第22話 出勤記録
「リヒター書記官は共犯であり、ヘルツ元次長は利用された被害者である」
裁定法廷の石壁に、男の声が反響した。
低くもなく高くもない、よく通る声。法の条文を読み上げるのに最も適した声。感情がない——というよりも、感情を必要としていない声だった。
カルステン・フォン・メーア。ヘルツの弁護人。五十代半ばの痩せた男で、灰色の髪を後ろに撫でつけ、目が細い。分厚い書類の束を片手に、もう片方の手は背に回している。
裁定の間。宰相府の地下一階。石造り。窓はない。ランプの灯りだけが、低い天井を黄色く照らしている。正面に裁定官席——宰相ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタインが座っている。左に法務部。右に弁護側。中央の証人席に、私がいる。
被疑者側証人席。
(……前世の言い方だと「参考人」ってやつかな。手錠はないけど、居心地は最悪)
椅子は硬い。背もたれが低い。膝の上に帳面を置いている。十年分の業務記録。角がすり切れた革表紙。この帳面を持ってここに来た。二日前、表札を外された朝に覚悟を決めた通り。
カルステンが歩き始めた。証人席の前を、ゆっくりと横切る。靴音が石の床に響く。
「第一に、書記局の帳簿を独占管理していたのは、エステル・フォン・リヒター書記官です。これは先の監査報告で確定している事実であり、異論の余地はありません」
ランプの炎が揺れた。石壁に影が動く。
「第二に、三重保管体系——帳簿の原本・副本・控えを三箇所に分離保管するシステム——を構築したのも、リヒター書記官です。このシステムを完全に理解し、操作できる人間は、構築者本人だけです」
隣の召喚席にヘルツが座っている。
痩せた。頬がこけて、目の下に影がある。あの柔和な笑みはどこにもない。でも——代わりに、別の表情がある。目を伏せて、手を膝の上で組んで、小さく肩を丸めている。
被害者の顔。
(……上手いわね。あの人、昔からそうだった。空気を読んで、その場に最適な顔を作る)
「第三に、ヘルツ元次長は帳簿の仕組みを理解していませんでした。リヒター書記官が構築した独自のシステムは、他の誰にも引き継がれておらず、リヒター書記官の不在時に書記局が機能不全に陥ったことが、その証左です」
カルステンが足を止めた。裁定官席に向き直る。
「以上の三点から、本件の横領はリヒター書記官が帳簿を操作して主導し、ヘルツ元次長は帳簿の数字を確認する能力を持たないまま決裁印を押していた——すなわち、利用されていた被害者であると主張いたします」
三段論法。
①独占管理は事実。②構築者だけが操作可能。③ヘルツは仕組みを知らなかった。
論理は綺麗だ。隙がないように聞こえる。前世の経理部にいた頃、監査法人の弁護士が似たような組み立て方をしていたのを思い出す。論点を三つに絞って、各論点を事実で裏付けて、結論を導く。教科書通りの弁論。
——でも。
教科書通りの弁論には、教科書通りの弱点がある。
「証人リヒターに発言を許可する」
宰相の声。平坦。裁く者の声。
立ち上がった。帳面を手に取った。
「カルステン弁護人の第一の主張——帳簿の独占管理——について、反論いたします」
カルステンの目が、初めて私を見た。細い目の奥に、値踏みするような光がある。没落男爵家の小娘がどう出るか見てやろう、という目。
帳面を開いた。付箋のついたページ。
「横領が行われたとされる四半期末の伝票処理——具体的には、外交接待費への上乗せ——の日時をご確認ください。弁護側の主張書に記載されている日時は、最初の事例として九年前の第三四半期末、午後二時から四時の間です」
帳面のページを裁定官席に向けた。
「私の業務記録によると、当日の午後一時半から四時半まで、私は外務局への定例書簡配達に出ています。外務局の受付で押された受領印がここにあります。時刻は午後一時五十分。配達から書記局に戻った記録は門衛帳簿に残っており、帰着時刻は午後四時四十分です」
