間奏の1、揺らぐアイスクリーム
龍脈やパワースポットなどという言葉を、胡散臭いものと捉えていたのもいまはむかし。
古くは神社仏閣教会など宗教の目覚ましいところは異界化侵攻が酷く、ヴァチカンなどは国一つまるごとがダンジョンになってしまっている。日本も例外ではなく、伊勢神宮や出雲大社といったところは強力な異界となっていた。
中でも、もっとも異界化侵攻が激しいのは、名古屋城を基点として周囲を取り込んだ『名古屋城大異界』である。高頻度で強力なモンスターが現れるため、名高い潜行者はここを拠点とすることが多い。
『枯渇』『疲労』『分解』などの強力な適応種がここ周辺で生まれたことから、異界化侵攻が激しい地域ほど強力な異能が生まれる可能性も高いとする仮説も提唱されている。
最近の仁屋佐智子の実験の一つが、茨城は鹿島神宮異界でのダンジョン潜行である。
鹿島神宮異界はその広大な敷地から、モンスターが濃密に湧いてくるということはないが、広く配置されるためその根絶は難しい。また異界化を解除するための次元融合点はまだ見つかっていないことから、探索難易度は低いが異界化解除は現時点で不可能だろうとされている。
いくらモンスターが強くなくても、なんの戦闘訓練も受けていない民間人が立ち向かって倒せるほどではない。そのため間引きと現地訓練を兼ねて、佐智子は周囲を探索していた。
十数メートル先から佐智子たちを感知したのか、四足獣型のモンスターがこちらへと走ってくる。野犬にも似ているが、その体躯は比較にならない。
佐智子はいくつものポケットがついたタクティカルベストから、円錐型の金属片を六つ取り出すと手のひらの上で向きを揃えた。
「『固定解除』」
金属片が音もなく加速し、四足獣を撃ち抜いた。
運動エネルギーを固定した金属弾だ。薬莢が必要ない分、銃弾よりも持ち運べる数が多いし、音もない。また異能を使っているから復活することもない。近寄って倒す必要もないから危険性も低いことから、佐智子はこの武器をよく使う。
不便な点があるとすれば、モンスターが消えたあとで金属弾を回収し、ふたたび運動エネルギーを獲得させなければいけないあたりだろう。
探索は金属弾が尽きたところで、午後四時を回っていた。鹿島神宮異界を抜けて帰宅することを考えると、帰宅準備を始めても遅くない頃合いだ。佐智子と異界探索案内チームはここで引き上げることにした。
警備されている異界出入り口まで来ると、ようやく佐智子は気を抜いて息を吐くことができた。
背負った荷物を背負い直したシェルパチームの一人が、軽く会釈する。
「仁屋さん、ありがとうございました。これでまたマップが埋まりましたよ」
異界というだけあり、GPSが捻じ曲げられて正常に作動しないため、異界内では手書きによるマッピングが不可欠だった。彼は地図制作会社から出向している社員だ。
「いえ。わたしもその恩恵に預かっている一人ですからね」
ひらひらと佐智子は手を降って、曖昧に笑みを浮かべた。
強力な適応種は数がいても、佐智子ほど低コストで継戦能力のある異能者は数少ない。また人当たりも悪くないため、こういった地道な現場作業で重用される一因だ。
何度かのやりとりをしたあと、帰宅が遅くなるという理由でその場を切り上げて、佐智子はセンターへ帰社した。空も暮れていた頃合いだったが、乃羽はまだ研究中だった。
佐智子が帰宅準備を終えてそろそろエントランスに出ようかとしていた頃、乃羽が部屋を出てきていた。
「お疲れ様です、乃羽さん。もう終わりですか?」
「お疲れ様。あともうちょっとかな」
「また残業ですか。大変ですね……」
「本当だよ。もう肩も腕もボロボロでさ」
ふざけたようにがっくりと肩を落とす乃羽からは、ツンと鼻をつくメントールが匂った。
「無理をしないでくださいね……といって許してくれる仙波さんじゃないですよねぇ」
「まったく。人をムチで叩くために生まれてきたんじゃないかな」
「あはは。怒られますよ」
「もう怒られてるようなもんですから」
二人して笑ったあと、乃羽を待っているというのもおかしかったから佐智子は帰ることにした。
「それではお先に失礼します」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
強いメントールの香りが、頭のなかに残った。
スーパーで買い物を終えた仁屋佐智子は、駅前のアイス屋でバニラとチョコミントのダブルの組み合わせを買った。片手に買い物袋を下げながら歩く軽やかな足取りは、どこにでもいる妙齢の娘にしか見えない。
ビニール袋からは半分に切られたネギとゴボウがはみ出している。ネギは今夜の晩菜で里芋と煮含めるもの、ゴボウは鶏と一緒に多めの炊き込みご飯にして、明日の昼食に持っていくつもりだ。
繁華街で人を避けるようにして歩いていた佐智子だが、なんらかのアクシデントが置きたのか急に波が変わった。避けきれずにぶつかり、その衝撃でダブルのアイスクリームがぐらりと揺れる。
「っと、すみません」
「『固定』……いえ、お気をつけて」
軽く溶け出してコーンに垂れようとしていた雫さえもすべてが停止する。ぺこりと頭を下げる若い男をそそくさと避けて、佐智子はすこし足を早めた。人波が落ち着いたところで、上に乗ったチョコミントにかぷりと食らいついてから固定を解除して、バニラの上に戻させた。
「んー、冷たい」
チョコミントの塊を舐めとかしながら、ひんやりとした匂いが佐智子の頭を過ぎった。残業を終えた乃羽からは強いメントールが香っていた。
例えば『固定』のように極めて強力な異能を持っていても、それは結局のところスタンドアロンでしかないが、乃羽の持つ『成長促進』は影響力を考えれば並大抵の異能ではない。
頭脳を成長させたものが画期的な発明をしたら?
