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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第27話 父の名

 「前例がないことは、無効の根拠にならない」


 ヨハン・ブレヒトの声が、裁定の間に響いた。


 あの日と同じ台詞。


 恩暇を申請した朝。ヘルツが「前例がない」と退けようとした時、ヨハンが淡々と告げた言葉。あの小部屋で、分厚い眼鏡の奥から私を見て。


 今日——同じ言葉が、同じ声で、同じ抑揚で。


 「墨師による印影の経年変化鑑定は、本法廷で前例がありません。しかし、前例がないことは手法の有効性を否定する根拠になりません。鑑定結果の信頼性は、鑑定人の専門性と結果の整合性によって判断します。——鑑定を受理します」


 カルステンが立ち上がった。


 「異議を申し立てます。法務官は——」


 「異議は記録に留めます。審理は続行します」


 ヨハンの声は平坦だった。迷いがなかった。二日前の茶席で何があったかは知らない。でも——今日のヨハンの目には、揺らぎがなかった。法の番人の目だ。


 信じてよかった。



 墨師ヘルミーネが法廷に入ってきた。


 白い髪。丸い眼鏡。工房で会った時と同じ、飾り気のない姿。法廷という場所に臆する様子はない。四十年の経験が、あの小さな身体を支えている。


 ヘルミーネが証人席に着いた。宣誓。しわがれた声で、短く。


 「鑑定結果を述べてください」


 ヨハンの声。


 ヘルミーネが手元の鑑定書を広げた。


 「法務部から提出された原本を鑑定しました。対象は、七年前の日付が記された承認書の署名欄です」


 ルーペを取り出した。法廷で鑑定道具を使うのは異例だろうが、ヘルミーネは構わず承認書の原本を作業台に広げた。裁定官席に持ち込まれた小さな台。ランプの灯りを近づける。


 「まず、本文——決裁事項と処理内容を記した部分——のインクについて。酸化の度合い、紙への浸透の深さ、退色の具合。いずれも七年前に書かれたものと整合します」


 ヘルミーネがルーペを署名欄に移した。


 「次に、署名欄。『エステル・フォン・リヒター』と書かれた部分です」


 法廷が静まった。ランプの炎の音だけが聞こえる。


 「署名のインクは、本文のインクとは酸化度が明確に異なります。本文のインクは七年分の酸化が進んでいるのに対し、署名のインクは——」


 ヘルミーネが鑑定書のページをめくった。


 「酸化の進行度から推定して、書かれてから長くて半年。おそらくはここ数ヶ月以内です」


 数ヶ月以内。


 七年前の承認書に、数ヶ月以内に書かれた署名。


 「結論として。この署名は、文書の本体が作成された時点では存在しなかった。後日——それもごく最近——書き加えられたものです」


 偽造。


 帳面を握る手に、じわりと汗がにじんだ。


 わかっていた。最初からわかっていた。でも——専門家の口から、法廷で、裁定官の前で、明確に「偽造」だと証明されることの重みは、予想を超えていた。


 ランプの灯りが揺れた。石壁の影が動いた。


 カルステンが立ち上がった。声は——まだ、揺れていなかった。


 「墨師の鑑定手法に法的根拠がないという我々の主張は変わりません。インクの酸化度を判定基準とする鑑定は、この王国の法制度において正式に認められた手法ではない」


 「法務官としての見解を述べます」


 ヨハンが立ち上がった。


 「法制度が明示的に禁じていない手法を、法制度が認めていないという理由だけで排除することは、法の精神に反します」


 一拍。ヨハンの眼鏡の奥の目が、カルステンを見た。


 「法の番人として、事実を無視する自由は私にありません。——鑑定結果を採用します。本承認書の署名は偽造であると認定します」


 偽造認定。


 法廷に沈黙が降りた。重い沈黙。石の壁が、その重さを吸い込んでいく。


 ヘルツの顔から血の気が引いた。伏せていた目が見開かれて、カルステンの背中を見ている。期待ではなく——恐怖の目だった。



 沈黙を破ったのは、傍聴席からの声だった。


 「発言の許可を求めます」


 低い声。老いた声。でも——通る声。


 オルテア伯爵が立ち上がっていた。


 傍聴席の最前列。厳格な顔。灰色の髪。背筋はまっすぐだ。あの予算審議会で「弁明の機会を」と言った時の姿を思い出す。


 宰相が目を向けた。


 「傍聴席からの発言は、裁定官の許可を要する。——オルテア伯爵、発言の趣旨は」


 「証言の申し出です」


 法廷がざわめいた。傍聴席から証言の申し出。異例だ。


 宰相が一拍の間を置いて、頷いた。


 「許可する。証人席へ」


 オルテア伯爵が傍聴席から証人席に移った。宣誓。低い声で、はっきりと。


 「オルテア伯爵。証言の内容を述べてください」


 伯爵がまっすぐ前を向いた。裁定官席の宰相を見ている。——メリッサの方は見なかった。


 「娘——メリッサ・フォン・オルテアが、先の法廷で行った証言は虚偽です」


 メリッサの身体が揺れた。傍聴席の端で座っていたメリッサが、両手で椅子の縁を掴んだ。


 「カルステン弁護人が、裁定の数日前に我が家を訪れ、娘に証言の内容を指示しました。『リヒター書記官が帳簿を操作しているのを目撃した、と法廷で述べよ』と。娘は——この指示を、私に話しました」


