12
武器屋での買い物を終えると、青司とリオナは〈黒猫亭〉へと足を戻した。昼時を前に、店内はすでに賑わい始めており、厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。忙しなく動き回るマリサとベルドの姿に、青司は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「世話になりました」
カウンター越しに声をかけると、マリサがぱっと振り向いた。
「もう行っちゃうのね。リオナ、無茶しないようにするのよ」
「わかってるってば」
リオナは少しだけむくれた顔で答えながらも、姉の手をしっかり握る。ベルドは大きな手で青司の肩を軽く叩いた。
「森は気まぐれだ。気を抜かずに過ごすんだぞ」
「あ、ありがとうございます」
別れを告げ、二人は食堂を後にした。
街の門を抜けると、陽はやわらかく道を照らし始めていた。石畳の道が土の街道に変わり、往来する人や荷馬車の姿も徐々に少なくなる。振り返れば、リルトの屋根並みが橙色に染まり、鐘楼の影が長く伸びていた。
青司の背には重たい荷物がずしりとのしかかっている。野菜や豆の袋、卵を守るための籠、大工道具の詰まった袋、そして新しく買った槍。歩くたびに肩紐が食い込み、汗が背を伝った。
「重くない?」
前を歩いていたリオナが、ちらりと振り返って声をかける。
「……正直、けっこう重い」
苦笑混じりの答えに、リオナは小さく肩をすくめる。
「まあ、頼んだのは私だしね。でも、荷物持ってる時のセイジって妙に頼もしく見える」
「褒めてるんだか、からかってるんだか」
「両方」
リオナの口元に浮かんだ笑みは、街の喧噪を離れた空気の中で、どこか素直なものに見えた。
やがて街道は森の入口へと続き、木々の影が道を覆い始める。昼間の熱を残す風が木の葉を揺らし、鳥の声が遠くから響いた。
青司は肩に食い込む荷物を少し持ち直しながら、隣を歩くリオナの姿を目にした。狩衣に身を包み、背には弓矢、小剣を腰に下げたその姿は、街の中とは打って変わって野に生きる狩人そのものだった。だが、小さなリュックに大切そうにしまわれた青いワンピースを思うと、彼女の中にある柔らかさも確かに感じられた。
「さあ、帰ろうか。森の家まで、まだ歩きがいがあるよ」
リオナが軽やかに言う。
「了解。じゃあ、道案内は任せた」
「任された!」
そう言って彼女は一歩先に立ち、森の奥へと歩みを進める。
街を離れ、影と光が織り交ざる道を、二人は荷を分け合いながら歩いていった。
**************
街道を外れ、森の奥へと分け入ると、空気は一変した。陽の光は木々の枝葉に遮られて柔らかく地面に落ち、土と苔の匂いが濃く漂う。踏みしめるたび、落ち葉がかさりとかすかな音を立てる。
リスが木の幹を駆け上がり、枝の間からウサギの白い尾がちらりと見えた。遠くでは鳥たちが囀りを交わし、時折、低い鳴き声が森の奥にこだまする。視線を凝らせば、狐の赤い毛並みや鹿の群れの影がちらと現れてはすぐに消える。さらに、灰色の大きな影――おそらく森狼だろう――が茂みの奥でじっとこちらを窺っていた。だが、二人の動きを試すように一定の距離を保ち、決して不用意に近づこうとはしない。
そんな気配を感じ取っているのか、リオナは歩を進めながらも弓を背から抜きやすい位置にずらし、耳をぴくりと動かしていた。
「……セイジ、前を見て歩いて。周りは私が気にするから」
「わかった」
素直にうなずきつつも、青司はその背中を頼もしく感じる。狩人として育った彼女の視線は常に鋭く、どこか緊張感を孕んでいた。
だが、その空気を和らげるように、青司は口を開いた。
「それにしても……街から森に戻るだけで、空気が全然違うな。ここだと息が楽になる」
「ふふ、森の空気の方が肌に合うでしょ。私も街にいると、すぐに人の匂いに酔いそうになるんだ」
「そうか……でもリオナ、街ではよく動いてたな。市場でも、ああやって交渉して」
「当たり前でしょ。あそこで気を抜いたら損するだけだもん」
リオナは少し誇らしげに鼻を鳴らし、振り返って笑った。その横顔が木漏れ日に照らされて、狩人らしい精悍さと年頃の娘らしい可憐さが同居しているのを、青司は見逃さなかった。
