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「君がそんなんだと、イリスが悲しむよ」
ハーピアが切なげに言った。彼女がイリスの名前を気楽に口にするのは初めて見た。前にその名を出す時は怒りや苛立ちがこもっていたが、今は違う。
「イリスのことは…もういいのか?」
「…正直、まだわだかまりみたいなのはある。いきなりいなくなったことはそう簡単に許せないよ。でも、あの子なりに…私を想ってくれていたのは君を通じてなんとなくわかった。もう恨んだりはしない」
気丈に言ったハーピアだったが、不意に語尾が落ちた。
「でも…やっぱり話してほしかった。あの時の私はお父様に怯えていたけど、何か力になれたかもしれない。もしかしたら一緒に行っていたかもしれない。なのにイリスはいきなりいなくなっちゃってさ。そりゃ、怒るよ」
大切な家族に支えられていたハーピアにとって、イリスは太陽みたいな存在だったのだろう。そんな人が急にいなくなるなんて辛くて当然だ。イリスの失敗は、ハーピアに話さなかったことだろう。巻き込みたくないという想いがあったにせよ、そのすれ違いがハーピアを悩ませてしまった。
でも―――
「きっとイリスも精一杯だったと思う。…それでも、辛いよな」
「まぁ、それでイリスは初恋の人と巡り会えた。結末は最悪だったけど…ちょっとでも報われたと思う。イリスが人生を変えた大切な人と想えたのなら…何も言えないよ」
真実は、伝えないといけない。
「あのさ、ハーピア。そのことなんだけど…」
いや、この真実を俺は伝えたい―――。
「俺、イリスと再会していないんだ」
「…へ?」
拍子抜けしたハーピアは素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って。今、なんて?」
「俺、留学している間イリスと会っていないんだ」
ハ ーピアは唖然としていた。開いた口が塞がらないという奴だ。ちょっと予想外の反応。
ハーピアはハッと我に返って前のめりになった。
「だったらあの手紙は?なんであんな手紙を持っていたの?」
「俺、留学中に友達とどこか遊びに行ったら毎回トムソン夫妻にお土産を買っていたんだ。普段は直接渡していたんだけど、その日はたまたま夫妻が部屋を空けていた。ジェニファーさんは買い物、チャールズさんは別室の住人の水道が壊れたかなんかで急遽対応に行っていた。仕事中に声をかけるのを遠慮した俺は、部屋の中にお土産を置いていこうとしたんだ。その時に俺はチャールズさんのテーブルに奇妙な手紙が置いてあることに気づいた。まだ封筒に入れる前だったんだと思うんだけど、俺はそれが気になって…読んじゃったんだ」
「まさかそれが…」
「うん、イリスの手紙。それが事故の前日の話だ」
「前日?!」
「さすがに俺もたった1日足らずで告白して恋愛関係になって、デートするなんて無理だよ。あの時の俺は送別会の準備で忙しかったし、そもそもそんな甲斐性もないしな。俺はその手紙が6年前に会ったイリスが書いたものだと知って心底驚いたし、うれしかった。まさかあの時の女の子とこんな形で巡り会うとは思っていなかったからな。その時のインパクトもあって…盗んじゃったんだ」
「盗んだって…どうして?」
「返事を書いたら、すぐ返すつもりだった。ちゃんと事情を話したうえでね。でも、それは爆発事故で…結局できなかったけどな」
「じゃあ君は…」
「そうだよ。俺はあのアパートにイリスがいることさえ知らなかった。ただ手紙を見つけただけだったんだ。もちろん、ナイトクラウド家につながる物証なんて持っていない。会ってすらなかったんだからな」
ハーピアはガックリと肩を落とした。
「何よ、それ…。じゃあ私達の早とちりってこと…」
「仕方ないよ。断片とはいえ、手紙という物証があったわけだし、6年前にイリスと会っていた俺があのアパートにいたんだ。俺の記憶もなくなっていたんだ、当の本人すらわかっていなかったんだ」
「何そのフォロー…」
ハーピアが呆れたように俺を見つめた。
全部、誤解だった。ローレンスも、ハーピアも、俺も、FBIも。初めから前提条件を間違えていた。俺の記憶が空白だったから、誰も気づかずに、ありもしない真実を前提に行動していた。なんとも奇妙な話だ。架空の、存在しないカップルに全員が振り回されるなんて。
「お笑い種ね、ほんと…」
ハーピアがベッドにもたれた。俺も同意する。俺自身、本当にイリスと付き合っていたように振舞っていた。今となっては、なんだか気恥ずかしい。初恋の人と付き合っていたという想像で動いていたなんて。ローレンスのことをバカにできない。
「…じゃあイリスはなんであんな手紙を書いたのかな。会えるかもわからない初恋の人に、届くかわからない手紙を書くなんてちょっとロマンチック過ぎるけど…」
「簡単な話だよ」
俺はズボンのポケットからフェリシティからもらった3枚の紙を出す。
「俺に会いたいならトムソン夫妻にそう言って直接対面すればいい。奇跡的に俺はすぐそばにいたんだしね」
俺は3枚の紙をハーピアに差し出した。ハーピアは怪訝な顔をして受け取る。
「だったら、答えは簡単だ。あの手紙の宛先は俺じゃなかった」
手紙を広げたハーピアは目を大きくした。
「あの手紙の宛先は…ハーピア、君だったんだ」
(1枚目)
親愛なるハーピアへ。
元気?…といってあなたはよろこばないだろうけど、お元気ですか?
いつ届くかわからないし、ちゃんと届くかもわからないけど、あなたに伝えたいことがあって手紙を送りました。
私が今いる場所はいえないけど、悪いところではありません。幸運にも親切な人にかくまってもらっています。ホテルを使うような身分でなくなってから、雨風をしのげる場所があるありがたさが初めてわかったような気がします。食事もキチンととれているし、睡眠もできているから、体調も良好です。別に私の体調に興味なんてないだろうけど、一応 報告。
私がナイトクラウドから出た理由をあなたは察しているでしょう。そしてあなたは私を許しはしないでしょう。
私が裏切ったのは事実です。弁明する気はありません。許す必要はないし、またあなたと巡り会えたら罰を受けたっていい。
でも私はやるべきことがある。これは絶対にあきらめたくない、大切なことだから。やりきるまでやめることはできない。
(2枚目)
ねぇ、覚えている?6年前のこと。
あなたに話した遠い、儚い思い出話。私の心の支え、たった一つの陽だまり。
あなたは「鼻につく思い出だ」って聴くのを嫌がったけど、聴いてほしかった。
わたしのあこがれの男の子。ちょっと抜けているけどまっすぐで、熱意に溢れている。




