第三話
何故この世界で最も強いと恐れられる竜王にせっせと世話をされているのか。
思い返してみても、ちょっとよくわからない。
あの日、あの森で後悔と共に意識を失った私は唐突に目覚めた。
何故なら、息ができなかったからだ。
「う……うう……んぐふぅっ!?」
息がしたい。
息がしたいのに、もそもそとした何かが喉を塞いでいて呼吸ができず、盛大にむせた。
そうしてさらに加速度的に死を予感させた。
息を吸い込むとその何かが喉にびたりと張り付くのだ。
さらにはそのチクチクとした感触に喉が刺激されてまた咳が出るという悪循環に追い込まれ、あ、これはもうだめかもしれないと思った。
苦しい。
ただひたすらに苦しい。
何も考えることはできず、横向きになって体を丸めるようにして咳き込み続けていると、「なんだ。死ぬのか?」と頭上から声が降ってきて、驚きで私の全身はびくりと跳ねた。
その衝撃で喉に詰まりかけていた何かをごくりと飲み込む。
「うぐえぇ……」
塊が無理矢理押し広げるようにして喉から体の中へと落ちていく異物感がとてつもない。
水気がないからゆっくりとしか進まないのも地獄だ。
苦しい。痛い。
けれどとりあえず助かった。
本当に死ぬかと思った。
生理的な涙が流れ出るのにかまう余裕もなく、私はようやっと手に入れた空気をゆっくりと胸に送り込んだ。
「生きてるな」
なんなのその逐一の生存確認。
怪訝に眉を顰めて声のほうへ顔を向けると、そこにはさらりとした長い黒髪を垂らしてこちらを覗き込む美麗な顔があった。
「わ」
思わず漏れた一音に、美麗な顔がふむ、とやや満足げになった。
「おまえの遺言通りにしてやったのだがな。生き返ったか」
死んでない。
いや死んでたの……?
いやいや、人間なんてそんな簡単に生き返りはしないのだから、死んでもいなかったはず。たぶん。
しかし、遺言通りとは?
疑問に心の中で首を傾げ、意識を失う前のことを思い出す。
そうだ。この人は私を木の棒でつんつんとつつこうとしていた、『陛下』と呼ばれた人である。
服は全身真っ黒だけれど、たてた襟は銀糸の刺繡で縁取られていて、長い黒髪の間に巻き角が突き出している。
このどこからどう見ても竜王だろう人と、そのお付きっぽい二人に見つかって、力尽きたんだった。
私が『心底わけがわからない』という顔になってしまっていたのか、竜王はそんなことも覚えていないのか? というようにまじまじと私を覗き込む。
「おまえが言ったんだろう。薬草を食べればよかったと。だからおまえが握っていた葉を口に入れてやった」
確かに思った。
だがまさかそれが口に出ていたとは。
「ありがとうございます……」
「死にかけながら何故あのようなものを食べたがった?」
「あれは熱を下げる効果があるのです。すり潰す力が残っていなかったので、とにかく口に入れてしまえばよかったと」
それが大いなる間違いであったことは、今、身をもって学んだ。
何故すり潰して飲むのか。
それはそのほうが体内に薬効成分が取り込まれやすくなるからだが、何より弱った体であんなモソモソとした葉っぱなど噛めないし、飲み込めないからだ。
そもそも意識がないところにいきなり口に突っ込まれても無理。
「そうか。ではとにかく口に入れたのだからそのうち熱も下がるんだな」
確かになんとか飲み込みはしたけれど、丸呑みでどれほどの効果が得られるかはわからない。
それでもふかふかのベッドに寝かせられていたおかげか、体は少し楽になっている。
相変わらず熱もあるようだし、体が重くて痛いけれど。あとさっきの一件で喉も痛い。
改めて周りを見回せば、部屋は殺風景でほとんど物は置かれていないし飾りっけもないけれど、とにかく広い。
何より壁と絨毯を見ただけでそこら辺の貴族の屋敷とはわけが違うとすぐに知れた。
たぶん竜王の城なのだろう。
一瞬、逃げるべきかとも思ったけれど、放っておいても死んだはずの私がこうして運び込まれて寝かされていたということは、殺そうとしているわけではないだろうし――いや死にそうにはなったけれども、森で倒れていた時より何倍も状況はいいはず。
たぶん、竜王であろうその人は、ベッドの傍に置かれた椅子に座り、布団にぽすりと頬杖をついたままじっとこちらを眺めている。
