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深緑の森は嘘を隠す  作者: 本咲 サクラ


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3/3

第3記録 沈黙の熱

 馬車の揺れが、一定のリズムで続く。

 窓の外は、もう王都の輪郭を完全に失っていた。


 「少し、無理をしていませんか」

 向かいから、低く落ち着いた声が落ちる。

 「してないわよ」

 間を置かずに返す。

 カイルはそれ以上、追及も訂正もしない。

 「そうですか」

 短い肯定。それで終わる。

 リディアはわずかに息を吐き、緊張を解いた。

 (……やりやすい)


 最初から、そうだったわけじゃない。

 仕事として「有能な相棒」だった二人の関係が、言葉にならない形を変え始めたのは、一年前の春の夜会だった。



 その夜、リディアは汚職の証拠を掴むため、慣れないドレスで「嘘」の中にいた。

 笑って、探って、神経を削り、誰にも隙を見せない。

 それが特命文官としての彼女の戦い方だった。

 

 だが、会場の壁際に、銀の刺繍が入った礼装用の鎧を纏うカイルを見つけた時、彼女の心にさざなみが立った。

 彼は護衛としてではなく、騎士団の夜会警備としてそこにいた。

 

 (……彼も、同じか)

 

 群がる令嬢たちを氷のような視線で退け、ただ黙々と「扉」を守るその姿。

 自分と同じように役割を演じ、孤独を飼い慣らしている男。

 その時、ふと目が合った。

 カイルは表情を変えなかったが、リディアが会場の奥へ向かう際、微かに頷いた気がした。


 任務を終え、会場の裏手で馬車を待っていた時だった。

 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

 極度の緊張と疲労。視界が歪み、石床が迫る——。

 倒れる寸前、硬い金属の感触と、確かな腕の熱が彼女を支えた。


 目を開けると、王城の医務室の天井があった。

 「起きましたか」

 横を向くと、カイルがいた。

 「……なんで」

 「持ち場を外しています」

 簡潔な、けれど規律を重んじる彼にしては致命的な言葉だった。

 「それ、問題になるでしょ」

 「可能性はあります」

 「戻りなさいよ」

 「もう少ししたら」

 説明もしない。言い訳もしない。

 ただ、リディアが目を覚ますまで、彼はそこにいたのだ。

 

 「……私、今日はあなたの警護対象じゃないわよ」

 「ええ」

 「じゃあ、なんでいるの」

 カイルは、少しだけ視線を落とした。

 「ここにいた方がいいと思ったので」

 曖昧すぎる理由。

 けれど、リディアはその言葉に、どんな愛の囁きよりも深い誠実さを感じた。

 

 (……何これ)

 

 沈黙が落ちる。

 けれど、気まずさはない。

 呼吸が楽だった。

 誰も信じず、一人で戦うのが当たり前だったリディアの世界に、彼は土足で踏み込むこともなく、ただ隣に腰を下ろした。

 

 「……帰るの?」

 「持ち場に戻ります」

 「そう」

 当然の返答。

 なのに、少しだけ間が空く。

 

 「もう少し、いてもいいのに」

 言ってから、柄にもない自分に驚く。

 カイルは何も言わず、ただ一度視線を落として。

 

 「では、もう少し」

 そう言って、元の位置に座り直した。

 距離は変わらない。

 けれど、その日から二人の間の空気は決定的に変わった。

 

 “仕事がしやすい”ではなく、ただ、この人といたい。

 名前をつける必要も、確かめる必要もなかった。

 任務の外でも隣にいることが当たり前になり、離れる理由が見当たらない。

 いつからか、そういう関係になっていた。



 馬車の揺れが、リディアを現在に引き戻す。

 カイルの手が、リディアの膝の上にある手に、そっと重なる。

 「眠れないなら、寄りかかっても構いません」

 「……子供じゃないって、言ってるでしょ」

 口ではそう言いながら、リディアはその熱を拒まなかった。

 妹を奪った森が、すぐそこまで迫っている。


 信頼している。心から。

 けれど、カイル。

 あなたが隠しているその「何か」が、私たちのこの安らぎを壊すものだとしたら——。


 リディアは、握り返された手の力強さに、言いようのない不安を覚えた。

 森はすぐそこ。

 二人の沈黙は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。


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