第3記録 沈黙の熱
馬車の揺れが、一定のリズムで続く。
窓の外は、もう王都の輪郭を完全に失っていた。
「少し、無理をしていませんか」
向かいから、低く落ち着いた声が落ちる。
「してないわよ」
間を置かずに返す。
カイルはそれ以上、追及も訂正もしない。
「そうですか」
短い肯定。それで終わる。
リディアはわずかに息を吐き、緊張を解いた。
(……やりやすい)
最初から、そうだったわけじゃない。
仕事として「有能な相棒」だった二人の関係が、言葉にならない形を変え始めたのは、一年前の春の夜会だった。
⸻
その夜、リディアは汚職の証拠を掴むため、慣れないドレスで「嘘」の中にいた。
笑って、探って、神経を削り、誰にも隙を見せない。
それが特命文官としての彼女の戦い方だった。
だが、会場の壁際に、銀の刺繍が入った礼装用の鎧を纏うカイルを見つけた時、彼女の心にさざなみが立った。
彼は護衛としてではなく、騎士団の夜会警備としてそこにいた。
(……彼も、同じか)
群がる令嬢たちを氷のような視線で退け、ただ黙々と「扉」を守るその姿。
自分と同じように役割を演じ、孤独を飼い慣らしている男。
その時、ふと目が合った。
カイルは表情を変えなかったが、リディアが会場の奥へ向かう際、微かに頷いた気がした。
任務を終え、会場の裏手で馬車を待っていた時だった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
極度の緊張と疲労。視界が歪み、石床が迫る——。
倒れる寸前、硬い金属の感触と、確かな腕の熱が彼女を支えた。
目を開けると、王城の医務室の天井があった。
「起きましたか」
横を向くと、カイルがいた。
「……なんで」
「持ち場を外しています」
簡潔な、けれど規律を重んじる彼にしては致命的な言葉だった。
「それ、問題になるでしょ」
「可能性はあります」
「戻りなさいよ」
「もう少ししたら」
説明もしない。言い訳もしない。
ただ、リディアが目を覚ますまで、彼はそこにいたのだ。
「……私、今日はあなたの警護対象じゃないわよ」
「ええ」
「じゃあ、なんでいるの」
カイルは、少しだけ視線を落とした。
「ここにいた方がいいと思ったので」
曖昧すぎる理由。
けれど、リディアはその言葉に、どんな愛の囁きよりも深い誠実さを感じた。
(……何これ)
沈黙が落ちる。
けれど、気まずさはない。
呼吸が楽だった。
誰も信じず、一人で戦うのが当たり前だったリディアの世界に、彼は土足で踏み込むこともなく、ただ隣に腰を下ろした。
「……帰るの?」
「持ち場に戻ります」
「そう」
当然の返答。
なのに、少しだけ間が空く。
「もう少し、いてもいいのに」
言ってから、柄にもない自分に驚く。
カイルは何も言わず、ただ一度視線を落として。
「では、もう少し」
そう言って、元の位置に座り直した。
距離は変わらない。
けれど、その日から二人の間の空気は決定的に変わった。
“仕事がしやすい”ではなく、ただ、この人といたい。
名前をつける必要も、確かめる必要もなかった。
任務の外でも隣にいることが当たり前になり、離れる理由が見当たらない。
いつからか、そういう関係になっていた。
⸻
馬車の揺れが、リディアを現在に引き戻す。
カイルの手が、リディアの膝の上にある手に、そっと重なる。
「眠れないなら、寄りかかっても構いません」
「……子供じゃないって、言ってるでしょ」
口ではそう言いながら、リディアはその熱を拒まなかった。
妹を奪った森が、すぐそこまで迫っている。
信頼している。心から。
けれど、カイル。
あなたが隠しているその「何か」が、私たちのこの安らぎを壊すものだとしたら——。
リディアは、握り返された手の力強さに、言いようのない不安を覚えた。
森はすぐそこ。
二人の沈黙は、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。




