第23話 偽証
蜂蜜の匂いが、朝の執務室に漂っていた。
文書管理室の扉を開けた瞬間に気づいた。甘くて、少しだけ香ばしい、胡桃を焦がした匂い。
机の上に、茶色い紙包みがあった。
紐で結ばれた、手のひらサイズの包み。宰相府の公用封筒ではない。店の包装紙でもない。ただの茶色い紙。差出人の名前はどこにもない。
でも——知っている。
この匂いを知っている。この包み方を知っている。リンデンバートの菓子屋から王都まで取り寄せた、蜂蜜と胡桃の焼き菓子。
(……あの人は、どうやって文書管理室に入ったんだろう。テオに頼んだのかな。それとも、夜のうちに——)
廊下の油の消費量が倍だった、とテオが言っていた。
まさか。
いや、今は考えない。今日は法廷二日目だ。
紐をほどいた。焼き菓子が三つ。あの温泉街の屋台で買った時と同じ、少し不揃いな形。一つ手に取って、かじった。
甘い。
「……おいしい」
声に出したら、目の奥がじわりと温かくなった。泣きそうだったわけじゃない。たぶん。ただ——この甘さを、今ここで味わえることが。
残り二つを紙に包み直して、引き出しにしまった。封筒の隣に。
口の中に蜂蜜の余韻を残したまま、帳面を鞄に入れた。
法廷に行く。
◇
裁定の間。地下一階。石の壁。ランプの灯り。
三日前と同じ場所。同じ椅子。膝の上の帳面。——ただし今日は、口の中に蜂蜜の味が残っている。
カルステンが立ち上がった。
「弁護側より、証人を申請いたします。メリッサ・フォン・オルテア」
法廷の扉が開いた。
メリッサが入ってきた。
宮廷追放後、初めて見る顔。以前の華やかさは影を潜めていた。化粧は最低限。髪は簡素にまとめてある。服も地味な——それでも仕立ての良い、伯爵家の令嬢にふさわしい紺のドレス。
(……「可哀想な令嬢」を演じるのに、ちょうどいい装い)
メリッサが証人席に着いた。目が一瞬だけ私を見て、すぐに逸れた。
宣誓。「真実を述べることを誓います」——その声が、ほんのわずかに震えていたのを聞き逃さなかった。
カルステンが問いかけた。
「オルテア書記官。あなたは書記局在籍時、リヒター書記官が帳簿を操作する場面を目撃したことがありますか」
メリッサが頷いた。
「はい。——七年前の冬。夜の九時頃だったと思います。私は残務処理のために書記局に戻りました。執務室の灯りがついていたので覗くと、リヒター書記官が一人で帳簿に向かっていました」
淡々とした声。感情を抑えた、落ち着いた口調。社交界で鍛えた話し方。
「リヒター書記官は外交接待費の帳簿を開いていました。伝票を一枚ずつ確認しながら、数字を書き直しているように見えました」
法廷の空気が動いた。裁定官席の宰相が、微かに目を細めた。
「書き直している、とは具体的にどのような動作でしたか」
「ペンを持って、帳簿の数字の上からなぞるように。消して書き直すというよりは、上書きするような動作です」
上書き。帳簿の数字の上書き。
(——嘘よ)
喉の奥がきゅっと詰まった。怒りではない。もっと冷たいもの。七年前の冬の夜九時。私は確かに書記局にいた。毎日、夜遅くまで残って仕事をしていた。帳簿に向かっていたのも事実だ。
でも——「数字を書き直す」なんて、していない。帳簿の照合と翌日の準備をしていただけだ。
嘘と真実を混ぜている。一番厄介な偽証のやり方。「書記局にいた」は事実。「帳簿に向かっていた」も事実。「数字を書き直していた」だけが嘘。
「証人リヒターに反証の機会を与える」
宰相の声。
立ち上がった。帳面を開いた。
冷静に。数字で語る。感情は後でいい。
「メリッサさん。あなたの証言する日時——七年前の冬、夜九時頃——について、確認させてください」
メリッサの肩が、微かに強張った。
「あなたは『残務処理のために書記局に戻った』とおっしゃいました。——ところで、書記局の出勤記録によると、当該日のあなたの退勤時刻は午後五時です」
帳面のページを開く。七年前の冬。十二月。
「私の業務記録にも、同日のあなたの退勤を確認した記述があります。『メリッサ書記官、本日午後五時退勤。早退ではなく定時』。——午後五時に退勤して、夜九時に書記局にいるというのは、四時間のあいだにどこにいらしたのですか?」
メリッサの目が泳いだ。
ほんの一瞬。まばたき二回分。でも——法廷では、一瞬が命取りになる。
「それは——」
「加えて」
畳みかけた。
「書記局の夜間入退室記録を照合していただければわかりますが、午後六時以降に書記局に入室した記録があるのは、当日は私だけです。あなたの名前は——ありません」
メリッサの唇が白くなった。
法廷に沈黙が落ちた。
ヨハンが手元の記録簿を開いた。ページをめくる音だけが響く。
「……夜間入退室記録を確認しました。当該日の午後六時以降、書記局への入室記録はリヒター書記官の一名のみです。オルテア書記官の記録はありません」
