2人の日常16
長話で少し疲れ、レイスも戻っていない。
部屋に戻る以外にやる事がない俺は、ベッドにだらしなく横になった。
見慣れた天井。
聞きなれた表通りの喧騒。
部屋とベッドに染みついた匂い。
それらは眠気を誘うに十分だった。
どれ程の時間が経ったのか。
途切れた意識が静寂の中へ呼び戻される。
暗い部屋の中へ、月明かりが差し込んでいた。
表通りの喧騒もまばらだ。
見渡す部屋の中に彼女の姿はない。
起き上がり軽く頭を振った。
「一応、迎えに行くか……」
別に彼女は子供ではないが、それでもあまり遅い時間にふらふらとさせるのは気が引けた。
街の中だとはいえ、物取りや強盗が全くない訳でもない。
もっと言うと、ついでにどこかで何か食事をとりたかった。
恐らく既に片付けを終えているであろうルシアには頼みづらい。
机の上に簡単な書置きを残し宿を出た俺は、いつも通る養成所の方向の反対に歩き始めた。
確かこちらの方が近道だと言っていた。
時間も遅い。急ぐのであればこちらを通るかもしれない。
途中、片付けを終えかけている酒も出す露店で残り物を買い、それを頬張りながら歩く。
やたらと味が濃く冷めて固い肉に辟易しながら、なんとかそれを飲み込んだ。
結局誰と出会うでもなく、富裕層の区画に辿り着いた。
先程部屋にいた時も感じたが、明るい月のせいで通りは暗くはない。
久々に1人歩く夜の道に、レイスとミネルヴを追いかけていた折の事を思い出す。
そういえば、あの夜はこれとは対照的に真っ暗な空だった。
そしてあの時は、ただ必死に彼女を追いかけていた。
それ以外の何を考える事もなかった。
多分あの時は、その必要もなかった。
色々な事を思い出しながら進ませる足に何を意識するでもなく、いつの間にかこれから与えられる筈の屋敷の前に立っていた。
腰高のフェンスに手をかけ、軽く飛び越える。
今抱え込んでいるものの象徴とも思えるそれは、まだ家の体も為していない。
その、ただの材木の組み合わせに腰を下ろした。
軽く見上げた視界の中で、丁度満月なのだろう真円の月が白く輝いている。
本当に真逆だ。
一人そんな事をぼやき、何をするでもなくそれを眺めていた。
しかしそれも大した時間ではなく。
ここへ至った経緯を思い出し、立ち上がろうとした時だった。
小さな声が聞こえた。
先程乗り越えたフェンスの向こうで手を振る人影が見える。
出来ればあまり会いたくないと思っていた当人が目を凝らし、こちらを見つめていた。
こちらが誰だか確認できなかったのだろう。
顔をそちらに向けた俺を確認するとフェンスを乗り越えようとしている。
手を掛け、俺と同じようにそれを飛び越えようと跳躍する。
そして。
静かな通りに響くびりびりという情けない音。
「うわわわ……」
ついでに。情けない声。
予定通り立ち上がった俺は。顔に掌を当てて俯いていた。
ひっくり返り、立ち上がりながらその情けない音の原因を確認するミリア。
確認する必要があるのだろうか。
膝の少し上あたりまでの後ろ半分が、もう落ちてしまいそうだ。
少し顕になった肌の白さが、白い月明かりで殊更に強調されている。
その姿に軽く目を背けながら、渋々そこへ歩み寄った。
「何やってんだよお前」
「いやあ。スカートなの忘れてたよ……」
破れた箇所の確認で懸命に体を捻る所に、着ていたシャツを差し出してやる。
「とりあえず巻いとけ。その恰好じゃ何事かと思われるだろ」
「え。ああ、ありがとう。……増えちゃうね」
「増える?何が?」
「ああ何でもない、ちゃんと返すから。さっきからよく転ぶよ」
「さっきから転ぶ? 酒でも飲んでるのか?」
「違うよ。レイスにさ。私の事殴らなきゃ返さないって言ってたんだけどね」
「お前、そんな事言ったのかよ」
冗談で殴り返せ、などと言ってはいたが。
本当になってしまった。
「なかなかやらないからこんな遅くなっちゃってさ」
「本当にお前ら一体何やってんだ……」
「それがいい振りでさぁ。私ひっくり返っちゃって。大変だった」
「そいつは……」
彼女の細い右腕を思い出す。
……思いのほか、やるらしい。
ミリアの口から語られる予想外の出来事に顔を歪める前で、ミリアは破れた箇所を懸命にたくし上げ、腰にその上からシャツを巻いている。
腹の前で袖を結び、これでよし、とでも言いたげな顔がこちらを見上げた。
「じゃあ借りるね、ありがと。所で先生、何やってんの?」
「それは俺が言う言葉だろ。何やってんだこんな夜遅く。一緒じゃないのか?」
「送って行った帰りだよ。何となく見て行こうと思って寄ったら怪しい人影が居たからさ」
「……そうか。じゃあ帰るか。お前も早く帰れ。もう遅いぞ」
「わかったって。所で先生さぁ」