背に食材と道具の詰まった重い荷物を負いながらも、青司の足取りは自然と軽くなる。リオナが隣にいるだけで、不思議と「森の奥」という未知の空間も怖れではなく安心を感じさせた。
「……ねぇ、セイジ」
「ん?」
「帰ったら、ちゃんと家を片付けるんでしょ?」
リオナは冗談めかしつつも真剣な視線を投げる。
「もちろん。そのために道具も買い込んだんだからな。家具も作って、ちゃんと住めるようにするよ」
「ふーん……じゃあ、期待してあげる」
少しだけ唇を尖らせたリオナの言葉に、青司は苦笑を浮かべた。
やがて、森の匂いと音に包まれながら、二人の歩みは迷いなく青司の家へと続いていく。リスが枝から枝へ跳ねる音も、狼の遠吠えも、今はただ日常の背景に過ぎなかった。
森の小径を抜け、苔むした岩棚を避けて進むうち、ようやく木立の奥に小さな家が見えてきた。出掛ける前に閉めたままの扉と窓は、そのままの形を保っている。外壁には木漏れ日がまだらに差し込み、屋根を覆う苔はしっとりと湿っていた。
「……ただいま」
思わず青司の口から漏れた言葉は、森の静けさに吸い込まれていく。
リオナは横目でそれを見て、くすりと笑った。
「ここはセイジの家なのに」
青司は少し照れくさそうに肩をすくめ、扉を押し開けた。二日ぶりの家の中は、真新しい木の香りに混じって、少しこもった空気が漂っている。窓を開け放つと風が流れ込み、埃が舞い、森の湿った匂いが室内を洗った。
二人は荷物を床に下ろし、手分けして片付けを始めた。青司は作業場に向かい、街で買い揃えた大工道具を壁際にきちんと並べる。金槌や鋸、釘の袋を整えながら、その表情はどこか少年のように生き生きとしていた。
一方、リオナは台所に立ち、持ち帰った食材を一つひとつ取り出していく。卵は布で丁寧に包んで木箱の奥に収め、干し肉は梁に吊るし、豆や穀物は袋ごと並べて、棚に整然と収めていった。耳をぴくりと動かしながら、尻尾を揺らす姿は実に手慣れている。
「……思ってたけど、やっぱり広いのよね」
手を止めたリオナが台所から声をかけてきた。
青司の家は、一人で住むには十分すぎる広さがある。奥の部屋には布団だけを敷いた寝室があり、今はリオナがそこを使っている。
「リオナの部屋に家具を作れば、もっとちゃんと使えると思う。服を片付けられる棚とか、それから…… 椅子や机も作りたい」
青司は雑巾で手を拭いながら、真剣な声で言った。
「洋服棚?」
リオナが片眉を上げる。
「うん。せっかくお姉さんと服を買ったんだから、床に置いとくのは……ちょっとな」
少し遠慮がちに続けると、リオナは腕を組み、ほんの少し顎を上げて見下ろすように答えた。
「ふぅん……気にしてくれてるのね。……ありがと」
その言葉とは裏腹に、耳の先が赤く染まり、嬉しさを隠せず尻尾が小さく揺れる。青司は苦笑しつつも、その反応に胸を撫で下ろした。
「その代わり、食事は今まで通り作ってあげる。セイジの料理は……危なっかしいし」
「う……そう言われると返す言葉がないな」
頭をかく青司に、リオナは得意げな笑みを浮かべて尻尾をひと振りした。
こうして大工道具を片付け、食材を並べ終える頃には、部屋の空気ががらりと変わっていた。数日前まで静かだった家が、今は二人の声と笑いで満たされ、温かな気配が宿っている。森の奥にひっそりと佇むこの家が、確かに「帰る場所」へと変わり始めていた。
**************
リオナが台所で野菜を刻む音を残し、青司は外へ出た。家の周りは薬草がよく育つ柔らかな土壌で、背丈の低い草や小花が広がっている。葉に触れると薬効のある香りがほのかに立ち、歩くだけで鼻腔が澄んでいくようだった。
大木を切り出すには、もう少し奥へ入る必要がある。青司は斧を肩に担ぎ、慣れないながらもしっかりした足取りで森の小径を進んだ。足元にはシダが生い茂り、頭上では鳥が鳴き交わす。小川を越え、苔むした岩を踏み分けて進むと、やがて視界が開けた。そこには幹の太い木々が群れを成し、夕陽に照らされて黄金色に輝いていた。
「この辺りなら……」
青司は目についた一本に近づき、幹を叩いてみる。硬い響きが返ってきて、材としては申し分なさそうだった。斧を握り直し、呼吸を整える。
振り下ろした刃が幹に食い込むたび、乾いた音が森にこだました。ぱらぱらと木屑が舞い、樹液の甘い匂いが広がる。斧を振るうたびに、額から汗が滴り落ち、筋肉に熱がこもる。
