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Episode 99: 放浪

玄関を出た瞬間、冷たい空気がそのまま胸の奥に入り込んできて、さっきまで部屋の中に溜まっていた熱を一気に押し出されたみたいな感覚になる。


……やっちゃったな、とは思う。


思うけど、それ以上にうまく整理できない。


歩きながら、無意識にポケットに手を突っ込む。

指先が少し冷えているのに、頭の中だけが妙に熱い。


別に、怒ってたわけじゃない。

あいつらに対して、どうこう思ってたわけでもない。


むしろ、逆で。


あの場の空気が、あまりにも“普通”だったから、余計に、引っかかった。


——ヒーロー、なんて言葉。


軽く口に出していいもんじゃないだろ、なんて、そんなこと思ってる時点で、自分の考えがズレてるのはわかってる。

わかってるのに、止まらなかった。


言い方も、顔も、多分、だいぶ嫌な感じだったと思う。


「はぁ、俺って……最悪だな」


小さく呟いて、足元を見る。

アスファルトの細かいひび割れに、なんとなく視線を落としたまま歩く。


あいつらの顔が、頭に浮かぶ。

クロの、少し不安そうな顔。

敦史の、考え込むような視線。

修二の、あの、いつも通りの落ち着いた顔。


「……いや、別に、何も悪くないだろ、あいつらは」


わかってる。

悪いのは、どう考えてもこっちだ。

勝手に引っかかって、勝手に拒否して、勝手に空気を悪くして。


しかも理由は説明できない。

したくもない。


「……めんどくさいヤツだよな、俺って」


思わず出た言葉に、自分で少し笑いそうになる。

そのまま足を止めるでもなく、そのまま歩き続ける。

どこに行くあてもないのに、とりあえず家から離れたくて出てきただけで、行き先なんて決めてない。


……いま戻るのも、なんか気まずいし。

かといって、このままずっと外にいるのも違う。

中途半端なまま、ただ時間だけが過ぎていく感じがする。


「はぁ……」


息を吐いたタイミングで、前から聞き慣れた声が飛んできた。


「あら、流星くんじゃない!お出かけ?」


顔を上げると、買い物袋を片手に下げた大場さん(オバチャン)が立っていた。

相変わらずのタイミングの良さというか、悪さというか。


「……あ、どうも」


軽く会釈する。

普段なら、ここから膨大な世間話に巻き込まれる流れになるのはわかってる。

だけど正直、今はあんまり人と話したい気分じゃない。


けど、この人はそういう空気を読むタイプじゃないし——


「……って、あら?」


その大場さん(オバチャン)が、少しだけ表情を変え、じっとこっちを見ている。

その視線に、なんとなく居心地の悪さを感じて、無意識に目を逸らす。


「どうしたの、なんかあった?」


いつもみたいな軽い興味本位じゃない。

少しだけ、トーンが落ちている。

その変化に、逆に戸惑ってしまった。


「いや、別に……その」


反射的にそう言いかけて、言葉が止まる。

ここで突っぱねても、この人は多分引かない。

むしろ、余計に突っ込んでくるだろう、それがいつものパターンだ。


だったら——


「……ちょっと、喧嘩みたいになって」


適当に濁した。

これは嘘ではないし、本当でもない。

ちょうどいいライン。


「喧嘩?」


大場さん(オバチャン)が少しだけ首を傾げる。


「誰と?」

「……まあ、仲間内でです」


それ以上は言わない。

言えない、というか……ヒーローがどうとか、正義がどうとか。

そんな話、普通の主婦である大場さん(オバチャン)に説明できるわけがない。

そして説明したところで、伝わるとも思えない。


「ふぅん……」


だが、いつもならここで「なんで?」「何があったの?」って弾丸のように畳みかけてくるはずなのに、大場さん(オバチャン)はそれ以上踏み込んでこなかった。

少しだけ間を置いて、それから、ゆっくり口を開く。


「そっか~」


それだけ。

大場さん(オバチャン)にしては妙にあっさりしすぎている。

拍子抜けするくらいに。


その反応に思わず、顔を上げた。

大場さん(オバチャン)は、こっちを見て、少しだけ目を細めていた。


「流星くん、そういう顔するの珍しいものねぇ」

「えっ……顔?」

「ええ。なんていうか、困ってるのに、どうしたらいいかわかんないって顔してるわよ?」


