第29話 切符
表札の木の角は、前より少し丸くなっていた。
指先で触れた。いつもの朝の動作。木の感触。インクの匂い。——変わっていない。外されて、引き出しの中にいた間も、角の丸さは変わらなかった。
『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』
戻ってきた。
扉を開けた。窓から冬の朝の光。机が二つ、書棚が四つ、窓が一つ。白い熊のぬいぐるみが机の隅にちょこんと座っている。テオが戻してくれたのだろう。首に白い紐が結ばれたまま。
「おはようございます、室長!」
テオが飛び込んできた。目はまだ少し赤い。二日前にあれだけ泣いたのに、まだ赤い。この子の目は年中赤い。
「おはよう、テオ」
「今日の処理予定ですが——」
「テオ」
「はい」
「来週の水曜日、休みなさい」
テオの動きが止まった。
「……また有給ですか」
「二度目。文書管理室室長の権限で、部下に休暇を与えます」
「室長の二度目の命令も休暇ですか」
「一番大事な仕事だって言ったでしょ」
テオの目がまた赤くなった。唇を噛んで、ぐっとこらえて——こらえきれず、深くお辞儀をした。
「……ありがとうございます」
「テオ」
「はい」
「泣かないの」
「泣いてないです。これは——」
「汗でしょ。知ってる」
テオが顔を上げた。赤い目。赤い鼻。でも——笑っていた。泣きながら笑っている。
(……この子がいたから。法廷の間も、表札がない間も、この子が文書管理室を守ってくれていた)
「テオ。ありがとう」
「え」
「あなたが業務を回してくれたから、私は法廷に集中できた。リーゼさんの情報も、給仕記録の照合も、全部あなたのおかげ」
テオの口が開いた。閉じた。また開いた。何も言えないまま、もう一度深くお辞儀をした。今度は長い間、頭を下げたままだった。
◇
テオが業務に戻った後、一人になった。
引き出しを開けた。
焼き菓子の包み紙。——もう匂いは薄くなっている。終身任命の辞令書。追給通知。有給付与証明。白い花を挟んだ帳面。
そして——茶色い無地の封筒。
あの日。テオが「局長殿から預かった書類です」と渡してくれた封筒。職務停止を告げられた朝。「業務書類じゃないと思うんです」とテオが口ごもった封筒。
あれから何日経っただろう。法廷が始まって、偽造承認書が出て、メリッサが偽証して、カルステンが越権行為を攻撃して、レオンハルトから手紙が来て、泣いて、墨師に鑑定を頼んで、ヘルツが自白して。
ずっと——開けなかった。
開けたら歩けなくなると思ったから。仕事じゃないものに触れたら、仕事で立っている自分が崩れると思ったから。
でも——もう、崩れない。
封を切った。
薄い紙が一枚。
——行程表だった。
乗合馬車の時刻。王都からリンデンバートまで五日。途中の宿場の名前と所要時間。リンデンバート到着後の宿の候補が三つ、それぞれの特徴と料金が簡潔に書かれている。温泉の営業時間。市場の開催日。
そして——ベンチまでの道順。
宿から温泉街の広場を抜けて、石畳の小道を右に曲がって、橋を渡って、公園の入口から七十歩。右手にある木のベンチ。
七十歩。
あの人は、歩数を数えていたのか。
几帳面な字。硬くて、まっすぐで、装飾のない文字。行程表の余白に、一行だけ追記がある。
『焼き菓子の店は市場の東端。朝八時開店。三つ買うなら朝一がいい。昼には売り切れる』
三つ。いつも三つだった。あの温泉地で蒸し饅頭を三つ買って、一つをあの人にあげた朝。それからずっと、焼き菓子は三つ。
この行程表は——容疑が浮上する前に書かれている。あの手紙の一文より前に。「二度と会わない」より前に。
あの人は——この紙を書いている時、何を考えていたんだろう。ベンチまでの歩数を数えている時。焼き菓子の店の開店時間を調べている時。宿の料金を比べている時。
(馬鹿。不器用な——大馬鹿)
涙が落ちた。
紙の上に。行程表の、ベンチまでの道順のところに。
「……馬鹿」
拭った。手の甲で。涙が行程表に染みを作った。小さな染み。インクは滲まなかった。あの人の字は——万年筆じゃなくて、鉄ペンだ。鉄ペンのインクは水に強い。こんなところまで几帳面。
行程表を帳面の最後のページに挟んだ。白い花の隣に。朱印の隣に。十年分の業務記録の、一番最後に——リンデンバートへの道順がある。
帳面を閉じた。
もう一つ。あの手紙。くしゃくしゃになった一文の手紙。鞄の底に突っ込んだままだった。
取り出した。広げた。皺だらけ。
『この件が終わるまで、二度と会わない。——グレイ』
この件は、終わった。
昨日、宰相が裁定を下した。共犯容疑は棄却された。室長職は復帰した。ヘルツは自白した。
「この件」は——終わった。
手紙を行程表と一緒に、帳面に挟んだ。皺だらけの手紙と、涙の染みのついた行程表。並べると——少しだけ、笑えた。
(不器用な人と、泣き虫な人。——お似合いかもしれない)
鞄を肩にかけた。帳面を持って、文書管理室を出た。
◇
王都の公園は、冬でも人がいた。
石畳の道。枯れた花壇。葉を落とした木々の枝が、灰色の空に細い線を描いている。冬の風が冷たい。マフラーを口元まで上げた。
なぜここに来たのか、自分でもよくわからない。法廷が終わって、表札が戻って、テオに有給を出して、封筒を開けて。——それで、じっとしていられなくなった。
