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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第29話 切符

 表札の木の角は、前より少し丸くなっていた。


 指先で触れた。いつもの朝の動作。木の感触。インクの匂い。——変わっていない。外されて、引き出しの中にいた間も、角の丸さは変わらなかった。


 『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』


 戻ってきた。


 扉を開けた。窓から冬の朝の光。机が二つ、書棚が四つ、窓が一つ。白い熊のぬいぐるみが机の隅にちょこんと座っている。テオが戻してくれたのだろう。首に白い紐が結ばれたまま。


 「おはようございます、室長!」


 テオが飛び込んできた。目はまだ少し赤い。二日前にあれだけ泣いたのに、まだ赤い。この子の目は年中赤い。


 「おはよう、テオ」


 「今日の処理予定ですが——」


 「テオ」


 「はい」


 「来週の水曜日、休みなさい」


 テオの動きが止まった。


 「……また有給ですか」


 「二度目。文書管理室室長の権限で、部下に休暇を与えます」


 「室長の二度目の命令も休暇ですか」


 「一番大事な仕事だって言ったでしょ」


 テオの目がまた赤くなった。唇を噛んで、ぐっとこらえて——こらえきれず、深くお辞儀をした。


 「……ありがとうございます」


 「テオ」


 「はい」


 「泣かないの」


 「泣いてないです。これは——」


 「汗でしょ。知ってる」


 テオが顔を上げた。赤い目。赤い鼻。でも——笑っていた。泣きながら笑っている。


 (……この子がいたから。法廷の間も、表札がない間も、この子が文書管理室を守ってくれていた)


 「テオ。ありがとう」


 「え」


 「あなたが業務を回してくれたから、私は法廷に集中できた。リーゼさんの情報も、給仕記録の照合も、全部あなたのおかげ」


 テオの口が開いた。閉じた。また開いた。何も言えないまま、もう一度深くお辞儀をした。今度は長い間、頭を下げたままだった。



 テオが業務に戻った後、一人になった。


 引き出しを開けた。


 焼き菓子の包み紙。——もう匂いは薄くなっている。終身任命の辞令書。追給通知。有給付与証明。白い花を挟んだ帳面。


 そして——茶色い無地の封筒。


 あの日。テオが「局長殿から預かった書類です」と渡してくれた封筒。職務停止を告げられた朝。「業務書類じゃないと思うんです」とテオが口ごもった封筒。


 あれから何日経っただろう。法廷が始まって、偽造承認書が出て、メリッサが偽証して、カルステンが越権行為を攻撃して、レオンハルトから手紙が来て、泣いて、墨師に鑑定を頼んで、ヘルツが自白して。


 ずっと——開けなかった。


 開けたら歩けなくなると思ったから。仕事じゃないものに触れたら、仕事で立っている自分が崩れると思ったから。


 でも——もう、崩れない。


 封を切った。


 薄い紙が一枚。


 ——行程表だった。


 乗合馬車の時刻。王都からリンデンバートまで五日。途中の宿場の名前と所要時間。リンデンバート到着後の宿の候補が三つ、それぞれの特徴と料金が簡潔に書かれている。温泉の営業時間。市場の開催日。


 そして——ベンチまでの道順。


 宿から温泉街の広場を抜けて、石畳の小道を右に曲がって、橋を渡って、公園の入口から七十歩。右手にある木のベンチ。


 七十歩。


 あの人は、歩数を数えていたのか。


 几帳面な字。硬くて、まっすぐで、装飾のない文字。行程表の余白に、一行だけ追記がある。


 『焼き菓子の店は市場の東端。朝八時開店。三つ買うなら朝一がいい。昼には売り切れる』


 三つ。いつも三つだった。あの温泉地で蒸し饅頭を三つ買って、一つをあの人にあげた朝。それからずっと、焼き菓子は三つ。


 この行程表は——容疑が浮上する前に書かれている。あの手紙の一文より前に。「二度と会わない」より前に。


 あの人は——この紙を書いている時、何を考えていたんだろう。ベンチまでの歩数を数えている時。焼き菓子の店の開店時間を調べている時。宿の料金を比べている時。


 (馬鹿。不器用な——大馬鹿)


