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 〈黒猫亭〉の夕餉どきは、すっかり活気に包まれていた。厨房ではベルドが鉄鍋を振り、マリサが忙しなく皿を運ぶ。笑い声や椅子のきしむ音が重なり合い、街の人々が一日の終わりを楽しんでいる。


 そんな中、青司とリオナは奥の席に並んで座り、ふたりだけの夕食を囲んでいた。

 テーブルには、大皿に盛られた肉のグリル、香草を混ぜ込んだ芋のマッシュ、焼きたてのパンに濃いスープまで並んでいる。――どう考えても二人分としては多すぎる。

「……これは、ちょっと多すぎないか?」


「お姉ちゃんの性格よ。少しでも痩せたら『ちゃんと食べてるの?』って言ってくるもの。だから、セイジもしっかり食べてね」

 リオナは肩をすくめたが、表情はどこか柔らかい。


 二人はゆっくり食べ始め、自然と昼間別れた後のことを話す流れになった。青司はギルドでの取引の様子を、リオナは姉に連れ出されて古着屋で着せ替え人形にされたことを。

「それで、その……」

 青司は少し迷ってから、正直に言葉を口にした。

「リオナ、すごく似合ってるよ。その青いワンピース」


「っ……!」

 スープを飲んでいたリオナは思わず咳き込みそうになり、耳まで真っ赤になる。

「な、何よ急に……からかってるの?」

「いや。本当に似合ってると思っただけ。変な意味じゃないから」

 青司の声が真っ直ぐで、下心のない眼差しだとすぐにわかる。だからこそ、リオナの胸はむず痒く、同時に嬉しさもじんわり広がっていった。それがかえってリオナの胸をくすぐり、照れと嬉しさが入り混じったように耳の先まで赤くなった。


 気まずさをごまかすように、リオナはパンをちぎりながら話題を変えた。

「……明日は食料の買い出し、忘れてないよね。保存できるものを多めに」

「あぁ、そうだな。森に戻るなら必須だ」

 青司は頷き、少し真面目な顔でリオナを見やった。


「……その、まだしばらくあの家に居てくれる、のかな?」

青司がおずおずと問いかける。


 リオナは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにぷいと横を向き、わざとらしく鼻を鳴らした。

「……どうしようかな〜。片付けて、ちゃんと暮らせるようにするなら……考えなくもないけど?」


 強気な口ぶりのくせに、机の下では尾の先が落ち着きなく揺れている。


「……努力はするよ。ちゃんと片付けるように」

青司が真面目に答えると、リオナは頬を少し赤らめて視線を逸らした。


「……それなら、いてあげてもいいかな〜」

考えるふりをしながらも、耳がぴくりと動いている。


 青司は苦笑して、少し冗談めかす。

「っていうかさ、リオナだって野宿よりはマシなんじゃないの?」


「……ま、まぁね。野宿よりはずっとマシよ」

口調はそっけないが、尾はますます落ち着きをなくしていた。


 青司は小さく息を吐き、真っ直ぐに言葉を重ねた。

「……正直なところ、リオナの飯は楽しみだし、作ってくれると助かるんだ。……まだ、しばらくあの部屋を使ってくれないか?」


 その言葉にリオナはびくりと肩を揺らし、そっと視線を伏せる。

「……ふふ。仕方がないな〜。じゃあ……そうしてあげる」


 声は小さく、耳の先は真っ赤なまま。揺れる尾が正直に、彼女の気持ちを表していた。


 その様子を、厨房の合間からちらりと見ていたマリサは、にやりと笑ってベルドの腕を軽くつついた。

「見た? あのやり取り」

「ああ……まあ、あれでいい」

 ベルドは短く答え、また鍋を振る。マリサは声を立てて茶化すこともせず、ただ目を細めて二人を見守った。


**************



翌朝。〈黒猫亭〉の扉を押し開けると、まだ人影の少ない客席に、すっきりとした朝の光が差し込んでいた。木の床は水拭きされ、どこか清涼な匂いが漂っている。


 店内の中央ではマリサが布巾を手に椅子を拭いており、奥の厨房からは包丁の軽快な音が響いていた。ベルドが野菜を刻んでいるのだろう。


「おはようございます」

 青司が声をかけると、マリサが顔を上げてぱっと笑顔を見せた。

「まぁ、セイジくん。早いのね。もう少ししたら朝食ができるから、座って待ってて」


「いえ、急がせるつもりは……」

 遠慮がちに言う青司に、マリサは軽く腰に手を当てて笑った。

「遠慮なんてしないで。どうせ食べてもらうつもりだったんだから」


 ベルドの低い声も奥から聞こえてきた。

「おう、客だと思って気を張る必要はねえぞ。仲間みたいなもんだ。座ってろ」


 その言葉に青司は少し肩の力を抜き、窓際の席に腰を下ろした。ふと窓越しに見ると、街路を行き交う人々はまだ少なく、清掃する人や荷車を押す人の姿がちらほらとあるだけだ。


