第二話
私が家を出たのはまだ小さいうちだったから父のことはほとんど記憶にないし、赤ん坊だったキャロルが今どんな風なのか、家族の絵姿を見たこともない。
祖父母は父について話すとき、感情を込めずに知っていることを教えてくれただけで、決して悪く言うことはなかったけれど、事実を集めれば父がどういう人間かは大体想像がついた。
だから祖父母が亡くなり、ノーリング伯爵家に戻ることになった時も期待はしなかったし、絶望もしなかった。
「『ルーク』。おまえは男だ。今着ている服は焼き捨てろ」
祖父母が与えてくれた令嬢らしい装いで伯爵家の玄関に立った私を一瞥した父が口にしたのはそんな一言で。
想像と現実は違うというけれど、残念ながら私の想像と現実はそれほど違わなかった。
ただ一言言い捨て踵を返した父の背中に、侍女のマリアが「そんな、お待ちください……!」と声をあげ飛び出しかけるのを、私は手で制止した。
「いいのよ」
マリアは気づかわしげな目を向けてくれるけれど、私は悲しんではいない。
あれが自分と血の繋がった父というものなのかと思っただけ。
たぶんあれがそうなのだろうという『推測父』だけれど。
冷たい父の言葉と態度に寂しさを抱かなかったのは、私の中には祖父母が注いでくれた愛情がたくさん詰まっていたから。
わざわざ服を『焼き捨てろ』などと過激な言葉を使って距離を広げ、自分が生した子どもを正面から受け入れることもできない。
そんな人間に割く感情などない。
ふと視線を感じて目を向けると、侍女の背中に隠れてこちらを覗き見ている子どもがいる。
あれがたぶんキャロルなのだろう。
初めて会う妹は私とよく似ていた。
大きな翡翠色の瞳に、髪がふわふわとしているのも同じ。
ただ、キャロルは父と同じ輝くような金の髪だった。
私は灰色がかった金の髪で、母が祖父母から引き継いだらしい。
目が合うと、ぴゃっと驚いたように侍女の背中に身を隠したけれど、高い位置で結ったツインテールがふわふわとはみ出している。
「初めまして。あなたがキャロルね?」
父と同じく『推測キャロル』な彼女に声をかけると、再び顔だけを侍女の脇から覗かせて、全身を確かめるように私を見た。
「――お姉様は、おじい様とおばあ様に大切にされていたのね」
「ええ」
私がきちんとした身なりをしていたからだろうか。
素直に答えた私に、キャロルはきゅっと口を閉じ、眉根を寄せた。
「ズルいわ」
祖父母を独り占めしてしまったからだろうか。
でもキャロルには父がいた。
父方の祖父母も老齢で今は亡くなってしまったけれど、やっとできた孫だとキャロルをかわいがっていたと聞いている。
私が何か言うよりも前に、キャロルはすっと侍女から離れた。
躊躇いながら私の荷物を外に運び出そうとしていた使用人たちに向かって、「待って」とその動きを止めさせる。
「捨てられてしまっては亡くなったおじい様とおばあ様がかわいそうだもの。私がすべて引き受けるわ。私だって同じ孫なのだから、私が着たっていいはずよ。ねえ、お姉様?」
「キャロルは優しい子なのね。きっとおじい様もおばあ様も喜ぶと思うわ。私は社交界に出ることもないから、ほとんど袖を通したこともなかったし」
キャロルは八歳。私は十歳。
デビュタントはまだだし、子どもはガーデンパーティに連れて行かれることもあるけれど、私がそんな場に赴けるはずもなかったから。
だけど祖父母は隣国に行っても貴族として生きていけるようにダンスやマナーを身に付けなさいと言って、時々私を綺麗に着飾らせ、広くはない家の中で一緒にダンスを踊ってくれた。
練習なのだから着るものなんてなんでもいいはずだったのに、綺麗なドレスを着た私を『シェリー、あなたはかわいいわ』『どこに出しても恥ずかしくない、自慢の孫だ』と褒めてくれた。
そうして用意してくれたドレスだから、焼き捨てられてしまうよりキャロルが着てくれたほうが祖父母も嬉しいだろう。
キャロルは再びぎゅっと口を結ぶと、玄関に詰まれた少ない荷物の元へすたすたと歩き、小さな木箱を手に取った。
「これは……」