 涙が落ちた。


 紙の上に。行程表の、ベンチまでの道順のところに。


 「……馬鹿」


 拭った。手の甲で。涙が行程表に染みを作った。小さな染み。インクは滲まなかった。あの人の字は——万年筆じゃなくて、鉄ペンだ。鉄ペンのインクは水に強い。こんなところまで几帳面。


 行程表を帳面の最後のページに挟んだ。白い花の隣に。朱印の隣に。十年分の業務記録の、一番最後に——リンデンバートへの道順がある。


 帳面を閉じた。


 もう一つ。あの手紙。くしゃくしゃになった一文の手紙。鞄の底に突っ込んだままだった。


 取り出した。広げた。皺だらけ。


 『この件が終わるまで、二度と会わない。——グレイ』


 この件は、終わった。


 昨日、宰相が裁定を下した。共犯容疑は棄却された。室長職は復帰した。ヘルツは自白した。


 「この件」は——終わった。


 手紙を行程表と一緒に、帳面に挟んだ。皺だらけの手紙と、涙の染みのついた行程表。並べると——少しだけ、笑えた。


 (不器用な人と、泣き虫な人。——お似合いかもしれない)


 鞄を肩にかけた。帳面を持って、文書管理室を出た。



 王都の公園は、冬でも人がいた。


 石畳の道。枯れた花壇。葉を落とした木々の枝が、灰色の空に細い線を描いている。冬の風が冷たい。マフラーを口元まで上げた。


 なぜここに来たのか、自分でもよくわからない。法廷が終わって、表札が戻って、テオに有給を出して、封筒を開けて。——それで、じっとしていられなくなった。


 行程表の中の「ベンチまでの道順」が頭に残っている。七十歩。あの温泉地のベンチ。


 リンデンバートは王都から馬車で五日。今日ここから行くわけにはいかない。


 でも——公園の奥に、ベンチが見えた。


 木のベンチ。形が似ている。リンデンバートのあのベンチと同じ型ではないけれど、背もたれの高さと、座面の幅と、木の色が——似ている。


 座っている人がいた。


 足が止まった。


 暗い紺の外套。腕を組んで——いや、組んでいない。膝の上に、何かを置いている。


 書類ではなかった。


 茶色い紙の包みと——薄い紙が二枚。


 乗合馬車の切符。


 心臓が鳴った。うるさいくらいに。冬の公園で、自分の心臓の音が聞こえるなんて、前世でも今世でもなかった。


 近づいた。十歩。五歩。三歩。


 レオンハルトが顔を上げた。


 暗い瞳。眉間の皺。——でも、あの「二度と会わない」の手紙を書いた人の顔ではなかった。皺はいつも通りだけれど、目が違う。温泉地のベンチで、夕焼けを見ながら「もう少し早く聞くべきだった」と言った時の目。


 隣に座った。


 ベンチが軋んだ。木の音。冷たい座面。


 「……久しぶり」


 自分の声が出た。思ったより普通の声だった。


 「ああ」


 短い返事。この人はいつもそうだ。


 「行程表、見た」


 レオンハルトの手が——膝の上で、微かに動いた。切符を持つ指が少し強張った。


 「……開けたのか」


 「昨日。——遅くなった」


 「いつでもよかった」


 「よくないわよ」


 声が震えそうになって、こらえた。こらえきれなくて、少しだけ笑ってしまった。


 「ベンチまで七十歩って、歩数まで数えたの」


 レオンハルトの視線が逸れた。前を向いた。枯れた花壇を見ている。耳の先が——赤い。冬の寒さのせいかもしれない。たぶん違う。


 「……目安だ」


 「焼き菓子は三つ。朝一がいい。昼には売り切れる」


 「事実を書いただけだ」


 「事実ね」


 笑った。声に出して笑ったら、また目の奥が熱くなった。


 レオンハルトが膝の上の切符を見下ろした。


 「日付は——明後日にした」


 「明後日」


 「遅いか」


 「早いわよ。荷造りもしてない」


 「前は一晩で詰めていただろう」


 (この人、温泉地に行く前の荷造りのことまで覚えてるの)