 やがて、背後から軽い足音が近づいてきた。

「おはよう」

 声の方を振り返ると、リオナが姿を現した。


 今日は森に戻る支度を整えており、狩衣に着替えている。背中には小さめのリュックがあり、中には昨夜買ってもらった青いワンピースが大事そうにしまわれているらしい。肩には弓を背負い、腰には小剣。耳には小さなピアス、髪には控えめな飾り、そして腕輪――それがリオナの持ち物のすべてだ。


 その身軽さに、青司は改めて彼女の暮らしぶりを思った。自分もまた、空のリュックに重たい腰のポーチがあるだけ。二人とも、今から市場で一週間分の食料を買い込まなければ、森での暮らしは始まらない。


 マリサが二人の前に皿を並べた。

「はい、朝ごはん。野菜のスープと、焼きたてのパン、それからベーコンと卵を焼いたのもあるわ。しっかり食べていかないと持たないでしょ?」

 香ばしい匂いがふわりと立ち、青司の腹が思わず鳴った。リオナも同じく耳をぴくりと動かす。


「ありがとうございます。いただきます」

 青司が頭を下げると、リオナも少し照れくさそうに「いただきます」と続いた。


 ベルドは厨房から顔を出し、大きな手でひとつ合図を送ってきた。

「食ったら市場に行くだろ。保存食は忘れんなよ。肉も干したやつを少し分けてやる」


「本当に……助かります」

 青司は素直に礼を述べる。


 熱々のスープを口に運ぶと、胃の底にじんわりと力が広がっていく。リオナもパンを小さくちぎりながら食べていて、どこか安心したような表情をしていた。


 ――こうして迎える朝も、悪くない。

 青司はそう思いながら、今日の市場行きを頭の中で段取りしていた。



**************



 朝食をすませ、ベルドとマリサに礼を言って〈黒猫亭〉を後にすると、味わいのある石畳の道にはすでに朝の賑わいが広がっていた。荷車を押す商人、籠を抱えた主婦、駆け回る子どもたち。そんな中を歩けば、自然と視線がリオナへ集まる。


 長い耳としなやかな尻尾を持つ猫人族の姿は、この街ではそう多くない。しかも狩衣に弓を背負い、凛とした雰囲気をまとっているのだから目を引くのも当然だった。

 だが、リオナはちらと周囲を見回すと、ふっと小さく息を吐いた。どこか覚悟を決めるような仕草で青司に向き直る。


「行きましょ。市場はあっちよ」

 歩幅を合わせて先を行くリオナの背を追いながら、青司も気を引き締める。今日の目的は、森での暮らしを支える一週間分の食料と必要な品々を買いそろえることだ。


  市場に足を踏み入れると、喧騒と香りが一気に押し寄せてきた。

 魚を並べた桶からは潮の匂いが漂い、天日干しにされた小魚が軒先でぎらりと光る。香辛料の店からは鼻をつんと刺激する香りが流れ、通りの一角では焼き菓子の甘い匂いが子どもたちを惹きつけていた。山積みの野菜や果物は色鮮やかで、どれも瑞々しい。青司はその賑やかさに目を奪われ、つい立ち止まりそうになる。


 だがリオナは迷いがなかった。市場に入ると同時に、すっと耳を動かして全体を見渡し、狩りの時のように効率よく動き出す。

「まずは野菜と干し肉。それと保存のきく穀物ね」

 そう言って、青司に空の籠を渡すと、次々と必要なものを拾い集めていく。


 青司が籠を抱えて待っていると、赤々とした根菜、ずっしりと重い芋、乾燥豆の袋が次々と入れられていった。籠の底にずしりと重みがたまる。青司は思わず「おぉ」と声を漏らした。

