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ヘブンズゲート・クライシス  作者: 遠藤 薔薇
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「植え込みは残されているわ。トムソン夫妻はよほど仁徳があったようね。地元の人達が植え込みだけは残してくれたみたいよ。元々植え込みの管理はトムソン夫妻がやっていたみたい。死体は肉片の一片まで炭になってしまったけど…まぁ形見みたいなものかしらね」

フェリシティは土足で更地の中に入り、俺から見て左側の植え込みを指さした。

「あなたの部屋があったのはあそこの道沿いの植え込みの手前。3階にあった部屋よ。当時、あなたは爆発と一緒にそこの植え込みに落ちた」

フェリシティと俺はその植え込みの前に立つ。他の植え込みと比べて植木の背が若干低い。俺が落ちてきた痕跡だろう。だが、折れた枝葉はきれいに剪定されており、きれいな外観を保っている。

ズキン。

ふと、脳内で鼓動が聞こえた気がした。

ズキン。

俺は振り返り、更地を歩きまわる。脳の奥から何かが湧き上がってくる。乾いた土に水がしみわたるように、それは脳の隅々まで浸透していく。

予兆だ。

直感的に俺は察知していた。何かが蘇る、何かが回復する兆しだ。あの千切れた手紙を読んだ時と同じ感覚だ。

俺はあちこちを見渡した。更地の前のダイナー、隣のカフェ、小さなビル、本屋、レコードショップ。それで足りず、俺は更地を歩き回った。景色を少しでも多く瞳の奥に閉じ込めるように。俺はひたすら没頭した。

「記憶が戻った…とみてもいいのかしら?」

フェリシティの声で俺は初めて我に返った。俺は弾けるようにフェリシティの方を見やる。生還していたフェリシティは2本目のタバコを口にくわえていた。

「まるでトランスだったわよ。すごい剣幕だった。記憶が戻るってなかなか劇的な場面ね」

頭の中はまだスカスカな感じがする。密度が低いというか、中身が抜けているというか。

「まだ…みたいです。でも、でも!」

次々と蘇ってくる。俺はここを知っている。感触じゃない、確信がある。

俺はここからジェイムズ・ソーヤ高校に通っていた。トムソン夫妻の顔が蘇る。チャールズさんはちょっと生え際が下がっているおじさんで、ひげ面で、いつも朗らかな笑顔をしていた。ジェニファーさんはでっぷりと太ったおばさんで、ヒスパニック系の人だった。男勝りで、作ってくれた料理の量がやたら多かった。正直大味だけど、心遣いはとてもうれしかった。

思い出してくる。アメリカに到着して早々空港で迷子になったこと。頭からつま先まで緊張してジェイムズ・ソーヤ高校に登校したこと。ジェイムズ・ソーヤ高校でできた友達とタイムズ・スクウェアやマディソン・スクウェア・ガーデンに行ったこと。遊びに行くたびにトムソン夫妻の部屋におみやげを渡しにいったこと。

「俺はここを知っている…間違いなく!俺はここにいたんだ。住んでいたんだ」

「最高の展開じゃない。それじゃあ、次は拍車をかけてみようかしら」

フェリシティはタバコを吹かしながら更地を進んだ。奥まった場所の、ある一点立ち止まる。

「ここに、イリスの死体があったわ」

胸が高鳴る。心臓を鷲掴みにされたみたいに。

「元々アパートの奥まった場所にあって、住人には気づきにくい部屋だった。そこにイリスは匿われていたのでしょうね。隠し部屋とあなたの部屋は目と鼻の先…。ナイトクラウド家に内緒で逢瀬を重ねるにはいい場所だわ」

「俺はイリスと…ここで会っていた」

「表立って会うと他の住人に見られる恐れがある。だからこの距離でも手紙でやり取りした…って具合かしら。ロマンチックなシチュエーションだわ」

「そう…なのか。俺は、ここでイリスと…。思い出したい、思い出したいのに…」

思い出せない。もうちょっとなのに。今まで全然違う手ごたえなのに。他の記憶は次々と蘇りつつあるのに。やっと近づいたのに。空白の中に現れたのは鮮明なビジョンじゃなくて、あやふやな霞のようなものだ。懸命に思い出そうとしてもその実態は現れない。あることは間違いないのに、まだ感触の域を出ようとしていない。

