謝ってほしいわけじゃない
12歳の時に、母が再婚した。
新しいお兄ちゃんと、お父さん。
一番うれしかったのは、今まで忙しくしていたお母さんが、家にいられるようになったこと。
嫌だったのは、家の中に男の人がいるということ。苗字が変わったこと。お兄ちゃんが意地悪すること。
家に帰ってただいまと言ったら、おかえりってお母さんが迎えてくれるのがうれしかったの。
でもお兄ちゃんが、私の髪を引っ張ったり物を壊したりするから、家にいるのは居場所がないと感じていた。
お兄ちゃんはとても頭がよくて、私とは違う私立の中学校に通っていた。
眼鏡をかけてて、その奥の目つきが鋭かった。
いつも私を、バカにしたように笑ってた。
からかう言葉とか、ムキになって反論したら揚げ足を取られたり。
ずっとずっと、お兄ちゃんなんて嫌いだった。
それはとても暑い日だった。
法事でお父さんの実家へお邪魔した私は、見知らぬ人の遺影にお線香をあげ、意味の分からないお経をずっと聞いていた。
お線香のにおいが、真新しい黒いワンピースに染みつきそうだった。
お母さんは手伝いに忙しくて、私は居場所もなく一人、人目に付かないような場所探し歩いた。
丁度物置の陰にいた時に聞えてきたのは、笑顔で迎えてくれたはずのおばさんたちの、こそこそ話。
お金目的なんじゃないかとか、子供まで引き取るなんてとか。
その言葉のとげが刺さって、私はその場所を動けなかった。
意地悪ならいくらでも言われ慣れているつもりでいたけれど、お兄ちゃんはそんなひどいことは言わなかった。
私を家族じゃないなんて、一度も言ったりしなかった。
「人の家の事情に口出ししてる場合ですか?」
その時聞えた冷ややかな声は、いつも聞きなれているのに、知らない人みたいな声だった。
私は思わず、びくりとしてしまった。
普段は優等生のお兄ちゃんが、大人に反抗しているのをその時初めて見た。
おばさん達はお兄ちゃんの声にひるんで、逃げるように行ってしまった。
お兄ちゃんは私には気付かずに、そのまま背を向けて行ってしまった。
白いワイシャツの、細い背中。
じわじわと蝉の声。
肺に入って、息をするのも躊躇うような、湿った熱。
それから高校生になって、私は必死に勉強して、奨学金のある遠方の大学に合格した。
これ以上、お兄ちゃんの側にいるのはつらかったから。
お兄ちゃんは、高校に入るともうつまらないことで私をいじめたりしなくなった。
ただ、机に噛り付くように勉強している背中だけが、脳裏に焼き付いている。
放っておかれて嬉しいはずなのに、私は毎日物足りなかった。
そんな自分を持て余して、私は家を出ることを決めた。
家を出る日、お兄ちゃんはどんな顔をしていたかな。
お兄ちゃんをまっすぐ見ることもできないまま、私は故郷の街を出た。
――――それがまさか、お兄ちゃんを見る最後になるなんて思わなかった。
あの日のように、じわじわと蝉の鳴く夏の日。
あの日のようにお線香が、少しきつくなった黒服に染みついてしまいそうで。
意味の分からないお経を、ずっと聞いていた。
たくさんの菊の花。
一番前の写真は、別人みたいに笑う、お兄ちゃん。
泣かない私を薄情だと、皆が言っているのが聞こえたけれど、私はどうしても泣けなかった。
どうして死んだの?
追い詰められたからなんて、そんな、理由。
側にいたら何かしてあげられたの。
私が無理にでも話しかけていたら、お兄ちゃんは今日も意地悪に笑ってたの?
あんな別人みたいな、さわやかな写真、らしくないよ。
私は手が白くなるほど、数珠を握りしめた。
お前宛の手紙があったから、送るねと。
電話口の母は、疲れたような声を出した。
継母がいじめていたんじゃないかと、母が親戚たちにやり玉に挙げられていたのを私は知っている。
知っていたのに、逃げるように一人暮らしのアパートに戻った私を母は責めなかった。
あれから毎日、何を食べても味がなくて、泣けなくて、感情の動かし方が分からなくて。
でもあの家にはいられなかった。
また部屋を覗けばあの白い背中があるんじゃないかって、車の音がしたら帰ってきたんじゃないかって、勘違いするのが辛くて。
泣けないのに、泣くように苦しくて。熱いのに、心は冷え冷えと凍えるようで。
ただどうしようもない時は、お線香を一本だけ部屋で燃やした。
白い煙の中で、私はその手紙の封を開けた。
“かずみへ
この手紙を読む頃、俺はどうしているだろうか。
無事に死ねたなら、今頃は骨になって墓の中だろう。
無様にやり損ねて、病院のベッドに繋がれていないことを祈る。
かずみには、いっぱい意地悪を言ったな。物を壊したりもした。
父さんが再婚した時、俺は本当は母さんを忘れて再婚する父さんが許せなかったんだ。
今思えば、だからお前に当たってしまったんだと思う。お前は全然関係なかったのにな。
どうか許してほしい。
お前にも、お前の母さんにも、本当に世話になった。
俺が自分で自分を終わらせることを選んだのは、二人のせいではまったくない。
ただ俺が弱くて、弱くて弱くて、やり抜く勇気も牙をむく勇気もないから、こういう結末を迎えることになったんだ。
でも、お前と過ごした年月は、今思えば俺も幸せだった。
家の中に親とは違う、友達とも違う誰かがいて、気軽に声がかけられて、少しでも孤独を預け合ったりできたこと。嬉しかった。楽しかった。
迷惑をかけた俺を、お前は怒っているかも知れない。
不甲斐ない兄で、本当にすまない。”
謝罪の連ねられた手紙を、握りしめることもできず、私は顔を伏せた。
こんな、乱れた字で、何を思いながら、こんな手紙を書いたの。
手紙の最後にシミなんか、残したりして。
そう思うなら、死なないでほしかった。
私たちを遺して、行かないでほしかった。
つらいなら逃げてほしかった。いくら当たってくれたってよかった。生きてさえいてくれたらよかった。きっとイラついてムカついて、友達に愚痴ったりしただろうけれど、今みたいに苦しくなるんなら、その方が全然よかったよ。
弱くなんかなかったあなたを、私は知っていたのに。
私は醜く、鼻水を滴らせながら泣いた。
生きていることなんて、美しくともなんともないし、とくに何かを成し遂げられなくったって情けなくたって、それでも人は生きていく。
無様な声を上げ、喉がかれるまで。
祈ることもできずに、私はただ泣いていた。