紙の上の数字。九年前のインクが少し褪せているけれど、数字は読める。受領印の朱色も残っている。
「午後二時から四時の間、私は書記局にいませんでした。帳簿を操作する物理的な手段がありません」
カルステンの目が、一瞬だけ動いた。帳面を見て、私を見て、裁定官席を見た。
「……一例に過ぎない。他の四半期末についても同様のアリバイが成立するのか」
「はい」
帳面をめくった。付箋が並んでいる。
「九年間分——三十六回の四半期末のうち、伝票処理が行われたとされる時間帯に、私が書記局内で帳簿に向かっていた記録は一度もありません。全て外務局配達、宰相府への報告書提出、あるいは他部署との照合作業に出ていました。全件に配達受領印、門衛記録、相手方の確認印のいずれかが残っています」
法廷に沈黙が落ちた。
ランプの炎が揺れる。石壁の影が動く。
ヨハン・ブレヒトが立ち上がった。分厚い眼鏡。淡々とした声。
「法務部として照合を行います。——リヒター書記官、帳面を提出してください」
帳面を渡した。ヨハンがページをめくり、門衛帳簿の写しと突き合わせていく。
時間が過ぎた。どれくらいだろう。五分か、十分か。ランプの油が微かに減るのが見えるくらいの時間。
「……照合が完了しました」
ヨハンが顔を上げた。
「三十六件中、三十六件全てにおいて、リヒター書記官の不在が裏付けられました。配達受領印の日時と門衛記録の帰着時刻が一致しています」
三十六件中、三十六件。
全部。
前世で叩き込まれた癖——毎日の業務を記録すること、受領印を必ず押してもらうこと、自分の行動を自分で証明できるようにしておくこと。あの頃は「几帳面すぎる」と笑われた。誰も見ない記録をつけて何になる、と。
(——九年越しに、役に立った)
カルステンの表情は変わらなかった。細い目。撫でつけた灰色の髪。背に回した手。——ただし、その手の指先が、微かに動いた。組み直した。
崩れてはいない。でも——一つ目の柱に、亀裂が入った。
◇
カルステンは動じなかった。
少なくとも、そう見えた。
「第一の論点については留保とし、第二の論点に移ります」
声に乱れはない。老練。この人は、論点の一つが崩れることを想定していたのかもしれない。三段論法の一本目が折れても、二本目と三本目で支える構えだ。
「弁護側より、追加の物的証拠を提出いたします」
カルステンが書類入れから、一枚の羊皮紙を取り出した。
「これは、書記局の内部決裁において使用された承認書です。日付は七年前。外交接待費の四半期処理に関する承認——そして、ここに署名があります」
羊皮紙が裁定官席に渡され、宰相が目を通し、ヨハンに回された。ヨハンが確認し——私の前に差し出された。
一枚の紙。
上部に決裁事項。中央に処理内容。下部に署名欄。
署名欄に、名前が書いてあった。
『エステル・フォン・リヒター』
息が止まった。
筆跡。見覚えのある——いや。見覚えのありすぎる筆跡。私の字だ。「エ」の払いの癖。「ル」の丸め方。「リ」の角度。全部、私の書き方に見える。
でも——書いた覚えがない。
七年前の外交接待費の承認書。この紙に署名した記憶がない。あの頃、承認権限は次長のヘルツにしかなかった。私は処理担当であって、承認者ではなかった。
(偽造だ)
即座にわかった。
前世の監査で見たことがある。筆跡を模倣した署名偽造。上手い。非常に上手い。ぱっと見では本物と区別がつかない。
でも——偽造には必ず痕跡がある。筆圧。インクの載り方。そして——
(インクの経年変化)
前世の監査対応研修。講師が言っていた。「インクは時間とともに酸化して色が変わる。七年前に書かれた署名と、最近書かれた署名では、インクの酸化度が違う。これを見れば、署名がいつ書かれたかがわかる」
