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ヘブンズゲート・クライシス  作者: 遠藤 薔薇
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皿を下げたウェイターがスープとパンを持ってくる。冷静のポタージュだ。確かビシソワーズという奴。フェリシティはすぐに手を付け始める。

「さて…私は聴くべき話は聴けた。私の用件はこれでおしまい」

「え?」

「後は私と楽しく食事して家に帰るのがあなたの仕事よ。それからしばらくは私の同僚に見張られながら夏休みを堪能してくれればいいわ」

「見張られるって…」

「大丈夫、表立って姿を見せるわけじゃないから。ニンジャみたいに陰ながらあなたを見守っているだけよ」

フェリシティはスープをあっという間に空にした。さっさと食事を終わらせようとしている雰囲気がある。

そうか。彼女の目的は俺から必要な情報を聴いたらそれで目的は果たされるのだ。これ以上俺の相手をする必要がない。フェリシティの早食いはその表れだ。俺との対談はさっさと片付けたい予定の一つに過ぎないのだろう。

「…フェリシティさん」

「何かしら?」

「どうして、俺を守る必要があるんですか?」

このままつながりが無くなるのなら、せめて少しでも事情を聴きたい。

今の俺の気分が少しでも晴れるかもしれない。

「念の為よ。あなたの記憶が戻ってからもう一波乱あるかもしれないし、ナイトクラウドがあなたにまたちょっかいを出してくるかもしれない」

「また…ナイトクラウドが俺を…」

「殺しに来る可能性はあるわ。そもそもあなたが生き残っていること自体がおかしいもの。私達が知るハーピアは父親の言う事に忠実に従うタイプだわ。なのにあなたをまんまと生かした。懐柔に失敗したなら生かしておく意味なんてないのに」

フェリシティは両肘をつき、俺の目を覗き見る。

「イリスと恋愛関係にあったといい、ハーピアが生かしたといい、あなたは本当に興味深い。強運の持ち主か、天賦の才か。まぁ、どちらにせよ保護下に置いておくべき存在ではあるわ。ラッキーよ、あなた。世界で指折りのSPが味方になってくれるんだから。しばらく枕を高くして眠りなさい」

「イリスは…ハーピアは、犯罪者なんですか?」

俺の問いにフェリシティは片眉を上げた。

「ナイトクラウド家が真っ黒だって話はもう聞いたんでしょう?」

「大事な所ははぐらされていました。非人道的なことができる家にいて、その仕事の手伝いをさせられて、ある人になるために教育されたって言われても…全部が抽象的で、ピンとこない。整理がつかないんです。俺の初恋の人で、恋人だったって人が死んで、その人だと思っていた人が嘘を吐いていて…」

フェリシティが指を鳴らした。俺はハッとして顔を上げる。

「スープ、早く食べてくれないかしら?次の料理が止まるわ」

すっかり没入していた。蘇った感情にすっかり浸っていた。

俺はフェリシティに促されるがままにスープを食べる。味はよくわからなかった。

「あなたは今分水嶺に立っている」

ウェイターが皿を下げた後にフェリシティが言った。

「選べる道は2つ。1つ目は私達の手の内で籠の鳥になること。これがおすすめね。安全安心、何が起こっても知らぬ存ぜぬでいられるわ」

ウェイターがメインディッシュを持ってくる。白身魚のポワレ。

「2つ目は知りたいことを知り、見たいものを見ること。これはおすすめしない。身の安全は保証するけど、知らなくてもいいことを知ることになる。あなたはまだハーピアやイリスに複雑な感情を抱いているようだけど、それが悪い方向にこじれるかもしれない」

フェリシティはゆっくりとナイフでポワレを切り分けた。繊維を断ち切られた身がバラバラになる。元の形がわからなくなるくらいに。

「イリーガルなトラブルに巻き込まれてはいるけど、あなたのステータスは一般市民よ。生き馬の目を抜く連中のタマの取り合いに馳せ参じる必要はないし、奴らの腹の内を知ることもない。あなたの過ごしたロクでもない一週間も一時の悪夢だと割り切って忘れればいい。恋に破れたことには同情するわ。女の子にフラれたこともね。でも女の子の後を付いていって虎の穴に入ろうとするのなら、私は立場上それを止めなきゃいけない」

