07
アルメは、目の前に跪いている不細工な死体を眺めていた。
……ついでに言うと、胸に空いた穴から小さく光が漏れている。
「ちょっと。もう少しさぁ――」
いつものような軽口を口にしかけた時だった。目の前の死体、その向こう側に立っていたリューンが振り出した左足。それに跳ね飛ばされた死体が、視界の左に吹っ飛んだ。
反射的にその行き先へと視線を向けてしまい、立ち木に激突したそれが地面に落ちる直前になったところで慌てて視線を正面へ戻す。
目の前のリューンは、先程までと何ら変わりのない憤怒の表情を浮かべたまま、大きく肩を上下させていた。
何の事は無い。あれだけ動けば息も上がる。普通の人間と変わりない。そんな安直な事を考えていたのは一瞬だった。そのさまは、いつものように少し優柔不断にこの先のことを考えるような風にはとても見えない。
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スライは予想が悪い方に的中していた事実に吐き気を催していた。
最悪の一つ手前といった所だろうか。勿論、最悪なのはそこかしこで肉塊となっているあいつらに殺害されることだったが。
アルメの数歩先で大きく肩を上下させているリューンは、明らかに普通ではない。そしてその場合にあれを繋ぎとめる鎖は、自分の遥か後方でまだ治療さえ受けていないだろう。
あれは3人を1人で屠っている。この場合、さらに質の悪い相手が現れたと考えるのが理性的な考えで間違いない筈だ。いつものように、さすがに疲れるなどと溜め息をつきながら座り込む……そんな希望を持つべきではない。
そして即座にそれを踏まえた行動へと頭を切り替え、息を大きく吸い込む。
「アルメ、暴れ始めたら倒せ!」
理解が追いつかないだろうが、それでいい。本当にすまないが……残る全員と村の人間。それとあいつら2人を天秤にかけるのであれば、間違いなく前者を優先すべきだ。
あいつなら少しは持ちこたえるだろう。自分が逃げおおせる時間まで稼げるのかはわからないが。
周囲からの迷いの視線を浴びながら、再び全力で声を張り上げる。
「おい! 村の奴らも全員逃げろ! 今すぐ走れ!」
先程から、家屋の隙間でこちらを窺う複数の目。そちらに向けて胸の空気をすべて出し切り、再び息を吸い込む。視線の先で動きがあるのを確認しながら、周囲の人間に更に言葉を続ける。
「村の人間を誘導して本隊に戻って――」
俺とあいつらが戻るのを待て。そう言いかけた口を理性が止める。代わりに続いた言葉は「一刻ほど待って戻らなければパドルアに戻って報告しろ」だった。
苦虫を噛み潰したような表情をしているのが自分でもわかる。責任。義務。自分が嫌いな言葉に理性が従っているのがひどく不愉快だった。
何しろ。そいつのせいで棺桶に片足を突っ込みかけている。
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アルメは迷っていた。
倒せ、だと? 冗談にもならない言葉に抗議の視線を向ける余裕もなかった。視線を泳がせる事を本能が拒否している。
村の中からばらばらと駆け出す人間たちの姿が見えるが、その姿かたちに目をやる余裕もなかった。
当のリューンはというと、その憤怒の表情の中、視線はどこにも焦点が合っていないように見える。それが自分に合わされたとき、自分は正常でいられるのだろうか。
遠ざかり始めたざわめき。馬の蹄。自分の胸の鼓動と吐息。それらをひとしきりに感じた時だった。
全身の毛が逆立つような感覚に体が一瞬固まる。
それは紛れもなく。目の前に立つ自分の死がこちらを視た事を理解した瞬間だった。
溜め息じみた低い声を吐き出しながら踏み出された一歩に腰が引けそうになるのを覚えながら、慌てて両手を胸のあたりに持ち上げる。
自分でいうのも何だが。私はそこそこに腕が立つ自負がある。死地もそれなりには超えてきた。そんな経験が自分に教えていた。こいつと戦えば、私はいまここで死ぬ。