 法廷の空気が変わった。カルステンの表情が——初めて、動いた。目が細くなった。唇が引き結ばれた。


 「なぜ、この事実をこれまで申告しなかったのかと問われるでしょう」


 伯爵の声は震えなかった。


 「恥ずかしながら、迷っていたからです。娘の罪を公にすれば、オルテア家の名はさらに傷つく。宮廷追放に加えて、偽証。——家名を守りたいと思う気持ちが、ありました」


 一拍。


 「しかし」


 伯爵の目が、一瞬だけ——私の方を見た。すぐに裁定官席に戻った。


 「先の予算審議会で、リヒター室長の十年分の帳面を拝見しました。あの記録を見た時——一人の人間が、十年間、誰にも評価されず、正当な報酬も得ず、名前すら記されないまま、これだけの仕事をしたのかと。あの数字の正確さと量は——嘘をつく人間のものではない」


 胸の奥が、きゅっと詰まった。


 「事実を知りながら黙ることは、嘘と同じです。——娘の証言は虚偽であり、弁護人カルステンの指示によるものです。これがオルテア家当主としての証言です」


 伯爵が着席した。


 法廷に、長い沈黙が落ちた。


 メリッサが——崩れた。


 椅子から滑り落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。肩が震えている。声は出ていなかった。音のない慟哭。


 あの裁定会議の日を思い出した。宮廷追放を言い渡された日。父に「家に帰りなさい」と告げられた日。あの時も、メリッサは音もなく泣いた。


 嘲笑しない。最初から、するつもりはなかった。


 帳面を膝の上で握った。きつく。ただ——数字が正しい場所に収まっていく感覚だけが、指先に伝わっていた。



 カルステンが立ち上がった。


 声は——まだ、揺れていなかった。この男の声が揺れたのを、私はまだ一度も見ていない。


 「裁定官に動議を提出いたします」


 宰相の目が、カルステンに向いた。


 「偽造承認書の件、およびオルテア証人の偽証の件については、弁護側として反論の余地がないことを認めます。——しかし」


 認めた。偽造も偽証も認めた。それでも——まだ、カルステンの口調には余裕があった。


 「本件の監査結果そのものの公正性について、未だ審理が完了していません。帝国監査局長グレイの越権行為は、先の法廷で弁護側が提起した論点であり、裁定官は『記録に留める』と判断されました。——この論点を、最終法廷で正式に審議することを求めます」


 レオンハルトへの攻撃。まだ、続ける気だ。


 「監査局長が調査対象に不当に介入した事実が存在する限り、この監査結果に基づく全ての告発には——根本的な瑕疵がある。最終法廷でこの点を審議し、裁定官が判断を下すことを求めます」


 宰相が沈黙した。


 ヨハンがカルステンを見ている。眼鏡の奥の目に——今度は、迷いではなく、何か別のものがあった。


 「動議を受理します。最終法廷にて審理します」


 宰相の声。


 カルステンが着席した。


 法廷が閉じた。


 (……まだ、終わっていない)


 偽造は砕いた。偽証は崩した。でも——カルステンの最後の矛先は、レオンハルトに向いている。



 法廷の外。石の階段を上がって、地上の廊下に出た。


 人が多かった。法廷の結果を聞きつけた宰相府の職員たちが、廊下に溢れている。ざわめき。視線。名前を呼ぶ声。——誰の名前かはわからない。


 テオが隣にいた。いつの間にか合流していた。


 「室長! 偽造証明、すごかったです! ヘルミーネさんの鑑定が——」


 「テオ、声が大きい」


 「すみません!」


 人混みの中を歩いた。文書管理室の方向へ。


 その時——


 肩が、誰かとすれ違った。


 廊下を歩く人の流れの中で、反対方向から来た人影。暗い紺の外套。一瞬だけ視界の端に映って、通り過ぎた。


 右手の甲に、温かさが触れた。


 指。長い指。私の手の甲を、ほんの一瞬だけ——掠めるように。握りもしない。絡めもしない。ただ、指先が手の甲の上を滑って、消えた。


 振り返った。


 紺の外套の背中が、人混みの中に消えていく。まっすぐな背中。あの夜、廊下で壁に背を預けていた時と同じ姿勢。


 テオが隣で首を傾げた。


 「室長。今、局長が何か言いましたけど……」


 「え?」


 「すれ違った時に。小さい声で——何か」


 聞こえなかった。


 人混みのざわめきと、自分の心臓の音が重なって、何も聞こえなかった。


 「……聞こえなかった」


 「そうですか。気のせいかな。——でも、なんか、局長の声にしてはやけに柔らかかった気がするんですけど」


 テオが首を捻っている。


 右手の甲に、まだ温かさが残っている。冬の廊下なのに。人混みの中の、一瞬の接触。あの祭りの夜に手を引かれた時とも、裁定の後に廊下で指先が触れた時とも違う。


 通り過ぎただけ。


 でも——通り過ぎざまに、確かに触れた。


 (……あの人は、会わないと言った。手紙で。一文だけで)


 会わない。二度と。この件が終わるまで。


 でも——すれ違うことは、禁じていなかった。


 廊下のざわめきが遠くなっていく。テオが何か話しているけれど、うまく聞こえない。


 右手の甲を左手で覆った。温かさを、逃がさないように。


 最終法廷。カルステンの動議。レオンハルトへの攻撃。


 まだ終わっていない。でも——手の甲が、温かい。


 (あの人が何を言ったか、聞こえなかった。——次は、聞く。必ず)


 表札のない扉の前を通り過ぎて、廊下の角を曲がった。冬の光が白い。


 右手の甲の温度だけが、帳面よりも確かに、ここにあった。

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― 新着の感想 ―
弁護人資格てあるんかな? あるとするならば剥奪案件であり、濫訴だと思うけど
 カルステン、本当に『法』で動いてるのか? ヘルツにいくら積まれたんだ? それとも私怨?
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