03 (ミリア回)
ベッドの上、動く気配に意識が呼び戻された。
閉じた瞼に光が差し込んでいる。もう、起きてもいい時間だろう。
ゆっくりと開く目に映る光景。
広いシーツの上で上体を起こした大きな背中。
それはまだ完全に目が覚めているでもないらしく、首をゆっくりと回している。
まだまどろみから飛び出す決心はついていなかったが、何となくそこに触れたかった。
差し込む光で、背中に浮き出た筋肉が影を作っている。
以前先生から話を聞き、オーガという魔物について調べたことがあった。そこについていたやたらと写実的な挿絵。目の前の背中は、丁度それを思い出させるような絵面だ。
しかしそこに記された人を食うなどという物騒な解説とは相反して、彼は幾度となく私を助け起こしてくれた。
ゆっくりと伸ばす左手がその複雑な曲線に触れた瞬間、全身をびくりと震わせたそれに声を掛けた。
「ごめん、おどろいた?」
「少し」
「少しじゃないよね」
「……もう起きるか?」
「うーん。迷ってるんだよねぇ」
「まだ食事には少し早いな」
こちらへゆっくりと振り向いた、寝ぐせの残る顔に両手を広げてみせる。
軽く目を見開いたそれに催促するよう広げた手をもう一度強調し、ゆっくりと覆い被さるその背中に手を回す。
昨夜振りの抱擁と、未だ残る起きる事への抵抗。
背中に回す手に少し力を入れながら、大きく息を吸い込む私は。
「先生さ、毎日よく飽きないね」
「飽きるに決まってる。……見てるのも、もう飽きたか?」
「いやいや。そんな事ないよ?」
欠伸で大きく世界が歪む。
結局起きる事にした私が眺める背中は、今はひたすらに丸太に拳を叩きつけている。
その中に混じる、掌、肘、膝、踵、脛。時折止まる手足と、軽く上下を続ける肩。
自分が訓練に付き合って貰っていた折は、あれほど息が上がっている事などなかった。それはつまり、そこまでの相手ではなかったという事だろう。
自分は全力で立ち向かっていたし、時折押し倒したり、いい一撃を入れた事もあった。しかし、本気で殴り倒されたりしたことはない。
本音の所ではやはり本気ではなかったという事に改めて気が付いた、というのが正しい表現だろうか。
そりゃそうだよなぁ、などと小さく呟きながら視線を落とす。
あの人は剣など使わなくても敵を倒してきたと聞いている。
敵を倒す。大半の場合においてそれは相手を殺害するという事だ。
当然自分は殺されてはいないし、怪我をしたこともない。
「敵うわけないよねぇ」
「敵わない? 何か気にしてるのか?」
いつの間にか視界に入っていた足に、顔を上げる。
少し考え込むようなその顔は恐らく先程の言葉を何か違う意味でとらえたのが理由だろう。
しかしこの場合明らかに杞憂であるそれに、再び欠伸をしながら答える。
「何だかわからないけど違うってば。そんなに鍛えられたら、私が勝てないって話」
「お前はすじのいい部類だと思うぞ。俺にも何度かいいの入れてるだろ」
「うーん。まぁ、取り敢えず遠慮しとこうかなぁ」
再び欠伸をする私の隣に、呆れ顔の先生が座り込む。
「なんだよ。まだ寝ててもいいんだぞ?」
「大丈夫。もう終わりでしょ? ご飯できてるか聞いてこようかな」
「いや、まだ半分てところだな」
「……そっか」
結局。
今からベッドへ戻るのもどうかと思い、諦めてそれを眺める事にしたのだが。
今度は斧を振り回し始めたその姿を眺めながら軽く目を閉じる。
私が再び目を開いたのは暫くの後だった。その暫くというのは、それを十分に振り回し終えた頃だが。
目の前に立った先生が、肩に柄の長い大斧を担いだままで少し呆れたような声を出す。
「だから寝てていいって言っただろ。風邪ひくぞ?」
「たまには見たかったの! 別にいいじゃん」
「見てないだろ」
「まぁそうだけど」
そんなやり取りをしつつ。
未だ起きてこない3人を起こしに階段を上る先生と別れ、私は厨房へと朝食をせがみに向かった。
皿の上で厚いベーコンを刻んだ先生が、眠そうに眼をこするレイスの前へと皿を押し出す。