威圧感はない。
「おまえは何を望む?」
問われて、考えた。
「水が欲しいです」
戸惑いはあれど、あれこれ考えるほどの気力も体力も回復してはおらず、ただ素直に口にした私に、竜王は束の間何を言われたのかわからないというように黙り込んだ後、「わかった」と一つ頷き部屋を出て行った。
誰かに頼むのだと思ったのに。
自ら水差しとコップを持って再び現れた竜王は、目の前で水を注いでコップを渡してくれた。
「飲め」
「ありがとう、ございます……」
私は身を起こそうとしたけれど、力が入らずうまくいかなかった。
それに気づいたらしい竜王は、私の背を支えて起こすと、口元にコップを添えてくれた。
口を開くと、竜王がコップを傾けたのだが、私が口に含むことのできる量よりも流れこむ量のほうがはるかに多く、ごふっと盛大にむせた。
「なんだ。これしきの水も飲めないのか。人間とはなんともか弱いものだな」
ということはこの人はやっぱり人間ではないわけで、さらにはとても強い種族なのだろうから、竜王だというのはもはや間違いはないだろう。
竜王は布団を引っ張り上げて私の口元を雑に拭くと、今度は慎重にコップを傾けた。
少しだけ流し込まれた水を必死に飲み下し、再び口を開けるとまたゆっくりと水が流し込まれた。
何度かそれを繰り返した竜王に「もう大丈夫です」と首を振ると、そうか、と私を再びベッドに寝かせ、丁寧に布団をかけてくれた。
さっき濡れた布団を。
胸元がびちゃびちゃである。
だがその冷たさが熱のある私には気持ちいい。
このままだと体調が悪化するような気もするけれど。
「あなたは竜王陛下では……?」
「そうだが」
あっさりと返った答えに、次いで問いかけた。
「何故私を助けてくれたのですか?」
知らなければこの先の身の処し方も考えようがない。
聞けるときに聞くのが信条だ。
答えはためらうことなく返った。
「国を滅ぼすと言っただろう? どうやって滅ぼすのかと興味が湧いてな」
「興味……」
「このように病に倒れてぜいぜい苦しげに呻いているようなか弱い人間に、どうやって国を滅ぼせる?」
本当にその通りだ。
私に何の力があるというのか。
私もレジール国の人々に聞きたい。酒を飲みながら言い伝えなんて、と馬鹿にしているというのに、起きるかどうかわからない『もしも』に怯え、何もしていない生まれただけの私を殺そうとしていた人たちに。
魔物が国内に現れたとか、水害が起きたとか、私にどんな力があればそんなことができるというのか。
「私にもわかりません。ただ私は言い伝えの日に生まれましたので、『滅びの魔女』と呼ばれていたのです」
「そんな曖昧なものをこぞって信じ込んでいるのか」
「半信半疑という人が大半ではないでしょうか。ですが、誰にも『ない』とは言い切れないからこそ、不安が拭いきれない。だから私が処刑されることを望むのだと思います」
「うん……? 人間どもに追い立てられて我が国を滅ぼしに来たのではないのか? なぜおまえが人間に処刑される?」
危なかった。やはり誤解されていた。
「私が滅ぼすと言われていたのはレジール国のことです。だから国を追い出され、熱に倒れていたのです。グランゼイル国にいれば国が滅びるようなこともないと思いますので、この国にいさせてほしいと、そうお願いしたつもりでした」
「なんだ。久しぶりに我が国グランゼイルを滅ぼさんとする者が現れたかと思ったが」
「違います。グランゼイル国にも竜王陛下にも害意はありませんし、そのような力もありません。大事なことなのであと三回くらい言いますが、断じて」
「わかった。もういい」
面倒くさそうに続きを奪われたので、言葉を替えておこう。
「ありがとうございます。行き倒れていたところを助けていただき、感謝あるのみです」
私が深々と頭を下げると、竜王は組んだ足の上で頬杖をついた。
「レジール国王も傍迷惑なものだな。人間はよく国外追放とやらをするが、自分の国さえよければよいのか。よその国に押し付けてそれでよいとする国王などロクなものではない。その国で罪人だと決めたのならば自国で裁くべきだろうが。よく戦争にならんものだな」
確かにその通りだ。
「すみません」
それしか言えない。