口から出た、くそ、という悪態は今まで聞いたことがないくらいに掠れていた。
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ミデルはひどい疲労感にだらりと下げていた両腕を、再び肩の高さに構えなおした。同じことを出来るのはあと1度だろう。
視線の先。いつもは一歩踏み出すように構えるアルメが半歩ほど下がりながら腕を上げるのを見ながら小さく呟く。
「やらせない」
魔力の集中に、もはや言葉になっていなかったが。
やはり視線の端、馬上で軽く杖を振るスライの姿が見えた。意識の端。なんだかんだと言いながらあの人はいい人で、そのせいでこの場で命を落とすのだろう、などと変に悟ったような事を考えていた。
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スライはのろのろと遠ざかる蹄の音に内心舌打ちをしていた。
自分たちの命を秤にかけた挙句、彼らも逃げ切れなかったのでは話にならない。或いは自分も逃げる事が出来たかもしれない時間、その終わりを告げる一歩に再び舌打ちしながら声を張り上げた。
「おい、アルメ!」
「……。」
「いいか、正気に戻るとか、そんな期待すんな! ミデルは隙見てブチ込め!」
小さく戻るミデルの返事も待たず、杖に魔力を込める。
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金髪の理不尽な指示。それにかろうじて返る勇者様の声に、アルメはかろうじて理性を取り戻しつつあった。何しろ、自分が倒れればその次に命を落とすのが誰なのかは考えるまでもない。
馬鹿正直というかなんと言うか。皆と一緒に逃げればよいものを。自分が怒るとでも、悲しむとでも思うのだろうか。勇者様が勇者たるその愚かな判断に、全身の血が沸き上がる。
振り向いて走り出したくなる感情を噛み砕く。
そう、いつも通りだ。さっきもうまくいった。あの馬鹿の金髪の言う通り、隙を作ってミデルが仕留める。仕留め損ねれば自分がとどめを刺す。それだけの話だ。
まともな時だってまるで敵わなかった。自分が1人では倒せそうもなかった相手をこいつは3人屠っている。……そんな理屈などどうでもいい。自分は自分の役割を果たすしかない。
軽く息を吐き、おざなりだった両手に軽く力を込める。
リューンとの距離はあと3歩ほど。それは、自分の距離だ。
姿勢を下げて一気に距離を詰めようとする目の前、姿勢を下げたそれの姿に足が止まる。直後、恐ろしい早さで迫る右拳を、さらに姿勢を下げて掻い潜った。踏み出していた左足が地を蹴り――体を仰け反らせる。
見切れる視界の端、今まで頭があったあたりを返す左拳が横切るのが見えた。その勢いのまま後方へ跳躍し、次に視界に入ったときにこいつが迫っていないことを祈りながら体を回転させる。
左手を地に着けて思いきり顔を見上げた。再び視界に入る死地、そこには白い靄に包まれるリューンの姿が見えた。
恐らくは眠りの霧。こんなものが通用すれば世話はないが、その目的は言うまでもない――直後。空気を裂く鋭い音と共に、青白い刀身が霧を貫く。
急激に薄れる霧を目がけ……低い姿勢で間合いを詰める。あれが腕の一本でも切り落としていてくれれば御の字だ。首なり心臓なりを貫いている、そんな希望は持つべきではない。そしてその代わりに自らが付きたてるべき大釘が仕込まれた右腕を地面すれすれまで下げながら霧の中へと肉薄する。
狙うのは。まるで何もなかったかのように五体満足でこちらを見下ろすリューン、その左のわき腹。そこへと無心で右拳を突き出す。
その先端を打ちつければ仕込まれたばねが、雑に尖った杭と呼ぶには細い金属の棒が、突き出されて化け物の息の根を止めるはず。その直前。その瞬間。
