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だけど、ハーピアの発した声が今起こっていることが間違いなく現実であると認識させてくれた。ハーピアはまだ頭痛が収まらないらしく、辛そうな顔をしている。
「ハーピア、大丈夫?」
「どうなって、いるの…?FBIが来たってことは…わかるんだけど…」
とりあえずフェリシティ達FBIが突入し、ローレンス達が逮捕されたことを説明した。ハーピアは納得したが、その心境はうかがい知れなかった。嬉しいような、悲しいような、虚しいような。ハーピアはそれ以上何も話さず、ただ思い返すように虚空を見ていた。
当たり前か。どれだけ酷くても、狂っていても、本人は認めていなくても。ローレンスはハーピアにとっての父親だった。これまでの自分の人生で最も大きなウェイトを占めていた人物が急にいなくなった。憎かろうが愛していようが、喪失感は変わらない。
俺も何も語らずに、シートにもたれた。疲労感が体に圧し掛かる。色々あり過ぎた。約2週間、本当に色々あり過ぎた。
でも、一応の区切りはついた。記憶の空白のこと、ナイトクラウド家のこと、イリスのこと。
全部、終わったのだ。
急に車内に光が差す。またヘリコプターかと思ったが、次はオレンジ色の、射すような光だ。それは朝日だった。マンハッタンのビルの隙間から射す朝日。俺はまぶしげに目を細めながらつぶやいた。
「朝だ」
それは俺達のこれからに、明日に続く光だった。
ここまで来たら恒例になってしまっている気がするが、俺はまた病院で時間を過ごすことになった。入院するほどのケガではないが、ゼメキス達から色々暴行は受けていたので検査を受けることになった。
マンハッタンの病院は前に入院していた病院よりどこか洗練された感じがした。そこまで大きな差はないんだろうけど、かなり設備が充実している印象がある。なんでもFBIが事ある毎に使う病院で、御用達らしい。
しっかり骨折の手当てをしてもらった俺はすぐに診察から解放された。何だかんだでローレンスはちゃんと処置していたらしい。そこまで治療に手間はかからなかったそうだ。 しかしFBIからの事情聴取があるので俺はしばらく病院にいた。フェリシティが到着するまでは休んでいていいと言われたが、まだ神経が高ぶっているのか寝付けないので俺は病院の中庭にあるベンチで一息ついていた。
すでに時刻は朝の9時だ。中庭には入院患者と見舞客が談笑していたり、忙しく医者が歩いていたりと日常的な光景が広がっている。この日常の中に自分がいると思うと、安心感が芽生えた。ハーピアから事実を知ってから、いや記憶に空白ができてから俺の日常はどこか欠落していた。平穏とは無縁の状況を何度も経験してくると、この日常自体信じられなくなる。
だけど俺は間違いなくここにいる。生きて帰ってきたんだ。何度も死の覚悟をしてきたけど、俺はちゃんと生存できた。フェリシティの力を借りてしまったけど、一応は一件落着なのだろうか。だけど充実感と言えそうな感情はなかった。どこか肩透かしを食らったような、そんな感じだ。
「あら、ここにいたのね」
たそがれている俺に声をかけてきたのはフェリシティだった。防弾チョッキは脱いでいて、初めて会った時のようなレディーススーツをまとっている。銃の代わりに手には紙袋を持っていた。
「寝ていればよかったのに。病室は空いているわ」
「なんか…寝付けなくて」
「まぁ修羅場のど真ん中から生還して安眠…というのは難しいわね」
フェリシティは俺の隣に座って、紙袋を差し出した。中から香ばしいにおいがする。入っていたのは焼き立てのクロワッサンだった。
「朝食よ。食べれば気が安らぐわ。甘いものは特にね」
「ありがとうございます」
食欲はなかったが、クロワッサンの香ばしくて甘いにおいをかいでいると食べる気が沸いた。俺はクロワッサンを一口かじった。確かにフェリシティの言う通りだ。甘い風味が気持ちを穏やかにしてくれる。
「病院って嫌だわ。タバコに対して冷酷過ぎる」
「当たり前ですよ」
「私の身体を労わるなら休暇を上司に提言して欲しいわね」
フェリシティは軽口を叩きながら、紙袋から自分の分のクロワッサンを出して食べ始めた。しばらく2人で黙ってクロワッサンをたいらげた後、フェリシティは紙袋の中から紙コップ(スタバとかでよくあるデザインの奴)を出して俺に渡した。中身はカフェラテだ。季節に似合わず熱かったが、これもまた俺の気持ちを安らげてくれた。
「…ごめんなさい。守りきれなかった」
カフェラテをすすりながら、フェリシティが言った。
「あんな至近距離で撒かれるなんてね。我ながらとんだ不始末だったわ。もしあなたが殺されていたら解雇されていたかも」
「いや、俺が悪いんです。黙ってフェリシティさんから離れたから…」