今はまだ、証明できない。肉眼では判別が難しい。専門家が必要だ。
「リヒター書記官。この署名に覚えはありますか」
ヨハンの声。
顔を上げた。
「この署名は私のものではありません」
カルステンが口を開きかけた。
「——鑑定を請求します」
先に言った。カルステンの言葉を遮る形になったけれど、構わない。ここは法廷だ。
「この署名が本物か偽造か、専門の鑑定で判定していただきたい。インクの状態、筆圧、紙の繊維への浸透——全て確認すれば、いつ書かれた署名かがわかります」
カルステンの目が、初めて少し細くなった。
「……鑑定を請求する権利は認めますが、結果が出るまでに時間がかかる。その間、この承認書は有効な証拠として留保されるべきです」
「法務部として、鑑定請求を受理します」
ヨハンの声は淡々としていた。
「鑑定の結果が出るまで、本証拠は留保扱いとし、最終判断を保留します。——次回の法廷で鑑定結果を審理します」
承認書がヨハンの手元に収められた。
私の名前が書かれた、偽物の署名。
(……七年前の偽造。誰が、いつ作ったのか。ヘルツ本人か、それとも——)
考えを巡らせかけて、止めた。今は推測ではなく、証拠で語る場だ。鑑定結果が全てを明らかにする。
帳面が返却された。受け取って、膝の上に戻す。革の表紙の手触り。十年分の重さ。
一つ崩して、一つ凌いだ。
まだ終わっていない。
◇
法廷を出た。
地下から地上へ、石の階段を上がる。冬の光が目に刺さった。地下のランプの光に慣れた目には、白い日差しがやけに眩しい。
文書管理室に寄った。表札のない扉。壁の四角い跡。
扉を開けると、テオが机の上に書類を広げていた。私の留守中、業務代行をしてくれている。
「室長!」
椅子から跳ね上がった。
「法廷、どうでしたか」
「一つ崩して、一つ保留」
「一つ崩した!?」
テオの顔がぱっと明るくなった。「やっぱり室長の帳面は最強です!」
(最強って。武器じゃないんだけど)
でも——まあ、武器かもしれない。この帳面は。
「テオ。引き継ぎの進捗は?」
「順調です! 照合表の通りにやってます。あ、それとですね——」
テオが手元の紙をめくった。
「廊下のランプの油、またおかしいんです」
「おかしい?」
「消費量が倍なんです。文書管理室の廊下だけ。他の廊下は正常で、ここだけ異常に減ってて」
「管理部門の補充ミスじゃないの?」
「いや、管理部門に確認したんですけど、補充量は一定で——」
「じゃあ、管理部門にもう一回言っておいて。古いランプかもしれないし」
テオの口が一度開いて、閉じた。何か言いかけて、飲み込んだ顔。
「……はい」
「ありがとう。——じゃあ、帰るわ。明日また法廷の準備がある」
鞄を肩にかけた。帳面の重さが、肩に食い込む。
扉を閉める。表札のない扉。
廊下を歩く。冬の白い光が窓から差し込んでいる。
ふと——足元を見た。廊下のランプ。確かに、硝子の中の油が少ない。昨日の夕方に見た時より、明らかに減っている。
(……管理不備って言ったけど、テオの報告だと「文書管理室の廊下だけ」なのよね)
不思議だ。でも今は、偽造承認書の方が優先度が高い。油のことは後でいい。
階段を下りて、官舎への道を歩く。
鞄の中の帳面。膝の上で開いたページ。三十六件中、三十六件。
(前世の私がつけた癖が、今世の私を救った。——なら、次も。前世の知識で、あの偽造を暴く)
印影の経年変化。インクの酸化度。前世の監査研修で聞いた講義。あの退屈な午後の研修が、まさかこんな形で役に立つとは。
官舎の窓に、夕焼けの光が映っている。あのリンデンバートの丘から見た夕焼けと、同じ色。
引き出しの中の封筒は、まだ開けていない。
でも——今日、帳面が一つ勝った。だから明日も、帳面で勝つ。
あの署名は、私のものじゃない。
数字と、紙と、インクが——証明してくれる。




