンプー、それからコンディショナー、ボディーバターとハンドクリームの使い方を試してみようと思う」


 「今日、作ってたやつね。……たしか、どっちも髪を洗うものだけど、シャンプーは汚れを落とすためのもので、コンディショナーは髪を守って柔らかくするって言ってたわよね」


「そうそう。それと、ボディーバターとハンドクリームの効果は、肌を守ることだな。

とくにリオナは水仕事が多いし、手が荒れやすいだろ?

湯上がりの肌に少し塗ると、しっとりして――少しは守ってくれると思う」


「……ありがとう。セイジ、ほんとに細かいところまで気がつくのね」


「気になるんだよ。森の暮らしは、少しの不便が積もると大変だからな」


「ふふ……そういうとこ、いいわね」


感心したように尻尾を揺らしながら、リオナは微笑んだ。



 「じゃあ、最初はセイジが試す番ね」


 「うん。まずは自分で確かめないと」



 森の雨は夜になってもやまず、屋根を叩く音が静かに響いていた。

 青司が作った東屋の中では、赤い石の光が湯を淡く照らしている。

 木の壁は腰の高さほどで、そこからは雨に濡れた木々の影が見えた。


 青司が先に湯に浸かり、肩まで沈めて大きく息をつく。

 「……ふう、やっぱり雨の日の風呂は最高だな」

 湯の表面には、彼の調合した石鹸とハーブの香りがほのかに漂っている。

 泡立ちはやさしく、森の葉を思わせる柔らかな緑の香りが広がった。


 湯上がりにタオルで髪を拭きながら、青司は試しに自分の髪に触れる。

 ――指通りが驚くほどなめらかだ。

 「おお……これは、かなりいいかもしれないな」

 思わず独りごちて笑う。

 東屋のそばで、リオナは湯気の立ちのぼる光景をじっと見つめていた。



 東屋の方から、ふわりと甘い香草の香りが立ちのぼる。

 リオナは思わず鼻をくすぐられて、耳をぴくりと動かした。

 「……いい匂い」

 森で採ったハーブと木の実の油を混ぜたんだ。肌にも髪にも優しいと青司が言っていたのを思い出す。


 しばらくして、青司が東屋の湯船から上がってきた。

 肩から掛けた布で髪を拭いながら、ほっと息をつく。

 「思ったよりいい出来だった。泡立ちもいいし、香りもきつすぎない」

 「……うん。いい匂いが、こっちにまで届いてたわ」

 リオナは返事をしたが、その声はどこかぼんやりしていた。

 湯気の中、青司の髪が光を受けてさらりと揺れ、

 ふわりと甘い香りが部屋いっぱいに広がっている。


 「……髪、ツヤツヤしてる」

思わず漏れた声に、自分でも驚いたように口を押さえると、青司は少し照れくさそうに笑った。

 「まぁ、材料が良かったからな。香草の油が効いてるみたいだ」

 「……はやく、私も使ってみたいな」

 その言葉を口にしてから、リオナははっとして頬を赤らめた。

 「え、あ、いや、その……汚れ落としに、ね」

 「はは、大丈夫。たぶん気に入ると思うよ。入っておいで」

 青司は軽く笑い、湯船の温度を確かめながら新しい湯を足していった。


 リオナは腰までの板壁に服を掛け、髪をほどいてから、そっと湯に足を入れる。

 「……あったかい」

 その声はどこか弾んでいた。

 泡立つ香りが鼻をくすぐり、心までほぐれていくようだ。

 「ほんとだ……森の香りがする」

 リオナは髪を指にからめ、青司に教わった通りにシャンプーを手に取った。

 湯の中で泡がふわふわと立ち、湯気の向こうで青司の話しを思い出す。

 「優しく揉むように洗うといい。爪を立てると傷つくからって言ってたわよね……うん……これでいいのかしら?」

 東屋の外で雨が静かに滴り、湯面がゆらりと揺れた。

 洗い終えたリオナの髪の香りは、森の夜と同じ甘さを帯びている。

 湯に浸かりながら、彼女はふっと目を細めた。

 ――青司が作ったものは、どれも不思議と温かい。

 体の芯までほぐれていくようで、思わず小さく息をついた。



 湯から上がったリオナは、布で髪を包みながら、東屋の中で身体の水気を取った。

 夜気はひんやりしていたが、湯の温もりが体の芯まで残っている。

 棚の上には、青司が並べてくれた小瓶がいくつも置かれていた。

 ――ボディーバターと、ハンドクリーム。

 説明を聞いたときの青司の声を思い出しながら、リオナはそっと蓋を開ける。


 掌にひとすくい取ると、やわらかく溶けて、指先から甘い香草の香りが立ちのぼった。

 肌にのばすと、湯で乾いた頬や腕、足先まで全身が、すぐにしっとりと潤っていく。

 「……すごい。すべすべしてる」

 思わず指先を見つめ、くすりと笑った。


 青司が作った石鹸も、髪を洗う液も、どれもいい香りがして――

 乾かした髪を撫でると、いつもより軽くて、指通りが滑らかだった。

 (ねえ、セイジ……)

言葉にしようとして、リオナはそっと唇を閉じた。

「……すごく気に入った。肌も髪も、ぜんぜん違うわ。守ってくれてる感じ」

 リオナは頬を紅くしながら、尻尾の先をゆっくりと揺らした。


 東屋の明かりがリオナの影を柔らかく揺らし、

 雨上がりの森から、若葉の香りと湿った土の匂いが流れ込んでくる。


 春の終わりの夜気は静かで、柔らかな香りに包まれながら、リオナの表情が次第にゆるんでいく。

 外では雨上がりの森が、しっとりと夜風に濡れていた。

 窓を打つ雫の音が静かに響き、東屋の灯りが壁に揺れている。



*******



 

