表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

少女たちは知らない

「はぁ、何やってんだろう……」

 空は青く晴れ渡っており、たまに吹く風は心地よい、絶好の外出日和。

 そんな日に似合わない大きな溜息を漏らすのはアーシャがつい先ほど婚約者であるフランツに思ったままの怒りをぶつけてしまったからだった。

 だがフランツもフランツで悪いのだ。

 せっかくお互いに家の予定もなく、1ヶ月ぶりに二人でデートに出かけられるという日に他の女との約束をアーシャに無断で入れたのだから。


 アーシャがその事実を知ったのはつい昨日のことで、それもフランツの口から直接ではなく彼の友人がからかい混じりに教えてくれたからに他ならない。


「せっかくのデートを転校生の街案内に潰すなんて夫婦の余裕ってやつか」――と。


 アーシャは初め彼の言葉の意味がわからなかった。

 騎士団長の息子なだけあって剣の道にしか興味がないフランツと昔から何かと彼の世話を焼いて回っていたアーシャはよく夫婦だとからかわれることはよくあった。アーシャ自身、父親同士が酔って交わした約束から婚約者になったとはいえフランツを好いていた。いつもどこかに傷をこしらえてくるフランツの心配ばかりしていたせいで他の男を好く暇などなかったとも言える。

 だがそれでもアーシャがフランツを好いていることもフランツがアーシャと婚約者であることも事実であったし、夫婦とからかわれることに不快感を感じてはいなかった。


 問題は『せっかくのデートを転校生の街案内に潰す』の方だ。

 アーシャはフランツからそのことについて何も聞かされていなかったのだ。

 いつの間にか彼の中では明日のデートがなくなっていたのだとアーシャは一ヶ月前から楽しみにしていたフランツとの外出をなかったものだと考えることにした。


 だがフランツが考えていたのはもっと悪いことだったのだ。


「アーシャ、もう準備出来てるか?」

「はぁ!?」

 野太い声が出たのはまごうことなき貴族の令嬢であるアーシャの口からであり、それは婚約者であるフランツに向けられたものだった。

 それは疑問系ではなく、はっきりとした怒りを満ちて全身全霊をかけて発せられた2文字であった。


「んだよ。まだなのか? ったく女ってのは何でこうも準備に時間がかかるんだか……」

 だがそんなアーシャの気持ちは鈍感なフランツに通じることはなかった。

 それどころか彼はまともに準備をしていなかったアーシャに呆れた表情を見せつけてから、早く準備して来いと彼女の身体をグルリと180度回転させたのである。


 この時すでにアーシャの怒りのボルテージはフツフツと上がっていた。けれど彼女は何とか怒りを噴火させるのを我慢した。

 こんなこと、フランツといるとよくあることなのだ。今回はたまたま久しぶりのデートだったからアーシャはこんなにも怒っているのであって、昔から彼が突然予定を変えることはよくあることだった。

 王都で劇を観るはずが山で熊に遭遇したり、王都の武器屋で武器を眺めていたり。

 思えばアーシャがフランツとまともに予定通りにデートをしたことなど知り合って十年近く経つ今でも片手で数えられるほどだったのだ。


 仕方なくアーシャは外出着に着替えて、と言ってもコートを羽織るだけなのだが、を済ませてさっさとフランツが待たせていた馬車へと乗り込んだ。

 転校生、リーリアとは王都の噴水広場で待ち合わせをしているらしく、アーシャとフランツはその少し前の路地で馬車を降りた。


 無事にフランツとリーリアが待ち合わせをしていた時間に遅れることなく顔を合わせることができたフランツは、さっそく今回の目的である王都案内を決行した。


 …………ここまでは良かったのだ。

 すぐさまフランツとリーリアはまるでアーシャなどそこに居ないかのように二人の世界を築き上げたのだ。

 王都案内とは名ばかりでリーリアは主に武器屋散策をしたかったらしい。

 隣国から最近やってきたリーリアはこの国では珍しく、女性でありながら剣術を嗜む女性であった。それも学園の男子生徒のほとんどが相手にもならないほどの実力を持っている。腕前もさることながら彼女は戦術や武器の知識も多く、並大抵の男では話にもならなかった。そんな彼女の良き話友達がフランツなのである。だからこそ彼に王都案内を頼んだのだった。


