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「そんなわけないじゃない…」
「本当だよ。俺より、君がよくわかっているはずだ。そしてイリスは俺の…。だから、その意志を受け継ぎたい」
ハーピアの細い体は震えていた。辛うじて堪えていた感情が堰を切った合図のように思えた。
「なんで、なんでそんな風に考えられるの…」
細い声で、ハーピアが言った。
「多分、バカなんだと思う」
自虐的に、俺は返した。
「でも、好きだった人の大切な人なら…守りたいんだ」
「死ぬだけだよ…!」
「死なないよ。俺は生きて帰るつもりなんだ。全部終わらせて、君を自由にして…生きて帰る」
「本当に…バカだっ…!」
ハーピアが嗚咽を漏らし始めた。顔は見えないけど、小さな泣き声が聞こえてきた。
ハーピアが俺を抱きしめた。俺の肩にすがるように泣くハーピアを感じて、俺は不思議と安堵していた。
「私だって…私でいたいよっ…!」
よかった。
やっと、届いた―――。
泣きじゃくっていたハーピアは不意に我に返ると、いきなり俺を突き飛ばした。突然の一撃で俺はひっくり返る。ハーピアは俺に背を向けて顔を拭うと、髪型を直した。
「全部すぐに忘れて」
「そんな無茶な…」
「忘れて!」
ハーピアは念押しすると、ドレスの裾を上げた。ふくらはぎに巻かれたベルトについているナイフを手に取り、俺に背中を向けるように言う。
「脱出できる可能性は限りなく0だから。理解している?」
「どうにかする」
「バカ」
ハーピアはナイフで俺の結束バンドを切った。俺は軽く手首をさする。親指は折れているし、手首はしめつけられたことでヒリヒリするが、まだ使えるようだ。
「武器はコルトMK.IV SERIES 70一丁とナイフだけ。装弾数八発。対してお父様…ローレンスはゼメキスを含めた12人の私兵を連れている。数でも装備でも勝ち目はない」
「ここはどこなんだ?」
「マンハッタンにあるローレンスのビルよ。最上階の4フロアはナイトクラウド家で貸し切っている。下のフロアにはまた何人か私兵が詰めているけど…エレベーターまで行って最下層まで行けば逃げられるかも」
「この部屋からエレベーターまでの距離は?」
「60m前後かな…。距離は大したことないけど、途中で大広間を通過しなきゃいけない。それに…」
ハーピアが監視カメラの方を見た。
「もう私兵が向かってくるはず。不意打ちでもかませばとりあえず廊下には出られる。和嵩、君を助けてあげる」
「ハーピアも、ここから出るんだ。俺が…」
「一人前の戦力になってから言ってよ。…でもわかった、私も一緒に出る」
ハーピアの雰囲気が変わっていた。研ぎ澄まされたナイフのような表情をしている。俺の知らない彼女がまたそこにいた。
そんな彼女の横顔を見ていると、俺はふと思い立った。
「そういえば、ハーピア。一つだけ聴きたいんだけど」
「何?こんな時に」
「どうしてあの時、俺を殺さなかったんだ?」
なんだかんだで明確な理由を聞いていなかった。だけど俺の質問を聴いたハーピアは鼻先を赤めて顔をしかめた。
「なんでこんな時に訊くの?」
「いや…結局よくわからなかったっていうか…」
黙れ黙れって連呼されただけだしなぁ。
「そんなの知ってどうすんの」
「その…自分の立場が悪くなるのに、なんであんなことをしたんだろうって…」
ハーピアはドアの傍に寄り、廊下に聞き耳を立てながら答えを考え、言った。
「…私が、所詮イリスと同じだってことよ」
「え?」
「以上、おしまい。というか、あとで思い出した記憶教えてね。話す価値がないって、どういうことなのか」
早々に話を切り替えられた。だがハーピアの言うことももっともだ。思い出したことは全てハーピアに伝えなければいけない。




