そのか弱き命が燃え尽きるまで。
――異世界に行きたい。
古瀬至は、毎日、そんなことばかり考えている人間だった。
剣と魔法の世界、腕っ節が物を言う世界、死と隣り合わせの世界、しかし確かに日々を生きている世界、充実した世界。
モンスターがいたっていいじゃないか。それでこそ生活に張り合いがあるというものだ。自らを鍛え、壁を乗り越え、日々、自らの進歩を実感しながら生きられるというものだ。
そんな世界にもし自分がいたなら、勉強だって楽しかったに違いない。何せ、明日、自分が生き残れるかどうかということが懸かっているだから、身の入り方が全く違うだろうし、何より勉強するのは魔法や剣術だ。楽しくないはずがない。
ああ、剣と魔法の世界に行きたい。そこでなら、俺もきっと――
だが、毎日、そんな妄想に耽りながらも、当然、至はそれをくだらない妄想と冷静に割り切っていた。割り切っていたから、実生活でそのようなことを口にすることなどなかったし、一日中、そのような妄想に耽って過ごしているわけでもなかった。
だが、学校から塾へと向かう道中、ビルとビルの合間から覗く太陽が空も街も眩い赤で染め上げる時などは、その妄想が自らを呑み込むように広がり、どうしようもなくなって、燃える太陽へと向かって走りたいという衝動に駆られた。
どこを目指すわけでもなく、ひたすら走ってみたい。その先には何があるのだろうか。鏡のような湖が広がる森の奥深くだろうか、朝焼けに輝く砂漠だろうか、それとも広大な海が眼前に広がる断崖だろうか……。
そう遠くへ思いを馳せながらしかし、至はその一歩を踏み出すことができなかった。日々の重苦しさに苦しみながら、同時にその苦しみから解放されることを恐れていたのだ。なぜなら、苦しみから逃げることは将来を捨てることだと周囲から言い聞かされていて、至自身もまたそう感じていたから。
しかし、将来とはなんだろう?
将来とは、そんなにも素晴らしい、どのような苦しみに耐えてでも守らなければならないものなのだろうか? 実は『将来』などというものは存在しなくて、ただずっと苦しみがあり続けるだけなのが人生なのではないだろうか? 苦しむだけが人生なら、頑張ることになんの意味があるのだろうか?
――異世界に行きたい。
テストの成績が下がって塾の先生に叱られ、家に帰ればまたしつこく親に叱られることが解っているこのような時にも、いつも以上にその思いが頭の中に膨らむ。漂う風船のように頭がふわふわして、それで余計に叱られる。
それくらいは毎度のことで慣れていたが、まさかこのようなことになるとは思いもしなかった。
夜、塾が終わって家へと帰っていたはずが、気づくといつの間にか、至はどうやらベッドに横たわっていた。
目が眩むほどの光の中で、何やら数人の人が慌ただしく周囲を動き回っている。起きようとしても身体に力が入らず、少し首を枕から浮かしてみると、首筋に火を押しつけられたような熱さと鋭い痛みが走った。
だが、そうしてどうにか自らの身体――なぜか右肘の先がなく、左足が膝を下に向けながら上へねじり曲がっている自らの身体を見た直後、猛烈な吐き気が込み上げてきたのと同時に視界が暗黒に閉ざされた。
気絶したのだろうか。自分はこのまま死ぬのだろうか。それを直感しながら、光一つない暗闇の中で、至は真っ赤な夕陽に照らされる街の風景を思い出していた。
あの日、あの瞬間、走りたいという衝動に従って一歩を踏み出していたら、自分は今どうなっていたのだろうか? 何か感情を揺すぶられるような、生きていてよかったと思える出来事に出会っていたのだろうか?
『未だ道を知らぬ命よ』
暗闇に、深く声が響いた。
暗闇の奥へ意識を研ぎ澄ますと、遥か遠くに小さな白い輝きが見える。どうやら声はそのほうからしたらしい。
老若男女、様々な人の声が幾重にも折り重なったようなその声は、小さな光の揺らぎと呼応しながら、こちらへ語りかけてくる。
『ことばと、繋がる力……。それらをもって、その前に拓ける道を歩め。天よりの遣いとして、どこまでも……そのか弱き命が燃え尽きるまで』
声が止むと、光が次第に遠ざかるように弱くなっていく。
そうして、やがて辺りが元の闇に戻った直後――イタルは暗い水の中で目を覚ました。まるで、母の胎内で初めて目を見開いた赤子のように。