俺は膝を着いて、頭を抱えた。涙が浮かんでくる。頭の奥から記憶を引っこ抜こうとしてもできない。一番肝心な部分の空白は依然空白のまま、俺の前に広がっている。

思い出せたという事実が俺を一層駆り立てた。頭の中で、空白の前で必死にもがいている。爪が剥がれんばかりに、指先をつぶさんばかりに。

なぁ、イリス。戻ってきたんだ。帰ってきたんだ。君の所へ。君のいた場所へ。

「君に会いに来たんだ…イリス…」

振り絞るように出した声に応えはなかった。

「冷静になりなさい」

うずくまった俺に、フェリシティは淡々と言った。

「やっと進展があって喜びたいのはわかるけど、ここで凹まれたら先に進めないわ」

「ここには…イリスがいた…」

「事実の再確認をするタイミングじゃないでしょう?いいから早く次に行って。私にとって価値があるのはあなたのスクールライフじゃないの。あなたとイリスが何を話したかよ」

「そんな言い方…!」

俺はキッとフェリシティを睨みつけた。

「イリスは大切な妹達のために立ち上がったんだ。平然と、当たり前に人を殺してくるような連中に。理不尽の塊みたいな父親に!正しかったのに、がんばったのに…死んだ。あいつらに殺されたんだ…」

イリスがいたという事実が、まだイリスの記憶だけど思い出せない現実が、俺の頭をグシャグシャにする。ここまで来たのに届かない、追い付かない焦りもあった。でもそれよりも、イリスがいた場所にいることで日本にいる以上に哀しみが、喪失感が強く胸に突き刺さっていた。

「あらそう」

唐突にフェリシティが、うずくまる俺の胸倉を掴んだ。ものすごい力で、俺はなすすべなく引き上げられる。

「現場に来たことで今更イリスの死に打ちのめされたなんて筋書きはごめんなの。私はビジネス、あなたは仇討でここに来ている。テロの追悼式典に参加しているわけじゃないの。涙を流して死を悼んで、十字を切って神にお祈りするつもりならここじゃなくてもできるわ。あなたのやることは一つだけ。死ぬ気で脳みそから記憶を引っ張り出して、その中にある機密というナイフをナイトクラウド家の喉元につきつけてやること。それをきっかけにナイトクラウド家が崩壊すれば万々歳。イリスの仇を討てる上に、ハーピアを解放できる。それが出来なければここにきた意味がなくなる。立ち止まる暇なんてないわ」

淡々とした調子は変わらないが、声に含まれている圧は厳しい大人のそれだった。

俺はフェリシティの腕を払った。涙をぬぐい、両手で頬を叩く。

「わかっている…わかっていますよ!」

フェリシティの言う通りだ。立ち止まってなんかいられない。

確かに、日本でいた時は整理が出来ていたつもりでも、現地に来ると全然違った。俺がいた場所が、彼女がいた場所がなくなっていた。写真とはいえ死体を見た。イリスが死んだという事実がずっと生々しく感じられた。

だけど、それはただ感じ方が変わっただけだ。結論は揺らがない。結果は動かない。

俺の目的を変えてはいけない。

「俺は…まだやる!絶対にあきらめない!」

イリスが一人で戦うと決めた時、どんな気持ちだったのだろう。どんなに気丈に振る舞っていたとしても、きっと不安だったはずだ。怖かったはずだ。ハーピア達姉妹を助けるために、非情な手段も辞さないナイトクラウド家という組織を相手にする。たった一人で逃げ出して、たった一人で戦う。そんなの楽なはずがない。辛い時もあるだろう、苦しい時もあるだろう。

それでも、イリスはやった。やり続けた。

―――私は必ずあなたの元に行きます。絶対に会いにいきます。

あの言葉は決意だったんだ。イリスの、やり遂げるという決意だったんだ。断片的だけど、あの手紙を書いたイリスには哀しみも絶望もなかった。やりきるという決意したからこその前向きさがあった。

