優しい旋律。
黒い水溜まりに浸されている十字路に立つと、右手を少し進んだ所に、明るく開けた場所が見えた。どうやら音色はそこから漂ってきているらしい。光を恐れる幽霊のように恐る恐るとイタルはそこへ向かい、日陰の中から、その開けた場所をそっと覗き込む。
そこは住宅に四方を囲まれた、ごく小さな広場のような所だった。
ここから見て左右へと路地が通っているらしく、ちらほらと人が目の前を歩き過ぎていく。だが、その中には広場に流れる弦楽器の旋律に思わずと言った様子で足を止め、広場の奥にできている輪に混じっていく者もいる。その人垣のせいで、ここからでは演奏者の姿が見えない。
魚の血で生臭い自分が近寄れば、皆に迷惑をかけてしまうだろうか。そう怖くはあったが、どうしてもこの優しい旋律を奏でている人をこの目で見てみたかった。人の優しさに触れたかったのだった。
堪え切れず、イタルは路地を歩く人が途絶えた隙を狙って、人の輪からは少し離れてはいるが、ちょうどその中が見えそうな場所へと素早く移動した。
右手にある民家の影に覆われているその場所には、奥にある民家の壁に設えられた、水飲み場のようなごく小さな噴水があった。牙を剥く竜の頭がかたどられた彫刻の口からちょろちょろと水が流れ落ち、その下にある半円形の池に澄んだ水面を湛えている。
少女は、その池の縁に足を組んで腰かけていた。
わずかに茶色がかった黒いショートの髪をそよ風に揺らしながら、小学生のように小さなその身体にアコースティックギターよりも一回り小さな弦楽器を抱えて、その周囲に一つの世界を作り上げていた。
楽しげな微笑みを頬に浮かべ、その両目を穏やかに閉じながらも、少女は小さな手を目まぐるしく動かして、うららかな春の陽射しのような旋律を乱れなく紡ぎ出していく。
人々はそのメロディーにどこまでも魅了されたように、誰ひとりとしてこちらを振り返りもしない。いつしかイタル自身も、周囲の目などすっかり忘れていた。
が、やがてその手が下ろされ、広場に噴水の小さな水音だけが残ると、人々は思い出したように拍手と歓声を少女に送る。それから、革袋からコインを出して少女に渡したり、肩に担いでいた袋から野菜や果物などを取り出して、少女の足元にあるバスケットへ入れていく。
「えへへ……あ、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
拍手と歓声はコンサートに比べればかなり少なく控えめだったが、少女はそのようなことなど気にしたふうもなく、頬をりんごのように赤らめながら笑って、お金や食べ物を与えてくれる皆にぺこぺこと小さく頭を下げている。
――音楽家……なのかな?
演奏の余韻がまだ胸に残り、ぼんやりとしながらイタルが少女の笑みを見つめていると、イタルの前にいた男がふとこちらを振り向き、露骨に表情を険しくした。その不快感が伝播したようにその隣も、そのまた隣も次々とこちらを振り向き、ドブネズミを見るような目をこちらへ注いでくる。
その眼差しで現実に引き戻され、ハッとしながら少女を見る。と、少女はその青い瞳の目を驚いたように丸く見張りながら、こちらを見つめていた。
「ご、ごめん……!」
思わず謝りながら、イタルはその場を逃げ出した。自らの安全な巣である裏路地へと再び駆け込み、暗くかび臭いその場所でうずくまる。
――やっぱり、ここは俺のいるべき世界じゃない。
元いた世界に帰りたい。イタルは目の前の黒ずんだ壁を見上げながらそう思い、しかし気がついた。自分は本当に帰りたいのだろうか。あの閉塞した、息苦しい世界に帰りたいのだろうか。
――いや、違う……。あんな所に帰りたくなんかない。
生きているのかも死んでいるのかも解らない、あの生活に帰りたいとは思えない。自分が自分である必要がない、あの世界には……。
だが、そもそもこのような考え自体が無意味なのだった。自分は自分の力では元の世界に戻ることができないのだから、このような自己問答にはなんの意味もない。ここに今こうして自分がいる以上、自分はここで生きていかねばならない。しかし、
――どうしよう……。どうすればいい?