フェリシティの眼差しが真剣になっていることに気づいた。大人の目つきだ。

「『あの時何かできたかもしれない』『もっとうまくやれたはずだ』なんて気持ちは思うだけで辛いものよ。往々にして、そんな感情は身の丈に合わないから。身に余るものは降ろしていった方が人生は楽に生きられるわ。後悔や落胆で苦しいだろうけど、それもしばらく間だけよ。大学に入る頃にはほろ苦い思い出として処理されるから」

何も返せなかった。フェリシティは明確な一線を引いてきた。その一線は俺には越えがたいものだ。

あの時何かできたかもしれない。

もっとうまくやれたはずだ。

その気持ちはなかったといったら嘘になる。昨日までの3日間、俺は何度もどうにかできたはずだと考えていた。

ハーピアと本気で向き合おうとして失敗したことを俺は引きずっていた。気持ちだけでやれることではなかったのだ。ハーピアの背後には俺が想像する以上の存在がいて、俺に  

どうしようもできないもので。

ハーピアが俺を拒むのも当然だ。何もできない俺が何を言ったって響きはしないだろう。そもそも俺の言葉には彼女にとって何の価値もなかった。

フェリシティの引いたような一線が俺と彼女にはあった。それを知らずに、いや見もせずに飛び出した俺が愚かしかっただけの話だ。

それだけの話なんだ。

「…わかっています」

俺は力なく答えた。事実上の敗北宣言だった。

「さあ、食べましょう。せっかくのメインが冷めてしまうわ」

俺の目の前のポワレはすっかり冷めていた。手を付ける気にはならなかった。食欲はすっかり失せていた。


「あぁ、そうだ」

デザートのレモンタルトを食べ終えたフェリシティがナプキンで口をふきながら一枚の名刺を出した。胸ポケットからボールペンを手に取り、名刺に何かを書き込む。

「念の為に、ね」

差し出された名刺には数字が書き込まれていた。

「それ、私の電話番号」

「電話…?」

「何か話したいことがあれば私に電話すればいい。あなたに直接接触するのは私だけだから…まぁFBIへの直通チャンネルだと思えばいいわ」

何を電話しろと言うんだ。

俺が眼でそう言っているのを察知したのか、フェリシティは薄く微笑んだ。

「私、人生はコイントスのようなものだと思っているの」

「はぁ…」

「やったことない?コインを投げて、答えを占うの。表が出れば右、裏が出れば左といった具合に。あのコイントスの一番重要な部分って何だと思う?」

全然違う話題の登場に俺は戸惑う。だが答えを期待するフェリシティの視線に押されて俺は仕方なく答える。

「…運の良さですか?」

「そうね。個人の運は何事も左右する。でも自分の運を測れる人間なんていない。運の良し悪しというのはその時に発生した結果に対する個人の印象でしかないわ。つまり運の良し悪しは実体のないイメージ同然のものよ。コイントスで大事なのは『結果を受け入れる』こと。コインを投げた結果、表が出ても裏が出ても、それを受け入れる。どの道を行く羽目になっても進み通す。コイントスをする人間にはそんな度量が必要よ。運任せに頼った以上、どんな結果にもノーと言わずイエスと言わなければならない。それがコイントスを選んだ人間の責任であり、責務」

フェリシティが俺を指さした。

「私は賢い道を提示した。ベターでベストな道よ。ただあなたがそれを選ばなければならない道理はない。なんだって運にほとんど頼らないやり方だからね。ただ、あなたが運任せを望むなら。あなたがコインを投げるのなら。例え裏でも構わないのなら…私に止められる資格はないわ」

俺は何も答えられずに座ったままだった。今の俺はその話に応えられない。

フェリシティは答えを急かさず、ウェイターを呼んでチェックを頼んだ。

「さぁ、お食事会はこれまで。あなたにこの店はまだ早かったかしら?でもね、先に経験しておいて損はなかったと思うわよ。人生に『早すぎた』も『遅すぎた』も案外ないものだから」

支払いを済ませたフェリシティは立ち上がった。

「私が日本に滞在するのは明後日までよ」

まだ俺が立つより早く、フェリシティは個室の扉を開けた。

「それまでに私の顔を見たくなったらいつでも電話をちょうだい」


帰りもフェリシティが送ってくれたが、車中で会話はなかった。出会った時の懐っこさがすっかり失せたフェリシティは冷徹な大人に見えた。機械的で無感情な大人。俺のような子どもの相手など歯牙にもかけない大人。