奇妙な音と共に右腕が掴まれた。……否。
右腕が、握り潰されていた。
「――っ!」
大きく開いた口から、声にならない叫びをあげていた。
ひどく見慣れていた筈の右腕は、冗談のように形を変えている。ひどい痛みを感じながらも、再び前へと向けようとした視界は溢れ出す涙で完全に歪んでいた。
直後、首を掴まれるのを感じた。
反射的にそれを左手が掴む。冷たい金属とぬるりとした血の感触。それを頭が理解するほどの間もなく、まるで小石か何かを持ち上げるように軽々と体を引き上げられる。
足が地を離れる感触に、自分が終わることを理解した。そんな事はもう少し前にわかっていたが。
そしてその方法はわからないものの……せめて勇者様が生き延びてくれる事を願う。かろうじて吐き出す吐息が、小さくその名を刻んでいた。
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過度の魔力の放出により薄れつつある意識の中。まるで店先の商品か何かのように釣り下げられているアルメの姿が見えた。
暗転しつつある視界。静寂の中に小さく響く自分の名。
ミデルは腹の底から彼女の名を吐き出しながら残る力を振り絞り、足を踏み出した。その先に彼女を救う術などない事などわかりきっていた。それでも。
そして3歩目を踏み出したところで――彼女の勇者はしかし、立ち尽くしたままで意識を暗転させていた。
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「慣れねぇことするもんじゃねぇ」
スライは馬上から彼らの終いの場面を見下ろしながら呟いた。彼らにも悪いことをしてしまった。どこかで回れ右して走り去っていれば、こんな所で命を落とすこともなかったかもしれない。
あの細い首を引き抜いた後は自分だろうか。まさかあの馬鹿の手で自分の終わりが訪れるとは思っていなかったが……どうにもならないだろう。
流石に丸くなる背中を感じながら、見慣れた家の風景を思い出していた。あいつらはうまくやっていけるだろうか。自分に何かがあったらよろしく頼むなどと冗談交じりに頼んでいたライネは約束を守ってくれるだろうか。
杖が地に落ちる乾いた音で正気に戻る。違うだろう。何を諦めている。
再び正面へと向けた見開かれた目に両腕が映り込む。こんな所で死ぬわけにはいかない。あれを、倒すしかない。
両手に込められた魔力。自分なりの詠唱を口が紡ぐのを感じながら――しかし息を吹き返した意識の端の理性が小さく呟く。
恐らくこんな物を放ってもあれを倒すことはできないこと。そしてもう一つ。
右腕一本で軽々と小娘を吊り下げたリューンが小さくその唇を動かしていた。そこから紡がれるのは、小娘とその勇者様の名だった。
そんな理性を肘で追いやったまま、空中で紋を刻む両手の先。
それは、じき。あと一息。火球の完成の直前。どさりという音と共に小娘をその足元に落としながらリューンが振り返る。そこに張り付けられていたのは――いつもと変わらないような、目の前に現れた敵を屠り終えた時のような。冷徹な、理性的な表情だった。
掌に火球を浮かべながらその表情と見つめ合う。
それは一呼吸ほどの間だろうか。再び動く唇は、はっきりと言葉を発した。
「スライ。駄目だ。逃げろ。」
端切れの理性は、掌の火球を放らせなかった。
何しろこれを放っても終いにすることなどできず、まだ息のあるあの2人だけを吹き飛ばすことになりそうなこと。目標のはずの当のリューンがこちらに完全に背を向けて森へと歩き出したこと。そして言葉にできない葛藤。
その背にこの火球を放つべきなのかもしれない。しかし手を出さなければ、奴の分を含めて4つほどの命が保障されている。
「おま……おい! リューン!」
自分でも説明できない感情が複雑に入り混じった声。
しかし、その相槌は返らず――再び静寂が場を包むばかりだった。
ちょっと読みづらいかも。