 幼い頃から剣を振るい続けるフランツを見守ってきたアーシャの反対側で繰り返される話に到底ついていけるわけもなく、ただ楽しそうな2人を横目で見ていることしか出来なかったのだ。

 ……武器屋を5件ほど回る間。


 さすがに5時間ずっと興味のない武器を見ては次の武器屋を目指して歩き続けるのはそこらへんの令嬢よりかは体力がある程度のアーシャには辛く、彼女はついに根をあげた。

「そろそろどこかに入ってご飯でも食べない?」

 すると彼らは答えた。

「まだまだ見足りない」「先に休んでいるといい」――と。


 さすがのアーシャもその時、プツリと堪忍袋が切れるのを感じた。


 そもそも今日はデートをする予定だったのだと。

 勝手に予定をすり替えたのはフランツの方だと。

 そしてこの場に自分がいる意味がわからないと。

 様々な怒りを混ぜ合わせて、フランツの背中に有り余る感情を投げつけたのだ。


「フランツなんか大嫌いよ!」

 そして足の向くままに走り去った。

 落ち着いた今になって見るとアーシャ自身、よくもまだあんなにも体力が残っていたものだと我ながら感心した。そして衝動的にあんなことを言ってしまうなんてとつい数分ほど前の己の行動を激しく後悔した。

 アーシャよりも足の速さに自信のあるフランツはもうこんなアーシャに呆れてか追ってくることはない。ついに嫌われてしまったのかとアーシャの目には今にも溢れそうなほどの涙が押し寄せてきた。

 アーシャは幼馴染の彼を好いていた。夫婦と学友たちに揶揄われようが、親同士が酔って決めた婚約だろうが構わなかった。だがフランツはどうか。彼は一度だってアーシャを好きだと口にしたことはなかった。

 ただ彼は休みになると外出に誘ったし、学友たちのからかいを否定しなかった。アーシャはそれを自分の都合のいい方に解釈したに過ぎないのだと気付いた。

 すると途端に今日のデートに邪魔だったのは自分の方だったのではないかとすぐそこまで迫っていた涙が溢れ出すことに一切の抵抗をするのをやめた。


「アーシャ? お前なんでこんなところにいるんだ?」

「コンラット……」

 そんなアーシャを見つけ出したのはフランツの親友、コンラットだった。


「ほらハンカチ貸してやるからこれでとりあえず目、拭け。な?」

「ありが、とう……」

 フランツの親友であるコンラットとはアーシャも長い付き合いで、初めてフランツから彼を紹介されたのはもう5年も前のことだった。友人の多いフランツではあるが、わざわざ会う場所を設けてまで紹介したのは彼だけだった。だからアーシャもコンラットをとても信頼していた。

 今だって目の前にいるのが彼だからこそアーシャは遠慮なく彼から差し出されるハンカチを受け取り、落ち着かせるためにと背中に回された手を受け入れているのだ。


「アーシャ、お前迷子か? フランツを見失ったんなら俺も一緒に探してやるよ!」


 そんなコンラットの欠点を一つだけ挙げろと言われたらアーシャは迷いなく空気が読めないところを挙げるだろう。

 彼は見目麗しい顔つきと公爵家の次男という地位を持ち、そしてフランツに次いで剣の腕前が立つ。だがしかし婚約者どころか彼女すらいないのはそのせいだった。根はとてもいい人なのだ。優しくて強い男だ。だがその致命的なまでの空気の読めないところが彼の美点を全てかき消してしまうのだった。