何も解らない。これからどこで寝泊まりをすればよいのか、どこで食事をすればよいのか、どこで、どうやって金銭を稼いで手に入れればよいのか。
何ひとつ解らず、イタルはただ途方に暮れる。このままじゃ、ここで飢えて野垂れ死にだ。そんな考えが、背筋を寒くするほどの現実感をもって胸を押し潰し始める。
そんな時だった。
ふと、裏路地に微かな足音が反響した。見ると、そこには先程、ギターに似た楽器を演奏していた小柄な少女が立っている。楽器ケースとバスケットとを左右の手に提げながら、ぽつんと路地裏の入り口に立ってこちらを見ている。
長靴のような茶色い革のブーツを履き、白い長袖ワンピースの上に水色のベストを重ねた服装のその少女を、イタルはぽかんと見つめる。少女のほうでも、空を映したように青いその瞳でぽかんとこちらを見つめ返し、動かない。
ひょっとして、ここは彼女が家に帰るための通り道なのだろうか。そう気がついて、イタルは慌てて腰を上げてこの場を去ろうとした。しかし、そんなイタルを、
「あ、あのっ、待ってください!」
と、少女は微かに震えたような声で呼び止める。
足を止めて恐る恐る振り返ると、少女は両手の荷物を重そうに持ち直し、遠目でも解るほどゴクリと空唾を飲み込んでから、尋ねてくる。
「あ、あの……あなたは……誰、ですか?」
「え? お、俺……? 俺はフルセ・イタル、だけど……」
「フ、フル……? いえ、そ、そうじゃなくて……じゃなくて! え、えと、すみませんっ! わたし、コーディリア・リブランっていいます、は、初めましてっ!」
「は、はあ、初めまして……」
どうして自分たちは自己紹介なんてしあっているのだろう。なぜか妙にわたわたしながら名乗り返してくる少女――コーディリアを訝りつつ、とりあえず頭を下げ返すと、
「でも、そうじゃないんです!」
と、コーディリアは慌ただしく頭を上げると、怯えた子犬のような目を一変させ、挑むような目つきをこちらへ注いでくる。
「お、お名前ではなくて、その……なんて訊けばいいのかな……? ええと、あの、その……あ、あなたは、『人』なんですか?」
「……は?」
それはどういう意味なのだろうか。
『お前は人と扱われるべきでない身分の者、家畜同等の存在なんじゃないのか?』
ということを、コーディリアは言っているのだろうか。持ち前のネガティブ思考によって咄嗟にそう受け取ってイタルは絶句するが、すぐにそれは勘違いと解った。
緊迫した、一心にこちらを見つめるその瞳。こちらの言葉を聞き逃すまいと食い入るように見つめてくるその表情。楽器ケースとバスケットの取っ手を固く握り締める小さな両手。
――ひょっとして……。
コーディリアの様子を見て、気がついた。しかし、それはこちらの勘違いである可能性もある。というか、勘違いの可能性のほうがずっと高い。
言うべきか、言わざるべきか。イタルは逡巡したが、その耳に、先程コーディリアが奏でていた優しい旋律がふわりと蘇った。
こちらを見つめる澄んだ青い瞳、そして何より、彼女が奏でていたあの優しい旋律……もしこの人が信じてくれないのなら、世界の誰も信じてはくれないだろう。この人が自分を嗤うならば、世界中の誰にだって嗤われるだろう。
そう感じて、イタルはもうなるようになれというような気分で答えた。少女にその運命を委ねた。
「ああ……そうだよ。俺は人であって、人じゃない。一度死んで、それからこの世界にやって来たんだ。たぶん、神様の手で……」
「か、神の……? ということはつまり、あなたは天使様……なのですか?」
「て、天使……なのかな。もしかしたら……」
「なるほど。なるほど、そうなんですか……」
この説明で信じてくれるわけがない。イタルは半ばそう諦めていたが、コーディリアは真剣な表情をしたままうんうんと頷く。が、ふと何かに気づいたように、
