31
デートが終わり、俺達は帰路についた。色々あった一日だった。長さも密度も充分あった一日だ。
彼女は口数が少なくなっていた。何かを考えているように。
それにつられて俺もあまり話さなかった。気まずいわけでもピリついているわけでもない。
何かが変わって、何かが止まったからこうなっている。
俺はそう感じていた。
口数が減った分、俺の思考は独り歩きを始める。勝手に色んなことを逡巡する。
それに気づいた時、俺は思考の手綱を引き寄せた。あんまり勝手に動かすと変なことまで掘り下げる。
―――ごまかしている感じがする。
俺は何をごまかしたんだろうか。俺は何を曖昧にしたんだろうか。
ダメだ。触れるな。
俺は思考を理性で強引にひっこめた。
今じゃない。
今じゃ、ないんだ。
ちょうど電車が月島についたので、俺達は電車から出て行った。
家に帰る頃には俺達の会話の頻度も回復していた。他愛のないは次第に膨れていって、いつもの俺達の会話の様相になる。
気づいたらいつもの俺達の会話になっていた。
いつもの俺達に戻っていた。
「夕食は私が作るよ。何にする?」
ルームウェアに着替えた彼女が腰にエプロンを巻きながら言った。
「何でもいいよ」
「張り合いないわね。なんかオーダーして」
「うーん…じゃあ、パスタで。味は何でもいいよ」
「結局同じじゃない。じゃあペペロンチーノでいいか…」
髪を結わえながら彼女は冷蔵庫を開けた。
「あれ、ニンニクがない…」
「本当か?じゃあペペロンチーノ以外のものを…」
「ニンニクがなければパスタはおいしくないよ。買ってくる」
エプロンを外した彼女は速足で外に出て行った。
残された俺は手持ち無沙汰だったので、ひとまず部屋の掃除を始めた。黙っているとさっきの気分が戻ってくるような気がしたからだ。
掃除機を出し、リビングやダイニングを念入りにきれいにして回る。
ひとしきり掃除をした後、俺は流れでそのまま寝室に入ろうとした。
だが俺はピタリと足を止める。
ここは彼女が使っている部屋だ。うかつに入っていいものだろうか?
このマンションの部屋自体母が死んでから父が俺一人の生活を前提として買ったようなものだ。こと寝室に関しては俺と父親が使うことも踏まえてはいるのものの、父が普段いないうえに帰ってきてもリビングで寝るので実質的に俺の寝室だ。俺の私物も置いてあるし、備え付けのベッドは一つで、後は父がリビングで寝る時に使う敷布団と掛布団の一式があるだけだ。
でもここ1週間は彼女が使っている部屋だ。必要な私物は出してもらったので俺は1週間この寝室に一度も入っていない。
嫌な気持ちが湧き上がる。好奇心にも似たそれは、ほの暗く冷たかった。そして俺の心を意地悪くまとわりついてくる。
「…ごめん」
俺は寝室の扉を開けた。遅かれ早かれ中に入る時が来る。そう言い訳しながら俺は寝室の扉を空けた。
意外ときれいに整っていた。普段俺と彼女は別々に洗濯しているので、下着が部屋干しされているかも考えていたが、そういったものは置かれていなかった。
ラウンドテーブルの上に鏡や化粧道具が置かれていることやベッドの脇にトランクが置かれていること以外は今までの寝室と変わりない。
俺は安堵した。下着が転がっている光景を想像していたが、案外スッキリしていた。
さっき湧き上がってきた感情も落ち着きを見せる。俺は安心して掃除を再開する。
元々自分で掃除してくれていたので、部屋はきれいなものだった。思いの外早く掃除が終わりそうだ。俺は軽く掃除機をかけるだけにとどめて部屋を出ようとする。
戻る途中、掃除機のヘッドがトランクに当たり、トランクを倒してしまった。フタが空いていたようで中身がこぼれ出る。書類や冊子だ。
慌てて俺は中から出てきたものを拾った。書類は全て英語で書かれている。冊子も何やら難しそうな表題がついていた。思わず頭の中で訳そうとしたけどやめた。彼女の仕事に関するものならうかつに首を突っ込めない。
トランクに片っ端から書類をしまっていると、あるものが目に止まった。
書類は書類だけど、これだけは種類が違う。クリアファイルに入っている土で汚れた紙だ。3枚が重なって入れられていた。何やら手書きで文字が書かれている。
英語だ。千切れているため文が途切れてしまっているけど、ちゃんと文になっている。
あれ?
心臓が途端に早く動き始める。なんでだろう。どうしてこの手紙に俺は緊張しているんだろう。
緊張?違う、もっと別の感情。
知らないビジョンがフラッシュバックする。
廊下に落ちていた封筒。手に取る俺。開いて、その手紙を読んでいる。途端に喜びで胸がいっぱいになる。
俺はこの手紙を読んだことがある?
なんでこの手紙がここにあるんだ。どうして彼女が持っているんだ。
いや、彼女だからこそか。
でも彼女は…。
気づいたら、俺はクリアファイルを持ち、リビングにある自分のバッグに入れていた。そしてトランクの周辺をすぐに片付け、何事もなかったかのようにする。
俺は寝室から出た。掃除機を片付け、何事もなかったかのようにソファに座る。ガラステーブルの脇に置いたカバンを一瞥すると、また心臓が高鳴った。やめた方がいいと頭の中で理性が叫ぶ。
それでも止まらない。止められない。止めるわけにいかない。
間違いない。この感覚は、この予感は。
消えていた記憶が蘇ってきた証だ。