「コンラット。私、迷子じゃないの」

「ならなぜフランツが一緒にいないんだ? ここは王都だぞ?」

 思い返せばコンラットと顔を合わせる時には必ずアーシャはフランツの隣にいた。コンラットだけではなく、フランツやアーシャの学友と会うときは必ず。

 だがアーシャが王都を訪ねるとき、必ずしもフランツが隣にいるかといえばそうではない。使用人を連れ添って買い物に出向くことだってあるのだ。


「ええ、知ってるわよ。でも私、フランツがいないときだって王都に来ることはあるのよ?」

 何もアーシャはフランツが居なければ外出出来ないほど子どもではないのだ。

 コンラットにはそんなに幼子のように思われていたのかとまだ赤い目をしたアーシャは両頬へと空気を送り込んで見せた。


「何怒ってんだよ、アーシャ」

 コンラットはアーシャの膨れた頬をツンツンと突きながら首をひねる。

 そしてやがてアーシャが頬を膨らます理由がわかったと言わんばかりに両手を互いにパンと打ち付けた。


「アーシャお前、腹が減ってるんだな!」

 それは全くもってアーシャの頬を膨らます理由とは違うのだが、コンラットはそうであることを少しも疑ってはいなかった。


「実は最近、この辺りに喫茶店が出来たらしいんだが、それがとても美味いらしくてな。今からそこに食いに行こう。うちの妹の今季イチオシらしいから期待してくれていいぞ」

 コンラットはアーシャの手を引くと彼女の気などお構いなしにズンズンと進んでいった。

 アーシャは前を歩く彼の顔を覗き見ながら実はその喫茶店に行きたいのは彼の方ではないかと思い浮かんだ。

 なんせ彼の顔はオヤツを前にしたアーシャの飼い犬とよく似ていたのだから。


「ここだ!」

 コンラットが連れてきたのはそこから少し歩いた場所に位置する喫茶店で、アーシャはついつい目を大きく見開いてしまった。

 その喫茶店はアーシャが一週間ほど前から今日の日に備えて目をつけていたお店の一つで、アーシャはここのパウンドケーキを楽しみにしていたのだ。

 行列が出来ると噂のその店は昼時をとっくに過ぎているからかほとんど待つことなく中に入ることができた。


 コンラットは席につくと持ち前の俊敏さを生かしてメニューを手に取ると穴が開くほど隅から隅まで目を通し始めた。

「コンラット、別にケーキは逃げやしないわ」

 そんな姿が可笑しく思えて、つい先ほどまで涙を溜めていた目を細めて笑ってしまった。

「そうだが……ううん、何にするべきか」

 再びメニューへと顔を埋めるコンラットはやはり食べたいケーキが絞り込めないようだった。


「何が食べたいのよ」

「まずは王道ショートケーキだろ? だがこの店のパティシエはカカオのスイーツで有名な北の国の出身だと聞くし、チョコレートケーキも食べておきたいよな。だが妹たちはパウンドケーキとモンブランがオススメだというんだ。どれも捨てがたいんだがさすがに全部は食い過ぎだろう?」

「なら今日は食べられる分だけ食べて、また今度来ればいいじゃない」

「……妹たちは俺と一緒に来たくないらしい」

 一気に声のトーンが下がったコンラットは声と同様にひどく落ち込んでいるように見えた。

 コンラットと彼の妹はとても仲がいい兄妹である。その仲はアーシャもよく知っていて、彼らが買い物に行く姿を度々目にしたことがある程だった。

 アーシャが何故かと首を傾げているとコンラットはゆっくりその意味を教えてくれた。

「ここに兄と来たら女として終わりだって言うんだ。……ここは恋人のデートスポットとして有名だからな」

 アーシャはその言葉を耳にするとグルリと店内を見回してみた。

 どこの席も仲睦まじそうな男女か女友達同士で座っている。

 なるほどこれでは仲のいい彼の妹であれコンラットを連れ添ってこようとは思わないのだと納得した。そして彼があの場所を歩いていた意味も。大方妹に断られた彼は仕方ないと一人で店に出向いたのだろう。だが店の前で諦めてしまったのだ。


