第28話 帳簿が合いました
最終法廷の朝は、凍えるように寒かった。
官舎を出た時、吐く息が白かった。石畳に霜が降りていて、靴底がかすかに滑る。帳面の入った鞄を肩にかけて、宰相府に向かう。
空は灰色。雲が低い。冬の王都で一番寒い時期だ。
裁定の間に入った。四度目。石の壁。ランプの灯り。窓のない地下の部屋。
椅子に座った。膝の上に帳面を置いた。革表紙が冷えていて、指先に冷たさが伝わる。
今日で、終わる。
◇
カルステンが立ち上がった。
「最終法廷にあたり、弁護側は先に提出した動議——帝国監査局長グレイの越権行為に関する審議——を改めて求めます」
越権行為。あの温泉地で使者を追い返した件。カルステンの最後の矛先。
「監査局長グレイは調査対象に不当に介入しました。この事実が存在する限り——」
「法務部より、審議に先立ち提出すべき資料があります」
ヨハンの声が、カルステンの弁論を遮った。
遮った。
あの淡々としたヨハンが、弁護人の発言を遮った。法廷の手続きとして、法務部からの証拠提出は弁論に優先する。手続き上は正しい。でも——ヨハンがこんなタイミングで割り込むのは、初めて見た。
「裁定官の許可をいただけますか」
宰相が頷いた。
ヨハンが書類の束を取り出した。厚い。紐で綴じられた、法務部の正式な記録簿。
「カルステン・フォン・メーア弁護人の弁護実績に関する、法務部の内部記録です」
カルステンの動きが——止まった。
「カルステン弁護人は、過去に二件の弁護案件において、証人誘導の疑惑で法務部から正式な警告を受けています。一件目は八年前、商人間の債務紛争。二件目は五年前、地方貴族の相続争い。いずれも証人の証言内容が弁護側の主張と不自然に一致し、法務部が調査を行った記録が残っています」
法廷に沈黙が落ちた。
カルステンの目が——初めて——細くなった以上の反応を見せた。唇が薄く開いて、閉じた。
「警告は記録に留まり、処分には至っていません。しかし——」
ヨハンが書類のページをめくった。
「本件において、オルテア伯爵の証言により、カルステン弁護人がメリッサ・フォン・オルテアに証言内容を事前に指示していた事実が明らかになっています。これは過去の警告記録と合わせて、弁護人としての信頼性に重大な疑義を生じさせるものです」
過去の警告。事前の証言指示。二つが繋がった。
(ヨハンは——調べたのだ。カルステンの過去を。旧知の仲だからこそ、どこを探せばいいか知っていた)
あの茶席で何があったかは知らない。でも——ヨハンは、カルステンの柔和な言葉の下にあるものを見抜いていたのだろう。同期だったから。この男の手口を、誰よりも知っていたから。
「加えて」
ヨハンの声が続いた。
「法務部は、証人買収の間接的証拠を入手しています」
テオ。テオの友人のリーゼ。食堂での目撃。あの日、テオに「日時と場所と容貌を書き留めて」と指示した。
「書記局食堂の給仕記録と、カルステン弁護人の助手の経費帳簿を照合した結果、助手が食堂で第三者と会食した日時に、助手の経費帳簿から出所不明の支出が記録されていることが判明しました。支出額は証人への報酬として不自然に高額です」
給仕記録と経費帳簿の照合。前世の監査で何度もやった手法だ。金の流れは、必ず紙に残る。
「直接的な証拠ではありませんが、目撃証言と帳簿記録の双方が一致することで、証人買収の蓋然性は極めて高いと判断します」
ヨハンが着席した。
法廷の空気が——傾いた。完全に。
カルステンが立っていた。立ったまま、動かなかった。灰色の髪。細い目。背に回していた手が——下ろされていた。拳を握っている。
「弁護人メーア。反論はありますか」
宰相の声。
カルステンが口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「——ありません」
二文字。たった二文字で、この男の法廷が終わった。
◇
ヘルツが顔を上げた。
弁護人が崩れた。偽造承認書は砕かれた。偽証は暴かれた。証人買収の痕跡が提示された。
ヘルツの目に、もう何も残っていなかった。あの柔和な笑みも、被害者の顔も、恐怖も。空っぽの目。十年間、部下の手柄を奪い、金を掠め取り、笑顔の下に全てを隠してきた男の目が——空になっていた。
「ヘルツ元次長。最終弁論の機会を与える」
宰相の声。
ヘルツの唇が動いた。音にならなかった。喉が鳴った。
「……もういい」
声が、床に落ちた。あの裁定会議の日と同じ。石の床に吸い込まれて、消える声。
「私は——」
震えていた。手が。肩が。声が。
「——一人でやった」
自白。
「帳簿の操作も、伝票の偽造も、接待費の上乗せも。全て、私が。リヒターは——知らなかった。あの女は帳簿を正しく管理していただけだ。私が、勝手に——」
声が途切れた。ヘルツの肩が小さく震えて、頭が垂れた。
法廷に沈黙が落ちた。
長い沈黙。ランプの炎が揺れる音だけが聞こえる。
(……終わった)
帳面を握る手から、力が抜けた。
何も感じなかった。嘲笑もない。怒りもない。あの裁定会議の日と同じだ。数字が正しい場所に収まった、という感覚だけ。帳簿が合った時と同じ。
ヘルツが震えている。小さく。あの十年間の全てが——震えだけになった。