そんなイリスの意志を受け継ぐと決めたんだ。だったら哀しみに浸っている暇なんてない。立ち止まってなんかいられない。

「花…買いましょう。近くに…花屋があった」

「真田君…」

「ちゃんと、別れたいんです。ここで死んだ人達に…絶対に、こんな不条理を失くすって誓いたいんです」

「そう」

フェリシティはタバコをそのまま握りつぶして火を消すと、更地からスタスタと出て行った。俺もすぐその後を付いていく。

花屋で花束を買った俺はすでに供えられていた花々の中に花束を添えた。そっと手を合わせ、イリスに、ここで人達に冥福を祈る。フェリシティはそんな俺を車の傍らで黙って見ていた。

「ごめん、イリス。俺も負けないから。絶対に進み続けるから」

でも、きっと今のままじゃまた潰れてしまう。だからちゃんと言わせてくれ。

さようなら、イリス。ありがとう。

立ち上がった俺が振り返ると、フェリシティが手を挙げた。

「朝食にしましょう。ビルズほどじゃないけど、なかなかおいしいレストランがあるの。エッグベネディクトがおすすめよ」

「いいよ、行こう」

気丈に答えたつもりだったが、声は細くなっていた。それに気づいた俺は力いっぱい胸を叩く。

しっかりしろ。

自分を思いっきり叱咤する。

俺の仕草を見たフェリシティは目を丸くしたが、おかしそうに笑った。

「よくわかったわ。自分で自分の尻を蹴り上げられるなら、見上げたものよ」

車に乗り込み、出発してからも俺は遠ざかる更地をずっと見ていた。

名残惜しいからじゃない。何もかもを終わらせたら、またここにきて花を供えようと思い立ったからだ。

必ずまた戻ってくると、誓ったからだ。


「ちょっと、提案があるんだけど」

朝食(冷静に考えると昼食というべきかもしれない)をとるために立ち寄ったレストランで俺は切り出した。

俺達が寄ったレストランは早朝にも関わらず、それなりに混雑していた。クイーンズで一番有名といえるロング・アイランド・シティにあるから当然だろう。「フィッシャー・アンド・キングス・カフェ」という名前のレストランで、地元では有名なレストランらしい。実際ここのエッグベネディクトはフェリシティが評するようにおいしかった。

「何かしら?」

フェリシティはエッグベネディクトを平らげ、コーヒーに舌鼓を打っていたが、俺の発言を聴いてカップをソーサーに置いた。

「ジェイムズ・ソーヤ高校にいる友達と連絡が取りたいんだ。イリスが来た6月中旬以降の俺について、もっと詳しく訊きたい」

「直接会うのはダメよ」

「わかっている。電話するだけだ」

「それならいいけど」

事故直後の俺は現実感がなくて、記憶が欠けているというショックが大きかったから友人達の話をちゃんと聴けていなかった。今一度しっかり確かめておきたい。

「ただ、セーフハウスに戻ってからにしましょう。長々と外にいるのはよくないわ」

「わかっているよ」

レストランから出た俺達はそのまままっすぐセーフハウスに戻った。フェリシティは一度仮眠をとることを提案してきた。時差ボケの修正のためだ。どのみち、ジェイムズ・ソーヤ高校の友人達は今の時間帯に連絡することは難しいから午後まで待つ必要がある。

俺は了承し、自分の寝室に入って、スマホの電話帳を開いた。

俺がジェイムズ・ソーヤ高校で仲良くなったという友人は数人いる。今となってそれぞれとどう関わっていたかをやっと思い出せた。みんないい人達だった。また別の機会に、お見舞いにきたお礼をちゃんと言おう。

そう思いつつ、俺はまたフェリシティからもらった睡眠導入剤を飲んだ。薬で眠るなんて不健康極まりないけど仕方ない。手っ取り早く、確実に睡眠をとるために必要なことだ。

しばらくベッドで横になっていると、ゆっくり立ち上ってくる睡魔が俺を夢の世界に落とした。


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