「アーシャなら後でフランツに話つけとけば浮気を疑われることもないし、それにケーキ好きだろ?」

「別に浮気も何もないわよ」

 そう小さく返してみたのだが、メニューに再び集中してしまっているフランツの耳にその言葉が入ることはない。

 アーシャははぁと大きく息を吐くとコンラットに一つ、鶴の一声のような提案を掲げて見せた。

「四つとも頼んで半分にして食べればいいんじゃない? 二つ分くらいなら私も食べれるから」

「アーシャ! さすがはフランツの嫁だ!」

 よほど嬉しかったのか、彼はメニューからばっと手を離すと代わりにアーシャの手を奪った。

 興奮しているコンラットにわざわざ訂正の言葉を入れるのも面倒になったアーシャはその手を外すと再び彼の胸にメニューを突き返した。

「私は紅茶にするけど、コンラットは飲み物どうするの?」

「俺はコーヒーにしようかな」

 コンラットはすぐさま店員を捕まえ、4つのケーキと2人分の飲み物を注文する。

 その後もしばらく嬉しさを抑えきれていないコンラットは夜会でご令嬢たちを魅了する笑みを惜しげもなくアーシャに向けた。


 運ばれて来たケーキを綺麗に等分したコンラットは幸せそうにそのケーキたちを頬張っていく。アーシャはカップに口をつけながら自分よりもずっと背の高い彼を5つ歳下の弟の幼少期と重ねた。

「クリーム付いてるわよ」

「ん」

 コンラットはアーシャに指摘されたクリームを親指の腹で掬い取るとすぐさまそれを舐めとった。


「ふぅ、うまかった」

 アーシャが1つぶんも食べ終わらないうちに全てを完食したコンラットは上機嫌に腹を何度も叩いて見せた。

「満足そうで何よりよ」

 アーシャはお目当てのパウンドケーキを頬張りながら、彼に微笑んで見せた。それはやはり弟に見せるそれと同じものだった。


 コンラットは彼よりも食べるスピードの遅いアーシャを急かすことなく今度はブラックコーヒーの入ったカップを傾けていた。

 窓際の席に案内されたコンラットのブロンドの髪は窓から注ぐ光とよく溶け合っていた。

 アーシャはそんな彼が絵画だったらもっと人気が出るのにと思い、鑑賞しながら残りのケーキを口に運んでいった。


「ところでアーシャ、フランツが今どこにいるのか、大体の検討はついているのか?」

 アーシャが追加で頼んだ食後の一杯を楽しんでいるとふいにコンラットがそう尋ねた。


「フランツならまだ武器屋にでも居るんじゃないかしら?」

 なぜそんなことを聞くのかとアーシャは疑問に思いながらも機嫌がいいからと答えてやるとコンラットはそうかと頷いた。


「よし、腹ごなしも済んだことだしフランツを迎えにいってやるとするか!」

 アーシャが紅茶を飲み終わるとコンラットは伝票とアーシャの右手を手にそう宣言してから出口へと向かった。

 さっさと会計を済ませた彼に店を出た後で財布を出そうとするアーシャをコンラットはゆっくりと首を振って遠慮した。

 ではお言葉に甘えてとお礼を告げてからアーシャはその場を去ろうとするがその手をコンラットが離すことはなかった。むしろ彼はなぜアーシャが馬車乗り場へと歩き出そうとして居るのか不思議で仕方がないといった顔を浮かべている。

「武器屋は向こうだぞ?」

「ええ。だからここでお別れよね?」

「? フランツは武器屋にいるんだろう?」

「多分そうじゃないかしら。私が別れた時はまだ5軒目だったから」

「そうか、じゃあそこを除外して残りの店を覗いていこう」

 ああそうかと独り合点したアーシャはコンラットに訪問済みの5軒の名前を教えた。そして今度こそ馬車乗り場へと向かおうとしたのだが、コンラットはそんなアーシャの手を引き、武器屋巡りを始めた。


「最後に行った店からだとあの店が近いが、どちらかというと防具の品揃えのいい店を選んでいるようだからあっちの店の方を先に行ってみるかな?」

「ちょっと待って、コンラット。何で私も武器屋に行かなきゃいけないのよ」

「何でって、フランツが心配するだろう?」


 アーシャをフランツの元へ連れていくことが当たり前だと言わんばかりに彼はアーシャの目をじっと見つめた。

 彼の瞳は一点の曇りもなく、アーシャはその瞳がまるでフランツに大嫌いと言い放った彼女を責められているようにも思えた。


「心配は、しないだろうけど……」

 謝るためには会いに行かなくてはならないのだろうとアーシャは腹を括ってコンラットに導かれるがままに武器屋を巡ることにした。


 ……けれどそのどこにもフランツとリーリアの姿は見当たらなかった。

 どの店の店主に尋ねようがそんな2人組は来ていないと横に首を振るのだ。最後の店を出たコンラットはいよいよ首を捻ってどうしたものかと考えた。その一方でアーシャは少しだけホッとした。早めに謝ったほうがいいのは十数年間生きて来てよく理解していたが、今日は彼と顔を合わせるのが少しだけ気まずかったのだ。