「おいおい、一気に詰め込むなよ」

「一週間分よ。私が狩りに行く合間に街に戻るのは難しいでしょ?」

 もっともな言い分に、青司は苦笑して肩をすくめるしかなかった。


 ちょうどその時、背後から声がかかる。

「おや、リオナちゃん。久しぶりだな」

 振り向けば、腰に手を当てた八百屋の店主がにやりと笑っていた。


「お久しぶりです。……値段、上がってます?」

 開口一番がそれだった。青司は思わず目を瞬いたが、店主は気を悪くするどころか声をあげて笑った。

「相変わらずだなぁ。いや、野菜は豊作だから安くなってる。ただし豆は少し高いな」

「そうですか。じゃあ、これとこれを半分にして……それと、少しおまけしてもらえませんか?」

「まいったなぁ……」

 軽快なやり取りの末、店主が折れて銅貨数枚をまけてくれる。


 リオナは鼻をぴくりと動かし、どこか得意げに振り返った。

「ほら、銀貨二枚で済んだわ。ちょっとおお買い得したわ」

 青司は肩を揺らして笑った。

「すごいな。俺には絶対できない」

「慣れよ。狩りも買い物も、結局は駆け引きだから」

 そう言って、リオナは自分の尻尾をゆらりと揺らした。


 籠にさらに野菜を積みながら、ふとリオナがこちらを見上げる。

「そういえば……セイジ、卵好きなの?」

 唐突な問いに、青司は瞬きを繰り返した。

「え?」

「今朝の顔。卵を一番うれしそうに食べてたから」

 思い出すと気恥ずかしくなり、青司は頬をかいた。

「……見てたのか」

「見てたわよ。同じ席で食べてたんだし」

 リオナは当然のように言い、じっと青司を観察するように目を細めた。


 観念して、青司は素直にうなずいた。

「うん、好きだな。森じゃまず手に入らないし、久しぶりで……つい嬉しかったんだ」

 その言葉を聞くと、リオナの耳がぴくりと動き、口元が少しやわらいだ。

「……そう」

 それだけ言って、彼女は卵を十個ほど手に取り、店主に銅貨を渡して籠に追加する。


「じゃあ買って帰りましょう。わらないように気をつけてね」

 言葉はそっけなく聞こえるけれど、その声にはやわらかい気遣いが混じっていた。


 青司は卵の入った包みを両手で大事に抱えた。

「……ありがとう。嬉しいよ」

「礼なんていいの。どうせ私が料理するんだし」

 後半の声は小さく、頬がほんのり赤みを帯びている。


 荷物が増えるにつれ、青司の両腕はずっしりと重みを増していく。籠の縁が手のひらに食い込み、肩の力も抜けなくなってきた。だが、リオナはそんな様子を気にも留めず、軽やかに通りを抜けて次の店へと向かっていく。

「こっち。次はセイジの希望の道具屋ね」

 彼女が指差したのは、分厚い木扉に鉄の蝶番を打ちつけた、頑丈そうな造りの店だった。外壁には木材の切れ端や古びた桶が積まれ、軒先からは鉄製の道具が吊るされている。


 扉をくぐった瞬間、青司の目が輝いた。棚には大工道具がずらりと並び、壁際には刃物類が整然と掛けられている。釘や金槌、大小さまざまなのこぎり、鋭く光るのみや鉋まで……どれも手に取って使ってみたい衝動を掻き立てられる品ばかりだ。


 青司は思わず荷物を床に下ろし、近くの棚にかじりつくようにして眺め始めた。

「……これ、すごく使いやすそうだ」

「おっ、ちゃんと刃が通ってるな」

 ひとつひとつ手に取っては重さを確かめ、目を細める。その表情は、まるで宝物を見つけた子どものようだった。


 後ろで腕を組んで眺めていたリオナが、ふっと笑みを漏らす。

「……セイジって、こういうの見てる時だけ子どもみたいね」

 からかうような声音に、青司は耳の後ろをかきながら振り返った。

「そうか? でも、家の中をちゃんと整えたいんだ。家具も作りたいし、棚や机もないと不便だろ」


 リオナは片眉を上げて、わざと素っ気なく返す。

「ふーん。まぁ、私は困ってないけど」

「いや、絶対にあったほうがいい。奥の部屋にも椅子と机があれば楽になるし、寝床だってもっと快適にできる。森の中でも、ちゃんと暮らせるようにしていきたいんだ」

 言葉に熱がこもっていくのを、自分でも感じた。


 リオナはしばらく黙って青司を見ていたが、やがて肩をすくめるように笑った。

「……好きなの選んでよ。どうせセイジが作るんでしょ。私は手伝えないし」

「まあな。むしろ、使う人の顔を思い浮かべて作れるなら、それだけで十分だ」


 そう言う青司の横顔は真剣そのもので、リオナは少し目を細めた。彼が単なる道具にこれほど目を輝かせるのは、自分にとっての弓矢と同じなのかもしれない、とふと思った。


 結局、青司は釘や金槌、のこぎり、のみ、そして使い勝手の良さそうな鉋を購入することにした。袋に詰めてもらうと、今度は荷物がさらに膨れ上がり、青司は肩にずしりと重さを感じる。