ストレートすぎて、一瞬言葉に詰まる。

俺って今、そんな顔してたのか……まったく自覚はなかった。


「……してます?」

「ふふ、してるしてる!」


軽く笑いながら言う。

でも、その笑い方は、いつもの噂話の時みたいな軽さじゃない。

少しだけ、距離を取った感じの優しさがある。


「まぁ、若いうちは特に行き違いとか些細な喧嘩なんてね、どこでもあるし」


大場さん(オバチャン)はそう言って、持っていた袋を少し持ち直す。


「感情に任せて言いすぎちゃうこともあるし、自分が自覚が無さ過ぎて言われすぎちゃうこともあるし」


その言葉が、妙に引っかかる。

言いすぎた、のは間違いなくこっちだ。


でも——


言われた、という感覚はない。


「……別に、言われたわけじゃないんですけどね」


思わず、そんな言葉が出る。


「じゃあ、そうねぇ、自分で勝手に言いすぎたのかしら?」


さらっと言われて、ぐっと詰まる。

図星だ。


「……まあ、そんな感じです」


苦笑しながら答えるしかない。


「あらぁ!じゃあ、簡単じゃない!」


大場さん(オバチャン)はあっさり言う。


「ちゃんとあとで謝ればいいんだから」


その言い方が、あまりにも“普通”で、一瞬だけ何も言えなくなる。

謝る……それだけのこと。


それがぱっとできれば、こんなに引きずってない。


「……そんな、簡単じゃないですよ」


小さく呟く。


「そうかしら?」

「……なんか、その……」


言葉が続かない。

何がどう簡単じゃないのか、自分でもうまく説明できない。


ただ、単純に「ごめん」で済ませていいものじゃない気がしている。

でも、その理由を言葉にすると、多分、全部崩れる。


「ちょっと言いにくいこと、言っちゃった感じ?」


静かに聞かれる。

さっきよりも、少しだけ低い声で。


「……まあ、そんなとこです」


曖昧に返すと大場さん(オバチャン)は、それ以上は踏み込まなかった。

少しだけ空を見上げて、それから、またこっちに視線を戻す。


「じゃあ、余計にちゃんとしないといけないわね」


その言葉は、強くもなく、軽くもなく、ただそこに置かれた。


「気まずいんだったら時間おいてもいいけど、逃げっぱなしにすると余計に言いにくくなるわよ!

そういうもんなんだから!これはほんのちょっと年上のおばちゃんからの助言ね」


”逃げっぱなし”その単語が、胸の奥に引っかかる。

……その場から逃げた、のは事実だ。

あの場から。あいつらから。


自分の言葉から。


「……ですよね」


その言葉に素直に小さく頷いた。

すぐに戻る気にはなれないけど、流石にこのままでいいとも思ってない。

その中途半端さが、一番面倒だ。


「まあ、流星くんなら大丈夫でしょ!」


軽く言われる。

根拠なんてないのに。

でも、その言い方は妙に自然で、否定する気にもならなかった。


「……どうですかね」

「流星君なら、どうにかするんでしょ?」


そう返されて、少しだけ言葉に詰まる。

……そういう前提で見られてるのか。


「……まあ」


曖昧に返すしかない。

否定は、できない。


「それでいいのよ!」


大場さん(オバチャン)はそれだけ言って、軽く手を振った。


「ほらほら!あんまり長く引っ張らないでね。気まずいのって、時間経つほど面倒になるから」

「……はい」


素直に返事をする。

それを聞いて満足したのか、大場さん(オバチャン)はそのまま手を振って歩いていった。

いつもみたいに長話になることもなく、あっさりと。

その背中を少しだけ見送ってから、ゆっくりと息を吐く。


……なんか。


思ってたより、普通の会話だった。

なのに、妙に残る。


「……どうにか、する、か」


小さく呟く。

すぐに答えが出るわけじゃない。

でも、戻らないって選択肢も、多分ない。


ポケットの中で握っていた手を、少しだけ緩める。


足の向きを変える。

来た道を、そのまま引き返すわけじゃない。

けど、少なくとも、離れ続ける方向でもない。


「……はぁ」


もう一度、深く息を吐いた。

なんだかさっきより、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。


それだけで、今は十分だと思った。

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