「コンラット、今日は帰るわ。きっとフランツはもう屋敷に帰ったのよ」

 アーシャは繋がった右手を自分の方向に少しだけ引くとコンラットにそう告げた。

 けれど、コンラットが出したのはアーシャとは真逆の答えだった。


「フランツがアーシャを置いて帰るわけないだろ? さっさと探し出さないとあいつ、夜が明けても探し続けるぞ?」

 そんなバカなとアーシャは呆れてしまった。同じ人間を、フランツを映すコンラットと自分の目にはこんなにも違いがあるのかと。


 アーシャは帰ってはいないにしろ、フランツがリーリアと夕飯でも食べているのではないかと思うのだ。

 もう夕焼けで路は赤く染まりつつあるこの時間にそろそろ夕食でも……と思うのは通りであろう。それも朝以来何も口にしていなければ余計である。


「ねぇ、やっぱり帰りましょうよ」

 アーシャがもう一度コンラットの手を引くと、彼女たちの後ろで風が走った。

 それは今まで風ひとつ吹かなかったメイン通りに吹くには強すぎるもので、明らかに何らかの要因があって発生するものだった。


「そこの男、今後も五体満足で陽の光を浴びたければ今すぐその汚い手をアーシャから退けろ」

 そしてその要因を起こした人物こそフランツであった。

 フランツが肌身離さず持ち歩いているその剣で威嚇の意味を込めて空を切ったのである。


「フランツ、俺俺、コンラット。アーシャ、良かったな。フランツが見つかって」

 常人ならば手を離すどころか身体が緊張して動かなくなるほどの殺気とよく研がれた大剣を向けられたコンラットはアーシャに笑みを向けてから背中をポンポンと叩いた。


「ん? お前、コンラットか! なんでこんなとこにいるんだよ」

 すると今まで全面に押し出していた殺気は嘘であったかのようにフランツの中へと行儀よく戻っていく。


「アーシャがお腹空きすぎて泣いてたから一緒にケーキ食って来た」

「そうか。コンラット、迷惑かけたな。金は後ででいいか?」

「いやいい。アーシャは俺が食べたいケーキ半分食ってくれただけだからな」

「そうか?」

「ああ、気にすんな」

「それじゃあアーシャ、もう遅いし帰ろう」

「ちょっと待ちなさいよ!」

 置いてきぼりをくらったアーシャは今になってやっとコンラットとフランツの会話を遮ることに成功した。

 言わなきゃいけないことはたくさんあるのだ。


「お腹が空きすぎて泣いてたわけじゃないわよ!」

 だが初めにでたのは他人からすれば割とどうでもいい、けれど年頃のアーシャには一番大事なことだった。

 年若き女の子が腹ペコキャラだと認識されるのはたまったものではないのだ。


「人間誰しも腹は減るものだ。そう恥ずかしがることはない」

「そうだぞ、アーシャ。よく食べるのはアーシャのいいところじゃないか!」


 フランツの言い方だとまるでアーシャはよほどの大食らいに聞こえるかもしれないが、アーシャの食事量は普通の令嬢たちよりは多いが彼女の消費カロリーから比べれば至って普通の量である。

  そしてアーシャの消費カロリーが同年代の女性よりもうんと多いのはフランツに付き添っているからである。つまり彼女の食事量が多いのは元を正せばフランツと共にいるせいだとも言える。