そう言いながら、先程俺が座っていた所へ歩いていく。
「分かったんじゃないのかよ……」
仕方なく少し遅れてその後を追った。
座り込んだミリアがおもむろに、上を指さす。
「なんだよ」
「先生。さっき見上げてたでしょ。月、きれいだね」
そう言う当人はレイスの言葉を借りれば、まるで太陽のようで月とは真逆だろう。
月を連想させるのは。
目を潤ませながらその思いの丈を口にした、彼女の事を思い出していた。
幾らその細い右手を伸ばしても届かない、彼女の希望を。
振り返り、空を見上げる。
ひたすら遠く高いその輝き。
「……そうだな。届きそうもない」
視線を落とす、その後ろで軽く吹き出すような笑い声がした。
馬鹿にされたように感じ、少し怒ろうと振り返る。
「あのなぁ」
「……届くよ 」
「……?」
「大丈夫。届くよ」
真剣な眼差しがこちらを見上げていた。
「先生、私ね。2番目でもいいんだよ」
「……何言ってんだ」
「それで近くにいられるならそれでもいい」
「そんな事を簡単に口走るな」
「簡単に言う訳ないでしょ。……ひっぱたくよ?」
「……逆じゃなかったか?」
「ああ。そっか」
「あのな。こんな事に付き合う必要なんてない。よく考えろ、お前はこれから先の方が長いんだぞ?」
「よく考えたよ。それに。私がそうしたいのに、付き合うって言い方はおかしい」
「昨日からだろうが。ふざけてんのか?」
「違うよ、レイスに言われる前から似たようなこと考えてたんだって。本当だよ?」
訝しげな表情を崩さない俺を、意にも介さず彼女は続ける。
「先生にはレイスがいるし仕方ないかなって。でも。
レイスから聞いたよね?きっと先生はそんなのは嫌だって言うと思うけど、でも、そうしたら他に誰か女の人を連れてくるしかないんだよ?だったらそれは――」
「ああ、うるさい。……ちょっと黙れ」
「いやだ。黙らない。もしそうしないんだったら、無理だから諦めろって、先生、言えるの?
レイスは先生の為なら何でもするって言ってた。私だって……何でもするよ。
何でも。それに。何かさせてよ。私にだって。」
強い視線を放つ目に、涙が浮かんでいる。
「なんで、助けに来たの。どうして守ってくれるの。何もさせてくれないんだったら、あの時、死んじゃった方が――」
「おい、ふざけるなよ。金の為とは言え、お前を守った奴らはお前を見捨てて逃げ出したか?……そんな事は言うべきじゃない」
「そんな事わかってるよ。それでもつらいんだよ!だってそこまでしてさぁ……」
恐らくは折衝点としてもっとも単純な。
目的を達成するのに必要な物を、感情に任せ安易に差し出そうとしている彼女は。
目の前で俯き、ただ涙を流している。
少し。
吐き気を催していた。
先程無理に飲み込んだやたらと固い肉のせいではないだろう。
「わかった。だからもう少し考えろ。お前は結論を急ぎ過ぎている。一時の感情で――」
「怒るよ? 一時の感情? ふざけないでよ。じゃあどれくらい長ければ一時じゃないの?3日?1年?」
「おいちょっと待てよ。俺はそんな――」
「私は1年でも2年でも待つよ。前に先生は10年早いって言ってたよね。10年待てばわかってくれる?」
色の濃い怒りの感情。
その涙ぐんだ視線が、まっすぐに俺の目を見つめている。
「わかった。わかったから少し落ち着け」
「……それにね、先生」
「ああ。」
「近くに置いておかないと、またどこかに助けに来て貰うよ?」
「……自分を人質にするなよ」
涙を流しながら笑って見せる彼女の言葉に、こちらも力なく笑って見せた。
涙を拭いながらミリアが立ち上がる。
「だから先生、よく考えてよ。私は大丈夫だから。待ってるから」
ゆっくりと差し出す左手が、俺の胸のあたりに添えられた。
その手はゆっくりと下がっていき。
力なくそこから離れ、戻ろうとするその手を途中で握った。
少し驚くような顔のミリア。
「気持ちは分かった。ありがとうな。だけどもう少し――」
「だから待ってるってば。大丈夫。レイスだってずっと待ってた。私だって待てるよ?」
再び笑う彼女の手をゆっくりと放す。
「俺は甲斐性とか無いからな。待つなんて言ってないでその間にさっさといい相手を見つけろ」
「……自覚あったんだ」
「少しは否定しろよな」
それまでの色々な表情を洗い流すよう、楽しそうに笑う彼女はまさに太陽のようで。
目の前でそれに晒される俺の影を、殊更に濃くするように思えた。
少し遠回りになるがリンダウ家の前を通り、再び寝床へと戻る道を歩く。
月明かりに照らされた道は、不安を微塵も感じさせない。
人から想われる事のありがたさと、自分の目的だと思っていた物との剥離。
収まらない少しの吐き気を堪えながら、誰も行く者が居ない夜中の道を歩いていた。