「……ただいま」

 湯上がりのままタオルを頭に巻いて、リオナは家の扉を開けた。

 中では青司が、机の上に並べた薬瓶の記録を書き留めていた。


 「おかえり。どうだった?」

 青司が顔を上げると、タオルを手にとったリオナの髪が灯りに照らされて、ふんわりと光を帯びていた。

 「すごくよかった。髪も肌も、ぜんぜん違うの。……ほら」

 そう言って、リオナはそっと手の甲を差し出した。

 指先はなめらかで、微かに香草の甘い香りが漂う。


 「おお……ほんとだ、しっとりしてるな」

 青司は感心したように頷き、少し照れくさそうに笑う。

 「作った甲斐があったよ。気に入ってもらえて何よりだ」


 「うん。ほんとにありがとう、セイジ」

 リオナは微笑み、そっと髪をかき上げた。

 濡れた髪が灯りを受けてさらりと揺れ、ほのかに甘い香りが広がる。


 ふたりの笑顔が、静かな夜にやわらかく響いた。

 東屋の湯気はもう消えていたが、

 その香りと温もりは、まだ部屋の中にほんのりと残っていた。




**************




 数日、しとしとと雨が続いた。

 森の木々は新しい葉を濡らし、湖の面には細かな輪が絶えず広がっている。

 青司の家も、屋根を打つ雨音に包まれながら、しっとりとした静けさの中にあった。


 軒先の樋からは、細い流れが水瓶へと落ちていく。

 青司はその瓶に手をかざし、魔力を込めると、透明な光が水面に淡く広がった。

 水に宿る“穢れ”を分離する錬金術の応用だ。

 ただ、疲れが溜まっているときは、その光もどこか頼りなく揺れる。


 「……今日は、少し効きが弱いな」

 青司が額を押さえると、傍らで様子を見ていたリオナが小首を傾げた。

 「セイジ、無理しすぎよ。そんなに魔力ばかり使ってたら、倒れちゃう」

 「大丈夫。雨の日は水を汲みに行けないし……水がないと、何をするにも困るんだ」

 「でも、休むことも大事よ」

 そう言ってリオナは、湯を沸かすための赤い石を手に取った。

 「この後、私が水を煮立たせれば十分綺麗な水になるわよ。セイジは座ってて」

 「……そうだね。……助かるよ」

 青司は少し笑い、椅子に腰を下ろした。


 家の中では、焚いたハーブの香りがやわらかく漂っている。

 リオナは手際よく掃除を済ませ、保存していた肉と野菜を使って昼食の支度を始めた。

 鹿肉の燻製を細かく裂き、根菜と一緒に煮込む。

 「今日はこれにしよう。セイジ、午前の薬づくりの間に冷えたでしょ?」

 「ありがたいな。雨の日は体が冷える」


 鍋の中でぐつぐつと音が立ち始め、香ばしい匂いが立ちのぼる。

 青司は作業台に戻り、小瓶を並べながら記録を取っていた。

 並んでいるのは薬草から抽出した薬、精油、そして――風呂のグッズの試作品。

 石鹸、シャンプー、コンディショナー、ボディーバター、ハンドクリーム、ボディーソルト、入浴剤。

 青司は瓶を光にかざして、液体の色を確かめた。森の色を映したように淡い緑や琥珀色をしている。


 「どんどん増えてるわね」

 リオナが笑いながら覗き込む。