 「あの時は帳面と着替えだけだったでしょ。今回は——」


 言いかけて、止まった。


 今回は。鞄の中身が違う。帳面はある。着替えも要る。でも——白い熊のぬいぐるみも入れるかどうか迷っている、とは言えない。二十五歳の宮廷官僚が旅行にぬいぐるみを持参する話を、この無愛想な人にするのは——


 「熊は持っていくのか」


 「——は?」


 「机の上にあった。白い熊。あれは——俺が」


 「知ってるわよ。射的で当てたんでしょう」


 レオンハルトが黙った。前を向いたまま。耳の赤さが増している。


 冬の風が吹いた。枯れ葉が足元を転がっていった。


 レオンハルトの手が動いた。


 膝の上から——下ろされた。ベンチの座面の上。私の手のすぐ隣。


 切符を二枚、指で挟んだまま。


 手が——開いた。


 手のひら。上を向いている。長い指。ペンだこのある指。あの祭りの夜に手首を掴んだ手。あの廊下で指先だけが触れた手。あのすれ違いで手の甲を掠めた手。


 今度は——手のひらごと。開いて。待っている。


 差し出されている。


 「……レオンハルト」


 名前を呼んだ。


 あの温泉地の夜、星空の下で初めて名前を交わした時と同じ名前。あの裁定の後の廊下で、指先が触れた時に呼びかけた名前。


 でも——今日の呼び方は、少し違った。自分でもわかった。声が少し低くなって、少し柔らかくなって。なんだろう、これ。


 レオンハルトの手のひらに、自分の手を重ねた。


 温かかった。


 冬の公園で。指先が冷えているのに。手のひらの真ん中だけが、温かかった。


 指が——閉じた。レオンハルトの指が、私の手を包んだ。握りしめるのではなく、包む。大きな手。長い指。確かな温度。


 「……すまなかった」


 低い声。


 「手紙のこと?」


 「ああ」


 「怒ったわよ。すごく」


 「知ってる」


 「知ってるって——どこから」


 「テオから聞いた」


 (テオ!)


 あの子、余計なことを。——いや。余計じゃない。あの子のおかげで、この人は知ったのだ。私が怒ったことを。泣いたことは——言ってないだろう。たぶん。


 「一人で決めないでって思った」


 「……ああ」


 「次は——聞いてよ。二人のことは、二人で決めたい」


 レオンハルトの手が、ほんの少しだけ強くなった。包む力が。


 「……善処する」


 「善処じゃなくて約束」


 「……約束する」


 短い。いつも短い。でも——この人の「約束する」は、重い。行程表に七十歩と書く人の約束は、軽くない。


 手を繋いだまま、しばらく黙っていた。冬の風。枯れた花壇。灰色の空。


 リンデンバートのベンチではないけれど、木の感触は似ている。


 切符が二枚、レオンハルトの膝の上にある。明後日。馬車で五日。あのベンチまで。


 「荷造り、手伝ってくれる気はある?」


 「ない」


 「即答」


 「荷造りは——各自でやるものだ」


 「几帳面ね」


 「行程表を書く人間だからな」


 笑った。二人とも。声は小さかったけれど、冬の公園に、確かに笑い声が響いた。


 手は離さなかった。離す理由がなかった。


 明後日。馬車が出る。リンデンバートへ。あのベンチへ。


 帳面と、白い熊と、行程表を持って。隣に——この手を繋いだまま。


 (前世の私に教えてあげたい。有給休暇は——こうやって使うものだって)


 風が吹いた。冷たい風。でも手のひらは温かかった。ずっと。

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