メリッサの手が、膝の上で握りしめられた。
——詰んだ。普通なら。
でも。
「異議があります」
カルステンの声。揺れていない。三日前と同じ、よく通る声。
速い。反論が速すぎる。用意していたかのように。
「夜間入退室記録は、正門からの入退室を記録するものです。書記局には、正門以外に裏口が一箇所あります。書類搬入用の通用口です。通用口には入退室の記録装置はありません」
カルステンが裁定官席に向き直った。
「オルテア証人が通用口から入局した場合、正門の記録に残らないのは当然です。——オルテア証人、あなたは通用口から入りましたか」
メリッサの目が——カルステンを見た。
一瞬。合図のような一瞬。
「……はい。正門が閉まっていたので、通用口から入りました」
声が小さかった。でも——言い切った。
(嘘を重ねたわね)
帳面を握る手に、力がこもった。
通用口の存在は事実だ。書類搬入用の扉。鍵はかかるが、当時の鍵管理は杜撰だった。物理的には入れなくはない。
でも——それを証明する手段も、否定する手段もない。通用口に記録はない。「入った」と言われれば、「入らなかった」とは言い切れない。
法の隙間。灰色の領域。
カルステンはここを狙っていた。最初から。メリッサの証言が出勤記録で崩されることを想定して、通用口という逃げ道を用意していた。
「法務部の見解を述べます」
ヨハンの声。
「通用口からの入退室は記録が存在しないため、入局の事実を確認することも否定することもできません。——本証言は、信頼性に疑義があるものの、完全には棄却できないと判断します。留保とします」
留保。
崩しきれなかった。
でも——「信頼性に疑義がある」。ヨハンはそう言った。法の番人の口から「疑義」という言葉が出た。それは、完全な勝ちではないけれど——負けてもいない。
メリッサが証人席から立ち上がった。膝が微かに震えているのが見えた。
目が合った。
一瞬だけ。メリッサの目の中に、何かが揺れていた。恐怖か、罪悪感か、あるいはその両方か。
(……あなたは、自分で望んでここに来たの? それとも——)
視線が外れた。メリッサが法廷の扉に向かって歩いていく。背中が小さく見えた。
あの裁定会議の日——宮廷追放を言い渡された日の、父親に「家に帰りなさい」と言われて涙を流したメリッサの顔が、ふっと浮かんだ。
嘲笑する気はない。最初から。
でも——嘘は嘘だ。数字は嘘をつかない。記録は嘘をつかない。
帳面を閉じた。
今日は、五分五分。
次は——あの署名を、砕く。
◇
裁定法廷の外。石の廊下。
メリッサ・フォン・オルテアは、壁に背をつけて立っていた。
脚が震えている。膝に力が入らない。両手を握りしめて、石壁の冷たさを背中で感じて、それでも震えが止まらなかった。
(嘘をついた)
宣誓の上で。法廷で。真実を誓った直後に。
通用口から入った。——入っていない。あの夜、書記局には戻っていない。午後五時に退勤して、そのまま官舎に帰った。エステルが夜遅くまで帳簿に向かっていたことは知っている。毎日そうだったから。でも——「数字を書き直している」なんて、見ていない。
カルステンに言われた通りに喋っただけ。
裁定の三日前。カルステンがオルテア家に来た。父は不在だった。応接間で向かい合って、茶も飲まずに、あの男は淡々と言った。
『あなたの証言が必要です。リヒター書記官が帳簿を操作しているのを目撃した、と。日時は七年前の冬の夜。詳細は私が用意します』
断れなかった。
宮廷追放。匿名告発の失敗。父に切り捨てられかけた屈辱。——そして、カルステンが差し出したもう一枚の紙。
『ヘルツ元次長の弁護に協力いただければ、宮廷復帰の推薦を検討する用意があります』
推薦。宮廷復帰。失ったものを取り戻せるかもしれないという、一筋の光。
——偽りの光だと、わかっていた。カルステンにそんな権限はないかもしれない。でも、溺れかけた人間は藁でも掴む。
法廷で、エステルの目を見た。
あの目。冷静で、まっすぐで、怒っていなかった。怒ってくれた方がまだ楽だった。あの人は怒りの代わりに数字を突きつけてくる。出勤記録。入退室記録。帳面。
全部、正しい。
正しいのは——あの人の方だ。
それを知っていて、嘘をついた。
壁に背を預けたまま、天井を見上げた。石の天井。ランプの灯り。
(……引き返せない)
もう、引き返せない。宣誓の上で嘘をついた。撤回すれば偽証罪。宮廷追放どころか、禁固刑だ。
震える手を、ドレスの中で握りしめた。
廊下の向こうから、カルステンの靴音が近づいてくる。規則正しい、硬い音。
「よくやりました、オルテア嬢。——次の法廷までに、もう一つ確認しておきたいことがあります」
まだ終わっていない。
この人は——まだ、私を使うつもりだ。
靴音が遠ざかっていく。メリッサは壁から背を離せないまま、冷たい石の廊下に一人、立っていた。