「……よし、これで少しは暮らしやすくできるぞ」

 満足げに笑う青司を、リオナは呆れ半分、楽しげ半分の目で見ていた。


 道具の袋を抱え、肩にずしりとした重みを感じながら、青司とリオナは次に武器屋へと足を運んだ。通りの角にあるその店は、黒く煤けた梁と頑丈な扉を備え、外からでも鉄と油の匂いが漂ってくる。看板に描かれている剣と盾の絵が、いかにも戦いの道具を扱う場所だと告げていた。


 中へ入ると、壁一面にずらりと武器が掛けられ、床の樽には矢が束になって突き刺さっている。重たい鉄の匂いと、木の削り屑の匂いが混じり合い、青司には少し緊張感を覚える空気だった。


 その中でリオナは迷うことなく矢の置かれた棚に向かい、真剣な顔で一本一本の出来を確かめ始める。羽根の付き方や矢尻の形、重さの均一さを丹念に見極めている様子は、まさに狩人の顔だった。

「矢は消耗品だからね。これがないと狩りにならない」

 そう呟きながら、使い慣れた太さと長さの矢束を手に取る。


 だが、次の瞬間。リオナは銀の腕輪をそっと右腕から取り外した。光を受けてきらりと輝くそれは、彼女にとって数少ない装身具であり、明らかに貴重品だ。

「これで……」

 会計へ差し出そうとしたその手を、青司が慌てて押さえた。


「待って」

 思わず強い声が出てしまった。リオナが驚いた顔でこちらを見る。

「それ、貴重品だろう? いいよ、俺が払う」

「でも……」

 リオナは小さく唇を噛んだ。


 青司は彼女をまっすぐ見て、静かに言葉を続ける。

「リオナがいつも食事を作ってくれるおかげで、俺の薬だって売れたんだ。だから、俺に払わせてほしい」


 リオナは口を開きかけ、言い返そうとしたが、しばらく沈黙のあとで小さくため息をついた。

「……わかった。じゃあ、お願い」

 その横顔は少し不満げに見えたが、頬にほんのり赤みが差しているのは照れ隠しなのだろう。


 青司は笑みを浮かべながら会計を済ませ、矢束を受け取ってリオナに手渡した。彼女は無言でそれを受け取ったが、握る手がわずかに緩んでいるのを青司は見逃さなかった。


 その時、ふと視線が壁際の武器に吸い寄せられる。剣、斧、短剣、そして槍。どれも重厚で、いかにも戦いに使われてきた歴史を纏っているようだった。その中で一本の槍が自然と目を引いた。適度な長さの柄と、鋭い槍先。無駄のない造形が妙にしっくりと感じられる。


青司はいくつかの槍を手に取り、軽く振ってみた。長すぎるものは取り回しにくく、短すぎるものは突きの威力が心もとない。手に馴染む感触を確かめながら、自然と目が留まったのは、自分の身長より少し長い槍だった。重みはあるが、意外と体にしっくり収まる。軽く振ると、柄のしなりが手に伝わり、扱いやすさを実感できた。


「……セイジ、それ持つの?」

リオナが驚いたように見ていた。普段の彼からは武器を求める姿など想像しにくかったのだろう。


青司は槍を構え直し、少し照れながらも言葉を返した。

「剣より槍の方が使えそうだ。森での護身にも……少しは役に立つかもしれない」


財布の中身を確かめ、一週間分の食材代や道具代、矢代を差し引いてもまだ余裕はある。青司は少し迷ったが、結局、心に決めたように槍を購入した。


店を出る時、リオナが横目でちらりと見上げる。

「……似合ってるよ」

その声はどこか不器用に照れを隠していて、青司は少しだけ頬をかきながら笑った。



 店を出た頃には、青司の腕には食料と道具と槍が加わり、すっかり荷物持ちになっていた。リオナはというと、少し後ろからその背を眺めている。耳と尻尾が揺れて、どこか満足げにも見えた。


「……なんだかんだで、頼りになるじゃない」

 小さな声を、青司は聞き取れなかった。



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