 「うん。街に卸す分と、自分たちで試す分。どれも改良途中だけどな」

 「ギルドの人、驚くわね、きっと」

 「喜んでくれればいいけど」

 青司が少し照れたように言うと、リオナはくすっと笑った。

 「大丈夫よ。セイジの作るもの、どれも“使う人のこと”を考えてるもの」


 窓の外では、雨が絶え間なく降り続いている。

 森の緑は濃く、湖から流れる風はひんやりとしていた。

 昼を過ぎると、雨脚が少し弱まり、薄い光が雲の切れ間から差し込む。

 軒先に吊るした乾燥用の網には、採っておいた薬草がしっとりと濡れていた。

 「……明日には、少し晴れるかもしれないな」

 青司の言葉に、リオナは嬉しそうに頷いた。

 「じゃあ、久しぶりに森に出られるね。食材も、そろそろ補充しないと」


 夜、雨音がさらに静かになるころ、ふたりは机を挟んで夕食をとった。

 リオナの作ったスープは温かく、青司の体にやさしく沁みていく。

 「やっぱり、雨の日はこういうのが一番だな」

 「うん。外が冷たい分、家の中があったかく感じるでしょ」

 灯りに照らされた彼女の笑顔は穏やかで、耳と尻尾もゆるやかに揺れていた。


 外の雨音は、やがて湖へと溶けていく。

 森の夜は静かで、家の中にはふたりの声と食器の音だけが響いていた。

 ――春の終わりの雨は、森の命を静かに育てていく。

 そしてその日々の中で、青司とリオナの暮らしもまた、少しずつ形を整えていった。




*******



 数日続いた雨がようやく上がった。

 森の葉の先から、透明な雫がぽとり、ぽとりと落ちていく。

 湿った空気の中には、土と若葉の混じった新しい匂いが漂っていた。


 青司は東屋のそばに立ち、水瓶のふたを開ける。

 瓶の中の水は澄みきっていて、朝の光を受けてきらきらと揺れている。

 「よし、これなら今日一日は使えるな」

 軽くうなずきながら魔力を込め、いつものように浄化を終える。

 今日は体の調子も悪くない。魔力の光も安定していた。


 家の中では、リオナが朝食の支度をしていた。

 薪をくべる音と、鉄鍋の中でスープがくつくつと煮える音が静かに重なる。

 「外、もう濡れてない?」

 扉の向こうからリオナの声がした。

 「だいぶ乾いてきた。午後には森にも出られそうだ」

 「よかった。洗濯物、久しぶりに外で干せるわね」


 テーブルには焼きたてのパンと、昨日の残りの鹿肉を煮込んだスープ。

 湯気がゆらゆらと立ちのぼり、雨上がりの光が窓辺を照らしていた。

 リオナは青司の前に皿を置きながら、小さく微笑む。

 「やっぱり、外の光が入ると気持ちがいいわね」

 「うん。雨の音も好きだけど、こういう朝は少し特別だな」


 ふたりはゆっくりと朝食を取りながら、これからの作業の話をした。

 薬草の乾燥、瓶詰めの整理、街に卸す準備――。

 森の中の小さな暮らしにも、確かな日々の流れがある。


 窓の外では、森の鳥たちが一斉に鳴きはじめた。

 新しい一日が、穏やかに動き出している。


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