片側に切り込みを入れ、反対側からも刃を入れる。ぐらり、と幹が傾き、やがて軋み音とともに大木はゆっくりと倒れていった。地響きが森を揺らし、小鳥やリスが枝から飛び去っていく。
倒れた幹に近づき、青司は黙々と枝を落としていった。斧が枝をはねるたび、葉がばさばさと音を立てて散らばり、夕暮れの光に揺れた。
「……これで棚や机の材料は十分だな」
息を吐きながら見上げると、遠く木立の向こうに自分の家の屋根がのぞいていた。白い煙が細く立ち上り、風に流されていく。リオナが火を起こし、夕食の支度をしているのだろう。
森のざわめきと、家から漂う気配。その二つが交じり合い、青司は不思議な安堵を覚えた。
「……戻る前に、もう少しだけ枝を払っておくか」
再び斧を握り直し、夕暮れの森に規則的な打撃音を響かせた。
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鍋から立ちのぼる湯気に、香草の爽やかな匂いが混じる。切った芋はほどよく柔らかくなり、干し肉から出た旨味がじわりとスープに溶け込んでいた。木の匙ですくって味を確かめ、ほんのひとつまみ塩を加える。
「……よし、これでいい」
思わずひとりごちる。外の森は夕闇が濃くなりつつあり、虫の声が窓からかすかに流れ込んでいた。
椀を並べようとしたちょうどその時、戸口から足音が近づき、木の軋む音と共に扉が押し開かれた。斧を担いだセイジが戻ってきたのだ。肩や腕には木屑がつき、額には汗が滲んでいる。けれどその表情はどこか達成感に満ちていて、思わず目を奪われた。
「おかえり。ずいぶん早かったじゃない」
声をかけると、セイジは肩をほぐしながら、少年のような笑みを浮かべた。
「ああ、大木を一本倒して、枝を払ってきた。……それより、腹が減ったよ」
その正直な言葉に、つい口元がゆるむ。椀を彼の前に置き、自分の分も持って席についた。
「はいはい、冷めないうちに食べよ」
二人で同時に椀を取り、湯気立つスープを口に含む。じっくりと味わうセイジの顔が真剣すぎて、思わず耳がぴくぴく動いてしまう。自分でも落ち着かないのを自覚しながら、返事を待った。
「……うまいな。リオナの飯って、安心する」
静かに告げられた言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。顔に出すのが悔しくて、つんとした声で返した。
「そう? ……これくらい普通よ」
けれど、熱を帯びた耳や尻尾の落ち着かない動きはごまかしきれない。セイジは気づいていないのか、それとも見て見ぬふりをしているのか――。
「明日から、あの木で棚を作ろうと思う」
スープの湯気越しに、青司が明日の予定を口にした。焚き火の赤い揺らめきが木の壁を染め、食卓の上に置かれた皿からは香ばしい匂いが漂っている。食事の最中に出た言葉は、自然な響きを持っていた。
「棚ね……それは助かるわね」
匙を握りながら答えると、自分でも少し頬が緩むのを感じる。
「できたら、吊るして収納できる部分もあると嬉しいわね。姉さんが買ってくれたワンピースが掛けられるような」
「それそれ、ちゃんとリオナの希望を聞きたかったんだ」
青司の笑みと共に返されたその言葉に、胸の奥が不思議と温かくなる。奥の部屋を「私の場所」として整えてくれる――そのことが妙に嬉しかった。今までの自分の暮らしは、どこか仮のものばかりで、必要最低限をその場しのぎでやり過ごしてきたはずだ。けれど今は違う。
誰かに居場所を認めてもらうことが、こんなにも心強いなんて。
森の奥の静かな家に、今は二人の声が響いている。その響きが、薄暗い木の壁や窓辺を包み込み、この空間を確かに「暮らしの場」へと変えていくのを感じた。
匙を置き、ふと胸の熱に背を押されて、冗談めかして口にする。
「……ちゃんと、この家の主でいてよね」
青司は驚いたように目を丸くした。だが次の瞬間、静かに表情を和らげ、穏やかな笑みを浮かべる。
「ああ。ここは俺の家だからな。そして……リオナが帰ってこれる場所であってほしい」
その言葉は、思ってもいなかったくらいに優しくてまっすぐで、胸の奥をじんわりと満たしていった。思わず視線を伏せる。
スープの温もりよりもずっと強い熱が、私を包み込んでいた。