彼女はそれに、ありがとうございます、と小さく頭を下げてフォークを握った。
自分が蚊帳の外のようで少し悔しいが、私にもやってくれ、などというのは流石に無しだろう。
まぁ、そんな事はいい。
「先生さ、今日暇だって言ってたよね?」
「ああ、特に用はないな。強いて言えば――」
「強いて言わなくていいよ。ちょっと後で相談したい事があるんだ」
「相談? わかった。どこか謝りにでも行くのか?」
「ええと。それは……違うよ」
後で赤髪の首を絞めてやると心に誓いつつ。
ベーコンを突き刺したフォークを口に運ぶ先生に苦笑いして見せた。
遅れてやってきたエルフの2人が食事を終え、いつものように木の根元へと腰かける。
動かない2人を眺める庭の長椅子の上。いつもの様に3人並んで座った所で先程の続きを始めた。
「あのさ。お祝いの話なんだけど」
「あぁ、悪いな。少し忘れていた」
「そうでしょ。折角だからちゃんとした服装で、食事会とかでどうかなって」
「そうだな。それなら別にいいんじゃないか?」
先生がどう思っているかはわからないが。
これから3人で生きていくと当の3人全員が決めているのだから、できればそういった節目は欲しい。あまりそういった事に興味はなさそうだが恐らく、レイスだってそう思っている……と思う。
教会で神に愛を誓う。それは所謂一般的な理想であり、平民であればささやかに祝う程度が普通だ。その平民ではない今の立場を鑑みれば、前者でも全く構わないだろう。
しかし以前少し話した折、神に祈った事もそれへの興味もない先生、そしてレイスの過去の境遇、そのあたりを鑑みれば。神に何かを誓うなどというのは気乗りがしない、という話になっていた。
少し考え込むような仕草の先生の向こう。本に視線を落とすレイスの顔が少し曇ったように見えた。
「レイスもだよ? 後で採寸に行こう」
「え。私はいいよ……」
「いやぁ、それは駄目だね」
「駄目って……」
「だよね?」
同意を求め、隣で考え込んでいる顔を見上げる。
暫くの沈黙の後。
「そうだな、やろう。後で行ってくるといい」
「行ってくるといいって。一緒に来るんでしょ? まさか来ないつもり?」
「そういうのは女同士の方が具合がいいんじゃないのか?」
「そんな訳ないじゃん、そういうのは一緒に行きたいんだよ。ねぇレイス?」
「……。」
「レイス?」
「うん。……そうだね」
腹を括ったらしい。
ティアとヴォルフに出掛ける旨を説明している先生の後姿を眺めながら、未だ考え込む表情のレイスへと向き直った。
「レイス? ……嫌だった?」
「嫌じゃないよ。でもなんていうか、私はそういうのは違うかなぁって」
「違わないよ。それにさ、想像してみて」
「?」
「知っている人を皆呼びました。皆さんがいる所に、私と先生が2人で出てきます。レイスさんは皆さんと同じ、それを見ている側の席です。……どう?」
その言葉で下唇を噛んで俯くレイス。その距離を詰め、肩をくっつけながら続ける。
「皆を呼んで、そこに3人で出ていきます。この方がいいでしょ? 私はこっちの方が正しいと思うよ? 先生もレイスが綺麗な格好しているのも見たいと思うし、その時には隣に居て欲しいと思うなぁ」
「……うん」
「それにさ、前の王都の時以来じゃない? あの時はびりびりになっちゃったけど」
「……。」
それは、かつて彼女が先生に受け入れられる切欠になった折の事。
ただそれを眺めている立場だった自分が。……いまは彼女と並んで座っている。
暫くの沈黙。
レイスはその折の事を思い出しているのだろうか。ひどく柔らかい表情で先生の背中へ視線を送っている。
かくいう自分もその折に先生の背中を蹴っ飛ばした事や、それがいつの間にやらこの状況である事を考え込み、自然と笑っていた。
隣でその笑い声に気付いたレイスも、何となしに笑いだしている。
彼女の傷だらけの右手を握る。
「ね? 一緒に行こう?」
レイスは今度こそ、大きく頷いていた。
戻ってきた先生に、なんだお前ら?などと訝しげな顔をされながらも。
私たちはメニルの店へと向かう事となった。




