第2記録 出発の朝
出発の朝は、まだ空気が冷たかった。
王城外郭の馬車留めには、既に数台の車両と兵士の姿がある。荷の積み込みをする者、馬の状態を確認する者、それぞれが慣れた手つきで準備を進めていた。
その一角で、リディア・エルンストは書類束に目を通している。
革製の簡素なファイル。中身は今回の調査に関する最低限の情報だ。
失踪者の一覧。発生地点。時期の偏り。
そして、違法薬物“緑滴”の流通に関する断片的な報告。
どれも決定打には欠ける。
だが、繋がれば意味を持つ。
「……雑ね」
小さく呟く。
通常の文官であれば、この時点で手を出すことはない。
情報が揃うのを待ち、整理し、上に上げる。
だが特命文官は違う。
不完全な情報を扱う。
危険な案件に踏み込む。
そして必要であれば、自ら現場に入る。
だから——
「騎士同行、ですね」
背後から声が落ちる。
振り返ると、カイルが立っていた。
軽装の鎧に剣。余計な装飾はない。実用だけを残した装備。
「ええ。あなたがそれ」
リディアは書類を閉じながら言う。
「納得いかない?」
「いいえ。制度としては合理的です」
「でしょ。文官だけで現場に放り込むと、すぐ死ぬから」
「否定はしません」
淡々とした返答に思わずリディアは笑った。
「言い方が冷たいのよ」
「事実ですので」
「まあね」
軽く肩をすくめる。
軽口を返しながら、リディアは彼の装備に視線を落とす。
いつもより少しだけ多い。
長期移動を前提にした装備だ。
「準備、万全そうね」
「最低限です」
「その“最低限”、だいたい私の倍あるんだけど」
「あなたの“最低限”が少なすぎるのです」
「否定はしない」
肩をすくめると、カイルの表情が少し和らいだ。
この表情を見分けられるようになったのは、いつからだったか。
最初に会った時は、何を考えているのかまったく分からなかったのに。
⸻
初めて会ったのは、二年前の冬。
南区の横流し事件。
特命文官に昇進して半年も経たない頃、王都南区の横流し事件の調査だった。
表向きは小規模な不正流通。だが、裏では貴族の私兵が絡んでいる可能性があるということで、騎士団の護衛が付いた。
特命文官が担当する“普通ではない案件”には、騎士が護衛としては派遣されると聞いたことはあった。
けれど、自分が文官として護衛されるのは初めてだった。
「騎士カイル・ヴォルフです。本件の警護を担当します」
そう名乗った男は、氷みたいに無駄のない人間だった。
黒髪、灰色の目、癖のない口調。立ち姿まで整いすぎていて、人間味がない。
正直に言えば、やりにくそうだと思った。
「リディア・エルンストです。よろしくお願いします」
仕事用の笑みで返した時も、彼の表情はほとんど動かなかった。
感じが悪いわけじゃない。でも、やりにくそう。
それが第一印象で、その時点ではただの「組まされた相手」でしかなかった。
現場に向かう馬車の中も、カイルは必要最低限しか話さない。質問すれば答えるが、自分から会話を広げることはない。沈黙が苦手なわけではないリディアでも、さすがに少し困った。
「……騎士団の方って、みんなこうなの?」
思わず口に出てしまった。
「どういう意味でしょう」
「寡黙というか、必要最小限というか」
「任務中ですので」
予想通りの模範解答。
「なるほど。今ので、あなたがそういう人だっていうのはよく分かった。じゃあ、任務終わったら、もう少し喋る?」
カイルは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……検討します」
その反応と返答が、意外に人間らしくて、少しだけおかしかった。
現場は、報告よりも荒れていた。
倉庫街の外れで人目につきにくい場所。
夜になると、人の気配が変わる。
「……多いわね」
影が動く。想定より人数が多い。
「予定より規模が大きい」
カイルが短く言う。
「引く?」
「あなたの判断に従います」
即答だった。
リディアは一瞬だけ考えた。
自分が新米の特命文官であることを考慮すると、ここは引くのが正しい。
だが——
「行く」
短いがはっきりそう言った。
ここで引いてしまっては、特命文官の責務を果たせない。そして何より今このチャンスを逃せば、この案件が闇に葬り去られる可能性が高い。行かないという選択は絶対に後悔すると思った。
カイルは、迷わなかった。
「了解」
それだけで動く。
その瞬間、リディアは少しだけ驚いた。
(……止めないのね)
普通は止める。無理だと言う。
しかも、相手からすれば私は特命文官になりたての護衛対象で、力の弱い文官を見下す騎士も少なくは無いと聞く。
だが彼は違った。私に判断を委ね、それに従う。
動きも無駄がない。
前に出るタイミングも、引くタイミングも、すべてが噛み合う。
リディアは情報を拾い、指示を出す。
カイルはそれを補完する。
気づけば、連携が成立していた。
「右、二人」
「把握」
短いやり取り。それだけで通じる。
任務は短時間で終わった。
関係者を押さえ、証拠も確保する。
倉庫の外に出た時、リディアは息を吐いた。
「……思ったより楽だった。調査だけでなく、取り押さえまで出来たのはあなたのお陰だわ。ありがとう。」
「あなたの判断が適切でした」
「褒めてくれるなんて意外。お世辞なんて言わなそうなのに。」
「事実です」
少しだけ間があく。
「ただ」
カイルが続ける。
「無理はしないでください」
リディアは眉を上げた。
「さっき止めなかった人が言う?」
「止めるべき状況ではありませんでした」
「じゃあ今は?」
「今後の話です」
少しだけ沈黙。
「変な人」
「よく言われます」
その返しに、思わず笑う。
その瞬間だった。
(……この人、楽だ)
無理に合わせなくていい。
気を遣いすぎなくていい。
それが、何より大きかった。
カイルもまた、静かに考えていた。
彼女は迷いながらも、決断する。
そして、その責任を引き受ける。
(……危ういな)
だが同時に。
(目が離せない)
それが、始まりだった。