フェリシティは迷わず自宅まで俺を送り(すでに俺の保護は始まっていたのだろう)、何も言い残さずに帰っていった。

部屋に入った俺は気が抜けたようにベッドに腰を下ろした。

ずっと頭の支配しているものがあった。

俺の分水嶺。

守られるか、関わるか。

フェリシティは俺の前に一線を引いたのではない。

俺を試したんだ。

自らの選択を受け入れ、やり通せるかどうかを見たんだ。

だから俺は答えられなかった。イリスの死に、ハーピアへの失敗に項垂れている俺には重すぎる問いだった。胸を張って答えるなんてできない。

考えれば考えるほどごちゃごちゃした考えが喉に詰まって息ができなくなる。何も言えなくなる。いっそのこと全部投げ出そうかと思った。FBIが守ってくれるというなら、ナイトクラウド家が再び命を狙ってくることはないだろう。記憶が戻ったら、もしそこに重要な情報があればフェリシティに伝えればいい。そうすればナイトクラウド家をあの人達が逮捕してくれるかもしれない。そうなれば万々歳だ。俺は再び日常に戻ることができる。平和で変わりない日々に帰ってこれる。

だけど、それでいいのか?俺の中にあるものが解決するのか?この出来事を遠い過去に追いやれるのか?

もし思い出した記憶にイリスがいたら。

イリスが大事なことを俺に伝えていたとしたら。

それでも俺は平然と生きられるのか?

冗談じゃない。

俺は思いっきり膝を叩いた。

俺はイリスに何もしてやれなかったじゃないか。むざむざ死なせたじゃないか。そんな俺が逃げて、守られるなんて。卑怯だ。最低だ。

何のために俺は生き残ったんだ。

記憶が忘れたからって俺は無関係じゃない。ナイトクラウド家が起こした事件に巻き込まれ、ハーピアと接触した俺はもう無関係じゃいられない。

当事者なんだ。俺は紛れもない当事者の一人なんだ。

イリスと関わっていたんだ。ハーピアと出会ったんだ。この記憶は俺の中にハッキリと残っている。鮮明に、深く刻まれている。

この記憶は否定できないんだ。

否定しちゃいけないんだ。

だけど俺はどうすればいい?何ができるんだ?

賢明なやり方はある。記憶が思い出すまで動かず、思い出して、その中に重要な情報がアったらフェリシティに提供する。後はFBIの人達がナイトクラウド家を潰すのを待っていればいい。そうすればイリスの本意は遂げられる。ナイトクラウド家の悪行を暴いて、悪い奴がいなくなればハーピアは救われる。それでいいじゃないか。

いや、ダメだ。これは違う。

これじゃあ結局、何もせずに守られているのと一緒だ。そもそも記憶を思い出せる保証はない。日本に、この部屋にい続けて本当に記憶が戻るのか?

俺の記憶が蘇りかけたのはあの手紙を見てからだった。この家で暮らして、学校に通っている中では記憶が蘇る兆しは全くなかった。俺が記憶を思い出すきっかけはここにない。

アメリカだ。ニューヨークの、トムソン夫妻が管理していたアパート。始まりはそこだった。俺とイリスが一緒にいたという痕跡があったのはそこだ。俺がナイトクラウド家に 

殺されかけたのも、ハーピアが俺と出会うことになったのも。

俺の空白はそこから始まったんだ。

俺が本当の意味で関わるなら、本気でこの空白を埋めなきゃいけない。全てを思い出すように努力しなきゃいけない。

それが俺のやるべきことだ。やり通さなければならないことなんだ。

それに、イリスが死んだのなら。ハーピアや他の姉妹を助けたくてナイトクラウドを裏切り、殺されたのなら。

彼女の想いを引き継げるのは俺しかいないじゃないか。

俺の空白の中にイリスの想いが隠れているかもしれない。ハーピアへ届けたかった言葉があるかもしれない。それを伝えられるのは俺だけだ。俺しかいないんだ。

イリスの想いを伝えられるのは俺だけなんだ。

でも、俺の空白にイリスの想いがあったとして、それを思い出せたとして、ハーピアはそれを受け取ってくれるだろうか。彼女は俺を拒絶し、刃を向けた。俺を殺そうとした。

ハーピアはイリスを憎んでいた。自分を置いていったことを恨んでいた。イリスとつながっていた俺にも怒りを向けていた。

ハーピアからしたら複雑な心境だっただろう。仕事とはいえ、自分を置いていった姉が好きだった男の恋人役をしなければならなかったなんて。ずっと殺してやりたい気持ちもあったかもしれない。

俺の声を、イリスの想いを聴いてくれるだろうか。頑なになったハーピアが受け入れてくれるだろうか。



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