「おまえが謝ることはない。おまえはただ生まれただけ。滅びの魔女と決めたのも他人で、この国へ追いやったのも他人だ」
その言葉に何と返せばいいかわからなかった。
確かに私のせいではない。けれど竜王にはもっと関係のない話で、それこそレジール国の宣戦布告と受け取り、攻め入ってもおかしくないのに。
「人間とはどのようなものかと思ったが。話を聞いてますますわからなくなった」
そう言って竜王は私をじっと見つめた。
自分はこれからどうなるのだろう。
竜王の言葉に一抹の不安を覚えたその時。
「だからおまえを観察しよう」
「え」
何の宣言だろうか。
「あの、私を観察したところで私は数いる人間の中の一人にすぎませんし――」
「だが今最も意味がわからないのがおまえだからな」
そう言われると何も返せない。
確かに竜王からしたら国を滅ぼすんだか滅ぼさないんだかわからないし、死にかけながら草なんぞを食べたがってたし、水も思ったより飲めないし、わけのわからないことばかりなのだろう。
一つ一つ説明はしたものの、これまでの会話だけで認識に多大な相違があったことは明らかになっている。
「まずは病を治せ。獣人は病になど滅多にかからぬから、何をすればよいのかは知らん。だからそのために必要なことはおまえが言え」
「は……い。あの、とりあえずこの布団が渇くまでどけてほしいです」
急な展開に頭がついていかず、ただ素直に要望が口から出た。
「わかった」
「それと、できれば濡れたタオルか何か布のようなものがありましたら額に載せたいです」
「何故だ? だったら先ほどの布団でいいだろうが」
「布団を頭にかぶっていたら熱がこもってしんどいです。冷やすのは脇の下などがよいそうですが、今は頭が重い感じがあるので額を冷やしたら楽になるのではと」
「なんとも我儘な体だな」
「すみません」
別に文句を言ったつもりはないようで、竜王は、よし、と立ち上がった。
「あとは肉か」
「……にく」
「食べねば治らんだろう」
「いえ、あの、今は肉はちょっと……」
「なんだと……? 人間は食べずに治すのか。水だけで生きていけるのか?」
「いえあの、パン粥がほしいです! パンを水かミルクでひたひたに煮たものです。体が弱っている今はそういう柔らかくて食べやすいものしか受け付けられないので」
「そうか。難儀なものだな」
竜王の細身に見えるけれどしっかりとした体つきを見れば、たしかに病とは無縁そうだけど。
寝込んでも肉を食べたら治るならすごい。
「後で持って来てやろう。他には? 何が欲しい?」
「今はとにかく眠りたいです。とても眠くて」
瞼が重い。
喋って疲れたし、何より起きぬけに死ぬほど咳き込んで疲れていた。
「食べるまで起きているだけの体力もないのか。弱いな」
「ここに至るまで、いろいろとありましたので。なるべく竜王陛下にはご迷惑をおかけしないように――」
「そんなものはいいから寝ていろ。それと、俺はおまえの王ではない。レイノルドだ」
「レイノルド様……」
おずおずと口にすると、「レイノルドでいい」と短く返った。
「いえあの、私の身分でそれは」
「身分などこの国にはない。ただこの国で最も力を持つがゆえに国を治めているだけで、他国で暮らしていたおまえには何の恩恵もなかろう」
だから敬う必要などないということだろうか。
それは今までに触れたことのない考え方だった。
自国の民ではないというのは、つまりいつでも切り捨てるとも言えるだろうけれど、冷たくは聞こえなかった。
だがさすがに敬称もなしで呼んだらあの側近二人に殺されるような気がする。
「私は助けてもらった恩義がありますので。レイノルド様と呼ばせてください」
瞼が落ちるのを必死で堪えていると、視界はレイノルド様の大きな手に塞がれ真っ暗になった。
温かい。
それが不思議なほどに落ち着いた。
「細かいことは後だ。今は寝るがいい。パン粥は……まあ、誰かに聞けばわかるだろう」
え? まさか自分で作るつもりでは――。
いやそれより大事なことを伝えていない。
パン粥は起きてから食べます!!
また寝ているところに流し込まれたら今度こそ死ぬ。
しかもそれが激熱のままだったとしたら苦痛もマシマシだ。
けれどもはや眠気に抗うことはできず、心の中で叫んだ大事な言葉は声になったかどうか、わからなかった。