行程表の中の「ベンチまでの道順」が頭に残っている。七十歩。あの温泉地のベンチ。
リンデンバートは王都から馬車で五日。今日ここから行くわけにはいかない。
でも——公園の奥に、ベンチが見えた。
木のベンチ。形が似ている。リンデンバートのあのベンチと同じ型ではないけれど、背もたれの高さと、座面の幅と、木の色が——似ている。
座っている人がいた。
足が止まった。
暗い紺の外套。腕を組んで——いや、組んでいない。膝の上に、何かを置いている。
書類ではなかった。
茶色い紙の包みと——薄い紙が二枚。
乗合馬車の切符。
心臓が鳴った。うるさいくらいに。冬の公園で、自分の心臓の音が聞こえるなんて、前世でも今世でもなかった。
近づいた。十歩。五歩。三歩。
レオンハルトが顔を上げた。
暗い瞳。眉間の皺。——でも、あの「二度と会わない」の手紙を書いた人の顔ではなかった。皺はいつも通りだけれど、目が違う。温泉地のベンチで、夕焼けを見ながら「もう少し早く聞くべきだった」と言った時の目。
隣に座った。
ベンチが軋んだ。木の音。冷たい座面。
「……久しぶり」
自分の声が出た。思ったより普通の声だった。
「ああ」
短い返事。この人はいつもそうだ。
「行程表、見た」
レオンハルトの手が——膝の上で、微かに動いた。切符を持つ指が少し強張った。
「……開けたのか」
「昨日。——遅くなった」
「いつでもよかった」
「よくないわよ」
声が震えそうになって、こらえた。こらえきれなくて、少しだけ笑ってしまった。
「ベンチまで七十歩って、歩数まで数えたの」
レオンハルトの視線が逸れた。前を向いた。枯れた花壇を見ている。耳の先が——赤い。冬の寒さのせいかもしれない。たぶん違う。
「……目安だ」
「焼き菓子は三つ。朝一がいい。昼には売り切れる」
「事実を書いただけだ」
「事実ね」
笑った。声に出して笑ったら、また目の奥が熱くなった。
レオンハルトが膝の上の切符を見下ろした。
「日付は——明後日にした」
「明後日」
「遅いか」
「早いわよ。荷造りもしてない」
「前は一晩で詰めていただろう」
(この人、温泉地に行く前の荷造りのことまで覚えてるの)
「あの時は帳面と着替えだけだったでしょ。今回は——」
言いかけて、止まった。
今回は。鞄の中身が違う。帳面はある。着替えも要る。でも——白い熊のぬいぐるみも入れるかどうか迷っている、とは言えない。二十五歳の宮廷官僚が旅行にぬいぐるみを持参する話を、この無愛想な人にするのは——
「熊は持っていくのか」
「——は?」
「机の上にあった。白い熊。あれは——俺が」
「知ってるわよ。射的で当てたんでしょう」
レオンハルトが黙った。前を向いたまま。耳の赤さが増している。
冬の風が吹いた。枯れ葉が足元を転がっていった。
レオンハルトの手が動いた。
膝の上から——下ろされた。ベンチの座面の上。私の手のすぐ隣。
切符を二枚、指で挟んだまま。
手が——開いた。
手のひら。上を向いている。長い指。ペンだこのある指。あの祭りの夜に手首を掴んだ手。あの廊下で指先だけが触れた手。あのすれ違いで手の甲を掠めた手。
今度は——手のひらごと。開いて。待っている。
差し出されている。
「……レオンハルト」
名前を呼んだ。
あの温泉地の夜、星空の下で初めて名前を交わした時と同じ名前。あの裁定の後の廊下で、指先が触れた時に呼びかけた名前。
でも——今日の呼び方は、少し違った。自分でもわかった。声が少し低くなって、少し柔らかくなって。なんだろう、これ。
レオンハルトの手のひらに、自分の手を重ねた。
温かかった。
冬の公園で。指先が冷えているのに。手のひらの真ん中だけが、温かかった。
指が——閉じた。レオンハルトの指が、私の手を包んだ。握りしめるのではなく、包む。大きな手。長い指。確かな温度。
「……すまなかった」
低い声。
「手紙のこと?」
「ああ」
「怒ったわよ。すごく」
「知ってる」
「知ってるって——どこから」
「テオから聞いた」
(テオ!)
あの子、余計なことを。——いや。余計じゃない。あの子のおかげで、この人は知ったのだ。私が怒ったことを。泣いたことは——言ってないだろう。たぶん。
「一人で決めないでって思った」
「……ああ」
「次は——聞いてよ。二人のことは、二人で決めたい」
レオンハルトの手が、ほんの少しだけ強くなった。包む力が。
「……善処する」
「善処じゃなくて約束」
「……約束する」
短い。いつも短い。でも——この人の「約束する」は、重い。行程表に七十歩と書く人の約束は、軽くない。
手を繋いだまま、しばらく黙っていた。冬の風。枯れた花壇。灰色の空。
リンデンバートのベンチではないけれど、木の感触は似ている。
切符が二枚、レオンハルトの膝の上にある。明後日。馬車で五日。あのベンチまで。
「荷造り、手伝ってくれる気はある?」
「ない」
「即答」
「荷造りは——各自でやるものだ」
「几帳面ね」
「行程表を書く人間だからな」
笑った。二人とも。声は小さかったけれど、冬の公園に、確かに笑い声が響いた。
手は離さなかった。離す理由がなかった。
明後日。馬車が出る。リンデンバートへ。あのベンチへ。
帳面と、白い熊と、行程表を持って。隣に——この手を繋いだまま。
(前世の私に教えてあげたい。有給休暇は——こうやって使うものだって)
風が吹いた。冷たい風。でも手のひらは温かかった。ずっと。




