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社畜令嬢は有給休暇をご所望です!  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第26話 墨師

 インクの匂いは、年月で変わる。


 前世の監査対応研修。あの退屈な午後。講師が白髪の会計士で、眠そうな受講者たちの前で淡々と語っていた。「書類の偽造を見破る基本は、インクの経年変化です。書かれた直後のインクと、十年経ったインクでは、酸化の度合いが全く違います。日付が七年前でも、インクが新しければ——最近書かれたということです」


 あの時、私は一番前の席でノートを取っていた。周りの同僚は半分寝ていた。経理部の末端社員が監査研修なんて受けても意味がないと、みんな思っていた。


 ——意味はあった。二つ目の人生で。



 王都の東区画。宰相府から馬車で半刻。


 石畳の路地は狭く、建物が両側からせり出して空を塞いでいる。日当たりが悪い。看板が古びている。職人の街だ。


 「墨師」を探していた。


 法廷で鑑定請求をしたのが五日前。偽造承認書のインクの経年変化を調べてもらう必要がある。ヨハンは「鑑定は法務部の手配で行う」と言っていたけれど、法務部の手配を待つだけでは心許ない。自分でも専門家を見つけておきたかった。


 テオに聞いた。「王都に文書の真贋を鑑定できる人っている?」——テオが書記局の古参に当たってくれて、一つの名前が返ってきた。


 ヘルミーネ。東区画の路地裏に工房を持つ老齢の女性墨師。宮廷御用達ではないが、貴族間の文書紛争で何度も鑑定を依頼された実績があるという。


 路地の奥。小さな看板。『ヘルミーネ墨師工房 文書鑑定・修復・保存』。木の扉が色褪せていて、取っ手の金具が緑青を吹いている。


 ノックした。


 「開いてるよ」


 しわがれた声。低い。


 扉を押した。


 工房の中は薄暗かった。天井が低い。壁一面に棚があって、瓶が並んでいる。インク。染料。薬品。匂いが混ざり合って、鼻の奥にぴりっと来る。


 奥の作業台に、老女が座っていた。白い髪を無造作に束ねて、丸い眼鏡をかけている。手元にルーペ。目の前に広げた古い羊皮紙を覗き込んでいる。


 「ヘルミーネさんですか」


 「そうだよ。——あんた、誰だい」


 振り返りもしなかった。ルーペから目を離さないまま。


 「エステル・フォン・リヒターです。文書の鑑定を依頼したくて参りました」


 「リヒター? 聞いたことあるね。没落男爵家の——最近、宰相府で何やら騒ぎになってるとか」


 噂は早い。宮廷の外にまで届いている。


 「はい。その騒ぎの当事者です」


 ヘルミーネがようやくルーペを下ろして、こちらを見た。丸い眼鏡の奥の目。小さくて鋭い。鷹の目に似ている。


 「ほう。——で、何を見てほしいんだい」


 鞄から羊皮紙の写しを取り出した。法廷で提出された偽造承認書——の、ヨハンが許可した閲覧用の複写。原本は法務部が保管しているが、複写の閲覧と持ち出しは認められている。