(……ヘルツ次長。あなたは、私の仕事を知らなかった。十年間、隣にいたのに。帳簿の仕組みも、文書体系の構造も、何一つ理解していなかった。だから——「利用された」と言えると思った。でも、利用するには理解が必要なのよ。理解していない人間は、利用もできない)
理解していなかったのは、ヘルツの方だ。最初から。
◇
「裁定を下す」
宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタインが立ち上がった。
「第一。ヴィクトル・フォン・ヘルツ元書記局次長の横領は、単独犯行として確定する。被告人の自白と、全証拠の整合により、これ以上の審理を要しない」
「第二。エステル・フォン・リヒターに対する共犯容疑を棄却する。帳簿操作への関与を示す証拠は全て否定され、偽造承認書は鑑定により偽造と認定された。——リヒター室長の職務停止を即日解除し、文書管理室室長職に復帰させる」
復帰。
即日。
「第三。カルステン・フォン・メーア弁護人に対し、証人への証言指示および証人買収への関与の疑義について、法曹界からの追放を勧告する。詳細な処分は法務部の調査に基づき決定する」
カルステンは黙っていた。立ったまま。拳は握られたままだった。
「第四。エステル・フォン・リヒター文書管理室室長を、王国功労賞に推薦する。十年間の無欠勤勤務、文書管理体系の構築、および本件における証拠の整理と法廷での貢献を総合的に評価する」
王国功労賞。
(……そんなものより、表札を返してほしい)
それは言わなかった。
宰相の口元が、ほんの少しだけ動いた。あの裁定会議の日と同じ。笑ったのかどうか、わからない程度の変化。
「リヒター室長。何か述べることはありますか」
立ち上がった。
帳面を膝から降ろした。十年分の重さ。革表紙のすり切れた角。インク染みの模様。あの朝——恩暇申請書を書いた朝から、ずっと傍にあった帳面。
法廷を見渡した。石の壁。ランプの灯り。裁定官席の宰相。法務部のヨハン。弁護席のカルステン。召喚席のヘルツ。傍聴席のオルテア伯爵。
言葉を探した。
探す必要はなかった。最初から、一つしかない。
「帳簿が合いました」
それだけ。
宰相の目が——今度こそ、緩んだ。口角ではなく、目が先に。
ヨハンが眼鏡を押し上げた。その手が、微かに震えていた——のは、見間違いかもしれない。
法廷が閉じた。
◇
廊下に出た。
石の階段を上がって、地上へ。冬の光。白い光。朝より少しだけ陽が高くなっていて、廊下の窓から光が差し込んでいる。
足を止めた。
壁際に——花があった。
白い花。一輪。小さな花瓶もない。壁の出っ張りの上に、そっと置かれている。
あの日と同じ。裁定会議の後の廊下に置かれていた白い花と、同じ花。
リンデンバートの丘に咲いていた花。あの人が押し花にして持っていた花。
手を伸ばした。指先が花弁に触れた。冷たい。でも——柔らかい。
誰が置いたかは聞かない。わかっている。わかっているけれど、確定させない。それが——あの人のやり方だから。物に託して、名前を書かない。菓子も、灯りも、照合済印も、花も。
花を手に取って、鞄の中に入れた。帳面の間に挟んだ。
そうだ。帳面。
法廷で返却された資料の束。ヨハンが「検証済み」として返してくれた書類。最終ページ。
めくった。
朱い印。
帝国監査局の照合済印。
あの予算審議会の時と同じ。あの裁定会議の時と同じ。資料の最終ページに、ひっそりと押された朱印。
距離を取ると言った。会わないと言った。手紙一文で。
でも——この印は、ある。ここに、ある。公的権限の範囲内で、手続きの枠の中で、仕事として押した印。
あの人は——離れていても、帳面の最後のページにいた。
指で印に触れた。朱い色が、冬の白い光の中でほんのりと温かく見えた。
(……ありがとう)
帳面を閉じた。花を挟んだページ。朱印のページ。全部、この帳面の中にある。
廊下を歩いた。文書管理室の方向へ。
表札のない扉——いや。
遠くに見えた。扉の横。木の板。
『文書管理室 室長 エステル・フォン・リヒター』
戻っている。
表札が、戻っている。
(……テオ)
あの子がやったに違いない。裁定の結果を聞いて、飛び出して、引き出しから表札を出して、掛け直したのだろう。即日復帰だとわかった瞬間に。
表札に手を伸ばした。指先で触れた。木の感触。角が丸い。毎朝触れていたから。
——ただいま。
声には出さなかった。出さなくてよかった。表札の温度が、指先から伝わってきた。それで十分だった。
扉を開けた。
テオが机の前に立っていた。目が真っ赤だった。鼻も赤い。袖が濡れている。
「おかえりなさい、室長」
声が震えていた。
「ただいま、テオ」
今度は声に出した。
テオが泣いた。声を上げて。「汗です」とは言わなかった。
鞄を机に置いた。帳面を出した。白い花が挟まったページ。朱印のページ。十年分の記録。
窓から冬の光が差し込んでいる。白い光。机の隅の白い熊が、光を受けて柔らかく輝いている。
——あの人がいなかったら。持ち帰っていなかった熊。テオが机に戻してくれていたのだろう。
帳面を引き出しにしまった。封筒が、まだ入っている。茶色い無地の封筒。あの日テオが渡してくれた、まだ開けていない封筒。
(……帰ったら、開けよう。今日は——まだ、仕事がある)
でも。もうすぐ。
全部終わったから。もうすぐ、開ける。
窓の外で、冬の空に雲の切れ間があった。薄い青。明日は晴れるかもしれない。