「あ、す、すみません! それより、どうぞうちにいらっしゃってください。わたしの家、井戸があるので、そこで服と身体を……」
「いいの? 俺みたいなのが君の家に行っても」
「はい、もちろんです。うちはいちおう、診療所と、それから、まあ……聖殿ですから」
どこか困ったようにそう微笑んで、コーディリアはトコトコとこちらのすぐ傍まで歩み寄ってくる。こちらの身体だけでなく、この場所自体も鼻が曲がりそうなほど臭いにも拘わらず、コーディリアはその顔にも態度にも不快感を一つも表さない。
こちらへと向けられる、彼女の音楽そのもののように穏やかで柔らかい微笑を見下ろしながら、イタルは思わず呆然とする。天使は自分ではない。この少女のほうではないだろうか。そう思っていると、突然、
「あだっ!?」
後頭部に衝撃が走った。
思わず向かいの壁に手をつきながら、何か音がした右のほうを見てみると、そこには牛のような模様の毛皮をした猫がいた。どうやら家の二階の窓から飛び降りて、イタルの頭を階段代わりに使ったらしい。
――猫だ。猫はこの世界にもいるのか。
人を高みから見下すような、相変わらずの不遜な眼差しをこちらへ向け、それからすぐに走り去っていったそれを目で追いながら、イタルがさらに呆然としていると、
「あ、あの……?」
と、顔のすぐ下からコーディリアの声が聞こえてくる。目を下ろすと、壁に背を預けながら目をパチパチさせてこちらを見上げているコーディリアと視線がぶつかる。
猫がいるという驚きでつい忘れていたが、そうだった。猫に頭を突き飛ばされて、自分はコーディリアを巻き込む形で向かいの壁へ倒れ込んでいたのだった。
ヤバイ。これではまるで、小学生女児と、女児を壁際へ追い込む変質者だ。そう慌ててイタルは身を引こうとしたが、その直前、
「あなた……何をしているの?」
激しい感情を押し殺したような低調な声が、冷たく路地に響く。見ると、先程コーディリアが来たほうとは逆、裏路地の十字路の向こう側に、長い金髪をした女性が立っていた。
薄暗さのために、その表情をよく見ることはできない。だが、まるで妖気を湛えたように光っているその瞳と、鼻筋から右顎へと走る剣で斬られたような傷跡は、不思議なほどはっきりと目に飛び込んできた。
「今すぐ……今すぐにその子から離れなさい。さもないと……」
「エリ!? ち、違うの! これは――」
心なしかその金髪が炎のように立ち上り始めたように見えるほど、女性がただならぬ気配を発していることにコーディリアも気づいたらしい。
慌てたように声を上げるが、エリと呼ばれたその女性は、コーディリアに半ば覆い被さったまま動けずにいたイタルを異様に光る紫色の瞳で睨みつつ、右の掌をこちらへ突き出し、左から右へとその腕を緩やかに振った。
すると、その掌が撫でた空間に青白い輝きを放つ何か――アルファベットとカタカナを混ぜ合わせたような文字らしき物が浮き上がった。
その文字は列を整然と維持しながらミニチュア列車のように回転して女性の前に円を作り、その円を作るうちの五つの文字がぼうっと輝きを増したと思うと、その文字と文字が細い光の線で結ばれ、五芒星の紋章が作られる。
女性はその魔方陣らしきものの向こうから、酷薄な眼差しをこちらへ向ける。
「エーテルの海に漂いし原初の民よ、水の精霊・メルよ。契約に従い、我に力を与えよ。――ハンズ!」
これから先のことを、イタルはほぼ何も憶えていない。
ただかろうじて憶えている気がするのは、傍の黒い水溜まりが女性の声に呼応するように揺れ出したと思うと、そこから普通の三倍は長く太く、石油で作ったように黒い片腕が生え出てきたということである。
衝撃を感じる暇もないまま、イタルの視界は暗転したのだった。