治療不可とされていた病気や怪我を治せたら?
禿山に植樹して木々を復活させられたら?
すこし考えただけで世界を一変させる能力であるとわかる。それだけに激務であることもかんたんに想像がついた。応用範囲があまりにも広すぎて、乃羽一人がテストするには負担が大きすぎるのだろう。
佐智子の場合、出来ることが決まっているから、規模や条件を変えたテストや、強化できないかと開発していくのが主な実験内容だ。それ自体も大変ではあるものの、ぐったり疲れるほどではない。
あの様子を見て佐智子は、乃羽のためになにかしてあげたいと思っていた。しかし図々しく踏み出せるほど気が強い人間でもないと自覚していたから、なにかしらの建前は必要だった。
てくてくと考えながら歩いて、なにも思いつかないままマンションまでたどり着いてしまう。
「着いちゃった」
マンション前で立ち止まってもアイディアが湧いてくるわけではない。
佐智子はエレベーターに乗って自室へ向かった。玄関ドアを開けると、うっすらと空調の効いたアイスのような空気が流れ出た。
「ただいまぁ」
「おかえりー、お姉ちゃん」
テレビをうつ伏せで見ながら振り返りもせず、佐智子の妹――佐由里――は返事をした。姉と似た栗毛色の髪をヘアゴムで束ね、中学時代のハーフパンツでくつろぐ姿は、ため息を吐くのに申し分ない。
「ご飯は?」
「まだー。今日のごはんなにー?」
「里芋と長ネギの煮物と、鶏ごぼうの炊き込みご飯」
「おいしそー。茶色いものはいいよねー」
佐智子の得意料理はほとんどが醤油で味つけする、俗にいう『茶色いもの』だった。彩りはともかく、味や栄養バランスは妹のお墨付きだから問題はないだろうが、若い娘としてはどうだろうと悩みでもある。カフェのランチのようなワンプレートとは言わなくても、アクセントで引き締める程度の色彩感覚は欲しいと。
「ニンジンあったっけ、入れようかなぁ」
「えー、いいよ。シンプルブラウンでいこうよー」
「絶対入れる」
「やだー」
野菜室にあったニンジンを切り刻んで、鶏ごぼうご飯をセットしてスイッチを押し、買ってきたネギを親指の先ほどに切り分けて、冷凍してある里芋といっしょに甘辛く煮始めた。佐智子は冷蔵庫から発泡酒と冷凍庫で冷やしておいたグラスを取り出すと、プルタブを開けてとくとくと注ぐ。霜で曇るほどに冷やされたグラスは指が張り付くほどだ。半分近く泡になってしまったのを一気に呷る。
「んっ……はぁー」
喉から腹の中まで洗い流される爽快感は何にも変えがたい。料理ができあがってから飲むよりも、こうして作りながら飲むほうが佐智子は好きだった。醤油やネギの煮える匂いが彼女の腹底をくすぐる。
冷蔵庫から常備菜の塩キャベツ取り出して齧ると、佐智子はまたビールを飲んだ。前日に作った塩キャベツはちょっとしんなり浅漬けのようになっていた。味が染みたキャベツはまた別の味わいがあり、佐智子は作りたてよりも一日経ったものを好んだ。
「んー、作りおきか」
作りすぎて処分に困ったという言い訳は昔からあるものだけれど、定番だからこそ悪いものじゃない。
疲労とアルコールのせいかそんなことを思いながら佐智子は、その路線で箸を使わないで済むような弁当を作ってあげようと考えた。
鶏ごぼうの炊き込みご飯のおむすびにして、細かなものは串に挿して食べやすくすれば箸を使わずに済む。
この時点ではまだそれほどいいアイディアではないと首を振ったものの、晩酌で酔った佐智子には最高の考えたと思われた。するりと飲みやすい辛口の日本酒だった。