開けると揃いの腕輪と首飾りが入っていた。
万が一の時に身に着けて逃げ出せば当座の資金になるだろうと、高価でありながら服の中に身に着けても目立たない意匠のものを祖父母があつらえてくれたのだ。
逃亡資金は祖父母の遺産を受け継ぐ権利を持つ叔父がそれとは知らずに――言えるわけもなく――すべて持って行ってしまったものの、どこから見ても子ども用の大きさのそれは祖父母が私のために遺したものだとわかり、渡してくれた。
「これも全部、私の部屋に運んでちょうだい! こんな繊細な意匠のものを男がつけるなんておかしいもの。それに『滅びの魔女』であるお姉様が外に出ることなんてないんだし」
こちらに背を向けていたキャロルの顔は見えなかった。
「そんな、装飾品まで……!」
マリアは悲痛な声をあげたけれど、ドレスも首飾りも同じことだ。
「キャロルの言う通りよ。持っているのがわかったら、またお父様がお怒りになるわ」
「キャロル様はシェリー様から何もかも奪うつもりなのですよ。それをみすみす目の前で黙ってなんて――」
食って掛かろうとするのを首を振って止めると、マリアは悔しげに口を引き結び、うつむいた。
「だって……、だって……。あの首飾りにどれだけの思いが込められたものか、キャロル様は知りもしないのですよ? ドレスだってシェリー様のために作られたものでしたのに。幼い顔立ちのキャロル様には似合いません」
「姉妹だもの、キャロルにだって似合うわ。それに私はこの家にいる限り男として生きなければならないのだから」
「そんなもの、格好だけ変えたとて男に見えるわけがありませんのに! 翡翠色の大きな瞳に長いまつげ、ふっくらとした頬に白い肌。どこからどう見てもかわいくてかわいいシェリー様なんですもの」
長年共に暮らした欲目か、勢い任せな言葉たちはありがたかったけれど。
まだ女らしさの欠片もない体だし、長い髪をばっさりと切ってしまえば少年にしか見えないと思う。
「ありがとう。でも男の格好も似合うかもしれないわよ?」
「そのようにいつもおっとりしていらっしゃるから心配なのです。でも芯が強くて、聡明で、そんなシェリー様に私が何を言っても仕方がないことはわかっています。それでも、あまりにもこの家は――」
その先を言わせてはならない。
辛そうに俯くマリアを抱きしめると、ぐすりと鼻をすする音が頭上から聞こえて、私がこれまでどれだけ人に恵まれていたかが身に染みた。
「最後までお傍にお仕えしとうございました。力になれず、思うようにならぬ自分の立場が悔やまれます。ご自分こそが一番大変なのにいつも周囲を気遣う優しいシェリー様ですが、これからはどうか、どうか、御身を一番にお考えください」
「これまで本当にありがとう、マリア。私もあなたの幸せを心から祈っているわ」
これからマリアは元々祖父母が暮らしていたユグノー伯爵家に戻ることになっている。
祖父母は他の人たちを巻き込まないよう、私を引き取る時に侍女のマリアだけを連れて出たのだ。
私もマリアも、あるべき場所に帰るだけ。
けれど、日々は続いていく。
私とキャロルがいる限りはノーリング伯爵家とユグノー伯爵家は縁戚であり、ここで揉め事を起こしてはマリアの肩身が狭くなるし、悪くすれば戻る場所がなくなってしまう。
私がお給金を払えるわけではない。
何よりもこの家にいればどんな扱いを受けるかはわかりきっている。
大好きだからこそマリアを巻き込みたくはなかった。
そうして祖父母と死に別れた私はマリアとも別れ、祖父母とマリアと共に暮らした平和で幸せな日々を思い出として胸にしまい、血の繋がっているはずの父とキャロルと暮らし始めたのだけれど。
父はほとんど家に寄り付かず、私と顔を合わせることはなかった。
私が倒れて寝込み、苦しんでいる時も。
父どころか、使用人も近づくことはなく、私は一人部屋の中で呻き、時だけが私を癒してくれた。
だから――。
「人間。もう少し大きく口を開けろ。でないとこぼれるぞ」
竜王陛下であろう顔のいい男の人に、真面目な顔で、パン粥を口に運ばれている。
そんな今の状況には戸惑いしかなかった。