「フランツのバカ!」

「アーシャ? 何を怒っているんだ」

「そろそろ夕食の時間だからじゃないか?」

「そうかそうか。アーシャ、もう帰ろう。夕食はうちの屋敷で食っていけばいい」


 フランツはアーシャの身体を軽々と持ち上げるとコンラットと別れ、細い路地へと入っていった。

「アーシャは何が食いたい? 俺は肉がいいなぁ」

「フランツ、降ろして」

「アーシャが逃げると探すの大変だから嫌だ」

「逃げないわよ」

「んー、でもほらすれ違いざまに他の男に触れるかもしれないだろ?」

 こんな細くて暗い道を通る人などそうそういるものではない。

 アーシャとフランツだってここが馬車の待つ場所への近道だから利用しているだけに過ぎないのだ。


「さっきはコンラットだから良かったけど、俺、他の男がアーシャに触れたらと思うと自制できそうにない」

「何それ」

 アーシャはフランツの側に長い間居続けたせいか彼の目がまだ見ぬ他の男を刺し殺そうとしているのを察することはできない。


 だからこそこんな提案を投げかけた。


「ああそうだ、フランツ。そろそろこんな婚約、破棄しない?」

「アーシャの婚約者は俺だよ?」

「親同士が酔って決めた、でしょ? 私もフランツももうそろそろ結婚してもおかしくない歳だし、今からでもこんなふざけた婚約は破棄して、他の相手を探した方がいいと思うの」

「アーシャは他の相手……いるの?」

「いないけど、まぁお父様に頼めば1人くらい見つかるんじゃないかしら?」

「何言ってるんだよ、アーシャの婚約者は俺で、俺の婚約者はアーシャだ。他の相手に務まるわけがないだろう?」


 フランツはハハハとアーシャの提案を乾いた笑いで吹き飛ばすと待たせていた馬車の柔らかなソファに愛しき少女を降ろすのであった。

 一大決心を軽くあしらわれたことに頬を膨らませているアーシャは知らない。


 どれだけフランツが彼女を愛しているかを。


 アーシャが走り去った後、言葉の意味が理解できずにフランツはそこに数十分にも渡り立ち尽くした。

 ただひたすらに頭で反響する『大嫌い』の言葉を理解するためだけに路上の真ん中で目にこびりついた彼女の背中をかき消すまいと目を見開き続けた。

 その光景は彼を知らない者からすればとても奇怪な光景であった。それを偶然目にしてしまった、王都に初めて訪れた旅人はトラウマを抱え、地元へ帰省するとすぐに知り合いに王都には行ってはいけないとさえ触れ回った。

 だが彼を知っている者からすればアーシャと喧嘩でもしたのかとその状況をすぐさま理解して、彼の前を遮らないように移動すれば事が済む話であった。


 そしてフランツの隣にいるリーリアはといえば前者である。

 この国に来て間もない彼女は、フランツと知り合って間もない彼女は何も知らなかった。

 武器屋巡りにわざわざ婚約者を連れてくるなんて、彼女もよほどの腕前かと思えばそうでもなく、ではなぜ彼女も今日この場にいるのだろうと不思議に思うくらいなものだった。

 それはフランツが出来る限りアーシャを近くに置いておきたいという願いからであることを知らなかったのだ。

 リーリアはフランツが動き出すまでの数十分間、動くことすらできず、そしていざフランツが移動したかと思った時には彼の後について行くことなど出来るわけもなかった。


「お嬢ちゃん、茶でも飲むか?」

 幼い頃からフランツとアーシャのことをよく知っている紅茶屋の主人に声をかけられなければリーリアはフランツの放った、魔物が放つプレッシャーのようなそれに足を震わせながらずっとその場から動けずにいたことだろう。

「いた、だきます」

 リーリアは遠慮することさえも忘れて主人の好意に甘えた。

 王都に出店できるほどの力量を持つ紅茶屋の主人が用意した紅茶はリーリアの身体の緊張とともに凝り固まっていた概念さえも温かく包み込んでゆっくりと溶かしていった。


 リーリアはこの国に来るまでずっと己こそが一番強いと自負していた。

 けれどそれは一国の姫君であったリーリアに誰もが手加減をしていただけなのだとこの国に留学して悟ったのだ。

 この国にはまだ見ぬ強者がたくさんいた。フランツもコンラットも、女のリーリアに手加減をしていてもなお彼女を簡単に飛ばせるくらいの強さを持っているのだ。


 リーリアは腰に下げた愛刀を一撫でして己の胸の中で固く誓った。


 三年間の留学を決して無駄にすることはしないと。

 そして何より今後は絶対にフランツとアーシャの二人の邪魔だけはしてはいけないと。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