Episode 91: 灯火が消える前に(???視点)
――息が、痛い。
胸の奥が灼けるように熱い。
けれど腕の中の赤ん坊の体温だけが、まだ確かに生きている。
どうか、泣いて。
どうか、声を出して。
そうでないと、心が壊れてしまう。
背後で“それ”が軋んだ。
木でも、肉でも、鉄でもない、封印が綻ぶとき特有の異様な音。
――村がとうとう食われていく音。
「……あんな村……壊れれば……いい……!
この子だけ……助か……れば……」
叫んでも、嘆いても、なだめても、
“何か”はただ“完成”だけを求めて伸びてくる。
私は石階段を駆け上がる。
鳥居はすぐそこ。
そこを越えれば、“外”に出られる。
ずっと昔、死んだ巫女の婆さまが言っていた。
――鳥居の外だけは、村の理が及ばない。
そのための鳥居。それだけが、この村に残された救い。
だからあなたを外へ出す。
私ひとりが取り残されてもかまわない。
背中に焼けるような痛み。
“それ”の爪が制服を切り裂き、皮膚ごと肉をそぎ落とす。
けれど私は止まらない。
赤ん坊の体をさらに強く抱きしめる。
「いやだ……まだ……ッ……走れる!」
階段の途中、影が横からせり上がった。
私は腕を巻き込み、拾った木の枝を振り抜く。
影が弾け、黒い霧となって散った。
――まだ戦える。
恐ろしくても、震えていても。
この子を守るためなら、私は何度でも立ち向かえる。
鳥居が目前に迫る。
霧がざわつき、空気が凍る。
“それ”が焦っているのが、背中の皮膚越しにわかる。
境界が閉じる前に、私を取り込まねば完成しないと、悟っているのだ。
村の灯りはすでに半分以上消えていた。
家々は形を失い、時間が剥がれ落ちるみたいに歪んでいく。
境界を破って伸びた“それ”の刃が背中を横切る。
息を吸うたびに血の味が広がり、
腹の裂け目から温かいものが滴り落ちる。
神社の鳥居をくぐる瞬間、視界が揺れた。
まるで時間の層が剥け、別の季節が垣間見えるような光景。
「……ここ……なら……」
私は最後の力で赤子を抱き直し、
前へ――未来へ――背中を押し出すように境界を踏み越えた。
その瞬間、世界の色が変わった。
凍りつく冬の空気。
いつもの光景なのに、なぜか何かが違った。
空気の匂いさえ違う気がする。
「……つ、いた……?」
背後で“何か”の気配が途切れる。
私たちを追うことも、存在することもできなくなったように、
“何か”がちぎれ落ちていく感覚だけが残った。
向こう側では、村が崩れ落ちるような震えが遠雷のように続いていたが、やがてその音も空気ごと閉じて消え去った。
唇から掠れた笑いが漏れる。
「……ざまぁ……みろ……
腐った村ごと……消えちまえ……!」
安堵と、解放と、浅い復讐心が胸に満ちる。
終わった……あの忌まわしい因縁から逃げ切ってやったんだ……私は。
身体が耐え切れず、膝がくず折れた。
それでも赤ん坊だけは落とさないよう、腕だけは緩めなかった。
じわじわと目の前が霞んでゆく。
「…そういえば…まだ…名前を決めてい…なかったね……
アンタの……名、前……を…………」
その手が、ゆっくりと落ちる。
視界が暗く閉じる直前、
腕の中の赤ん坊だけが、確かに、生きて温かかった。
それだけで十分だった。