 「この承認書の署名欄のインクを見てほしいんです。署名が書かれた時期と、文書本体の日付が一致するかどうか」


 ヘルミーネが羊皮紙を受け取った。作業台の上に平らに広げて、ルーペを当てた。


 「ふむ」


 長い沈黙。ルーペが紙面の上をゆっくり動く。署名の部分で止まった。


 「……あんた、このやり方をどこで知ったんだい」


 顔を上げた。丸い眼鏡の奥の目が、私を見ている。


 「インクの酸化度で書かれた時期を特定する。——この手法を知っている人間は、王都にも片手で足りるよ。あんた、墨師の弟子だったかい」


 「いいえ。……昔、教わりました」


 嘘ではない。前世の講師に教わった。この世界の人間には教わっていないけれど。


 ヘルミーネがしばらく私の顔を見て、それから鼻を鳴らした。


 「まあいい。誰に教わったかは聞かないよ。——で、この複写だけじゃ正確な鑑定はできない。原本が要る。インクの実物を見ないと、酸化度は測れない」


 「原本は法務部が保管しています。法廷の鑑定手続きとして、法務部から原本の提出を受けられますか」


 「法務官の許可があれば、うちに持ち込んでもらえるさ。——許可は取れるのかい?」


 「鑑定請求は既に受理されています。あとは法務官が鑑定人を指定すれば」


 「ふん。じゃあ、この複写は預かっておく。原本が来たら本鑑定に入る。結果は——そうだね、原本を見てから一日あれば出せる」


 一日。


 早い。


 「ただし」


 ヘルミーネがルーペを置いた。


 「複写の段階で一つだけ言えることがある」


 身を乗り出した。


 「この署名のインクは——本文のインクと、色が微妙に違う。肉眼じゃわからない程度の差だけどね。ルーペで見ると、署名の方がわずかに黒が深い。酸化が進んでいない可能性がある」


 息を吸った。


 「つまり——署名の方が、本文より新しい?」


 「あくまで複写からの所見だよ。原本を見ないと断定はしない。——でも、あたしの四十年の経験で言えば」


 ヘルミーネが眼鏡を押し上げた。


 「この署名は、本文が書かれたのと同じ時期には書かれていない。後から書き加えられた可能性が高い」


 後から書き加えられた。


 ——偽造の、最初の裏付け。


 「ヘルミーネさん。原本の鑑定、お願いします」


 「引き受けたよ。——あんた、面白い依頼人だね。墨師に仕事を頼みに来る若い娘なんて初めてだ」


 「面白くないです。必死なだけです」


 ヘルミーネが笑った。皺だらけの顔に、不意に温かい笑みが浮かんだ。


 「必死なのが面白いって言ってるんだよ。——行きな。結果は、原本が届き次第だ」



 同じ日の夕方。宰相府の小さな茶室。


 ヨハン・ブレヒトは茶杯を持ったまま、向かいに座る男を見ていた。


 カルステン・フォン・メーア。旧知の仲。法務部で同期だった頃からの付き合いだ。カルステンが副部長まで昇進し、その後弁護人に転じてからも、年に数回は茶を共にしていた。


 「ヨハン」


 カルステンの声は柔らかかった。法廷で三段論法を展開する時の硬い声とは違う。旧友に語りかける声。


 「リヒターの鑑定請求——お前が受理した」


 「法務官として、請求権のある手続きを棄却する理由がなかった」


 「理由はあるさ」


 カルステンが茶杯を置いた。


 「インクの酸化度による鑑定は、この王国の法廷で一度も使われたことがない。前例がない手法を法務官が受理すれば、それ自体が前例になる。法の権威が揺らぐぞ」


 ヨハンは答えなかった。茶杯の中の液面を見つめている。


 「お前は法の番人だ。法を守る側の人間だ。——前例のない手法を認めるということは、今後、誰でも好き勝手な鑑定手法を持ち込めるということになる。法廷の秩序が崩れる」


 「……秩序」


 「そうだ。秩序だ」


 カルステンが身を乗り出した。


 「リヒターは聡い女だ。没落男爵家の小娘が、誰も知らない鑑定手法を持ち出してきた。どこで学んだのかもわからない。——お前は、出所不明の手法を法廷に持ち込むことを認めるのか?」


 ヨハンの指が、茶杯の縁をなぞった。


 出所不明。確かに、リヒターが「昔、教わった」としか言わないこの手法の出自は不明だ。法務官として、出所の確認を求めることはできる。


 しかし——手法そのものが有効かどうかは、出所とは別の問題だ。墨師が鑑定を行い、結果が出れば、手法の有効性は実証される。


 「カルステン」


 「何だ」


 「お前は——法の条文を守りたいのか。それとも、法の精神を守りたいのか」


 カルステンの目が細くなった。


 「条文と精神は同じものだ」


 「本当にそう思うか」


 沈黙が落ちた。茶室の小さな窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。


 ヨハンは茶杯を置いた。


 あの日——十年前。功労恩暇の条文を審査した時のことを思い出していた。リヒターが恩暇を申請して、ヘルツが「前例がない」と退けようとした。自分は条文を確認し、「前例がないことは、無効の根拠にならない」と言った。


 前例がないこと。


 あの日、法の側に立ったのは——条文を守ったからではない。条文の奥にある、権利を守ったからだ。


 「……鑑定の受理は、撤回しない」


 声に出した。


 カルステンの表情が一瞬だけ動いた。目の奥に、冷たいものが走った。すぐに消えた。


 「そうか。——お前の判断だ。尊重するよ」


 柔らかい声。でもその柔らかさの下に、硬いものがある。ヨハンにはわかった。同期だったから。この男の柔和さが、何を隠しているか。


 カルステンが立ち上がった。


 「茶をありがとう、ヨハン。——次は法廷で会おう」


 靴音が遠ざかっていった。


 ヨハンは茶室に一人残って、冷めた茶を飲み干した。


 眼鏡を外した。目を閉じた。


 (……リヒターは、法の番人を信じると言うだろうか)


 信じてもらえるかどうかは、結果で示すしかない。


 眼鏡をかけ直した。立ち上がった。法務部の執務室に戻る。明日、墨師への原本引き渡しの手続きを始めなければならない。



 官舎の部屋。


 蝋燭に火を灯した。帳面を開いて、今日の記録を書き加えた。


 『墨師ヘルミーネに鑑定依頼。複写段階の所見:署名インクの酸化度に本文との差異あり。原本鑑定で確定予定』


 ペンを置いた。


 窓の外は暗い。星は——今夜は少しだけ見えた。薄い雲の切れ間から、二つ三つ。リンデンバートの星空には遠く及ばないけれど。


 枕元の白い熊。首の紐。あれから三日経つけれど、ほどいていない。


 (あの人は今、何をしているだろう)


 一行だけ、頭の中を横切った。すぐに消した。今は考えない。考える余裕がない。


 鑑定結果がどう出るか。ヨハンが受理を維持してくれるか。カルステンが次にどんな手を打ってくるか。


 全部、わからない。自分の手で動かせるのは、帳面と、前世の知識と、墨師への依頼だけ。


 あとは——信じるしかない。


 ヨハンを。法の番人を。あの分厚い眼鏡の奥の、一切の私情のない目を。


 あの人は——恩暇の申請を受理してくれた。筆跡鑑定を執行してくれた。偽造承認書の鑑定請求を受理してくれた。全部、法の側に立って。


 「……信じる」


 声に出した。暗い部屋で。蝋燭の灯りだけが揺れている。


 帳面を閉じた。ペンを拭いて、インク壺の蓋を閉めた。


 蝋燭の芯を絞る前に、もう一度だけ枕元を見た。


 白い熊。首の紐。ふわふわの毛並みが、炎の光を受けて、柔らかい影を壁に落としている。


 祭りの夜。射的の音。花火。人混みで引かれた手。


 (——全部終わらせたら)


 灯りを消した。


 暗い部屋の中で、目を閉じた。明日から、法廷が再開する。墨師の鑑定結果が揃えば、偽造承認書を砕ける。


 数字は嘘をつかない。インクも——嘘をつかない。


 そして法の番人は——


 信じる。

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― 新着の感想 ―
“あの日——十年前。功労恩暇の条文を審査した時のことを思い出していた。リヒターが恩暇を申請して、ヘルツが「前例がない」と退けようとした。”とありますが、十年前? せいぜい数か月前だと思われますが?
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