第21話 切符と容疑
休暇の荷造りは、前世でも今世でも下手だった。
着替えを鞄に詰めて、出して、たたみ直して、また詰める。王都から馬車で五日。あの時と同じ距離。でも今回は、鞄の中身がちょっとだけ違う。
前回は帳面と路銀と着替えだけだった。
今回は——白い熊のぬいぐるみが、鞄の上に鎮座している。入れるか迷っている。二十五歳の宮廷官僚が旅行にぬいぐるみを持参するのは、前世の基準で言えば完全にアウトだ。
(……いや、この世界に「大人がぬいぐるみを持ち歩いたら恥ずかしい」って常識、あるのかな)
ないかもしれない。あってもいい。休暇中に誰に見られるわけでもないし。
熊を鞄にねじ込んだ。
文書管理室の朝は静かだった。窓から差し込む冬の白い光。テオはまだ来ていない。出発は明後日の朝。今日と明日で引き継ぎを済ませれば、あとは——。
あとは、あのベンチに座るだけ。
二人で。
考えただけで耳の先が熱くなるのは、暖房が効きすぎているせいだ。たぶん。
◇
「おはようございます、室長!」
テオが扉を蹴り開けるように入ってきた。この子はいつまでたっても扉の扱いが荒い。三年教えても直らないものは直らない。
「おはよう、テオ」
「あの、これ——」
テオが差し出したのは、薄い封筒だった。宰相府の用紙ではない。茶色い無地の封筒。封蝋もない。
「局長殿から預かった書類なんですけど」
「局長殿?」
「はい。昨日の夕方、俺が帰る時に廊下ですれ違って。『リヒター室長に渡してくれ』と」
封筒を受け取る。軽い。書類にしては薄い。
「あの……」
テオが口ごもった。栗色の頭がわずかに俯く。
「業務書類とは、言われなかったんですけど」
「ん?」
「なんていうか……渡す時の局長の顔が、いつもと違ったっていうか。眉間の皺がなかったっていうか——」
「テオ」
「はい」
「引き継ぎ書類、始めるわよ」
「あ、はい!」
封筒を引き出しにしまった。業務書類でも私信でも、出発前に目を通せばいい。今は引き継ぎが先だ。
テオが何か言いたそうな顔をしていたけれど、帳簿を渡したら黙って机に向かった。
◇
引き継ぎは順調だった。
処理手順の一覧、保留案件のリスト、外務局への連絡事項。テオは三年かけて叩き込んだ分類法則をちゃんと使えるようになっている。二週間の不在くらいなら——いや、大袈裟か。有給は五日間だ。マルタさんの宿に三泊して、温泉に入って、ベンチに座って、帰ってくる。
(五日間。たった五日間なのに、こんなにわくわくしてるの、おかしいでしょ)
前世では有給を一度も使わなかった。今世でも、恩暇を取るまで十年間休んだことがなかった。「何もしない五日間」が待っているだけで、朝から妙にそわそわしている。
——それだけじゃない。
隣に、あの人がいる。あのベンチの、右端に。
鞄の中の白い熊が、引き出しの中の封筒が、どちらも同じ人に繋がっている。
そんなことを考えていた、十時過ぎだった。
扉が叩かれた。二回ではなかった。一回。短く、硬い音。
——嫌な予感がした。
開けると、法務官ヨハン・ブレヒトが立っていた。
分厚い眼鏡。一切の私情のない目。あの日——恩暇を申請した朝と同じ顔。
ただし、手に持っているのは条文ではなかった。宰相府の朱印が押された、薄い紙。
「リヒター室長」
淡々とした声。
「本日付で、ヘルツ元次長の刑事裁定法廷において、弁護人カルステン・フォン・メーアが以下の主張を正式に提出しました」
ヨハンが紙を開いた。読み上げる声に、抑揚はない。
「『書記局における外交接待費の横領は、ヘルツ元次長の単独犯行ではなく、帳簿を独占管理していたリヒター書記官が主導したものである。ヘルツ元次長は帳簿の仕組みを理解しておらず、リヒター書記官に利用されていた被害者である』——以上」
音が消えた。
文書管理室の窓から差し込む白い光。テオが椅子から立ち上がる気配。引き出しの中の封筒。鞄の中の白い熊。
全部が、遠くなった。
「共犯容疑が正式に提起された以上——」
ヨハンの声が続く。
「宰相府規定に基づき、裁定までの間、室長職を一時停止いたします」
(——ああ。また、か)
表札。
あの木の表札。毎朝、指先で触れていた。角が丸くなるまで。
ヨハンが扉の横に手を伸ばした。表札を外す。木が壁から離れる時、かすかな音がした。
ことり。
小さな音。でも——胸の奥では、もっと大きな音がした。
テオが何か叫んだ。「そんなの嘘です」とか「室長は何もしていません」とか。声が遠くて、よく聞こえなかった。
ヨハンが表札を自分の手元に収めた。
「職務権限の停止であり、身分の剥奪ではありません。俸給は継続されます。裁定で容疑が晴れれば、即日復帰となります」
法の番人。それ以上でもそれ以下でもない。前にもそうだった。恩暇の条文を認めた時も、ヘルツの功績横取りを暴いた時も。この人は法の側にだけ立つ。
「……わかりました」
声が出た。自分の声だった。
表札があった場所に、四角い壁の跡が残っていた。日焼けしていない壁の色。白いままの、四角い空白。
指先で、その跡に触れた。
木の感触はなかった。冷たい壁だけが、指の腹に伝わった。
◇
ヨハンが退室した後、テオが机に拳を叩きつけた。
「嘘です! あんなの全部嘘です! 室長が横領なんてするわけ——」
「テオ」
振り返った。テオの目が赤い。いつもの赤さとは違う。怒りの赤。
「鞄を取って」
「……え?」
「机の下の鞄。取ってちょうだい」
テオが黙って鞄を引き出した。旅行用の鞄。中に白い熊と着替えが入っている。
鞄を受け取って、中身を出した。着替えを机に置く。熊をテオの机の上にそっと立てる。テオが目を丸くしている。
そして——空になった鞄に、引き出しから帳面を取り出して入れた。
十年分の業務記録。毎日の処理内容、書類番号、作成した文書の控え。前世の経理部時代の癖で、ずっとつけ続けてきた帳面。
あの恩暇申請の朝、引き出しの奥から取り出した時と同じ重さ。
「テオ」
「はい」
「引き継ぎは終わっているから、私がいなくても業務は回る。あなたが作った照合表と処理手順があれば大丈夫」
「そんなこと言ってるんじゃなくて——」
「数字は嘘をつかない」
テオの口が閉じた。
帳面を鞄の底にしまう。あの朝と同じ。十年分の記録を持って、歩き出す。行き先が違うだけ。あの時はリンデンバートだった。今度は——法廷だ。
「帳面がある。十年分の記録がある。私が何をしていて、何をしていなかったか、全部ここに書いてある」
テオを見た。
「だから大丈夫」
嘘ではなかった。——胸の奥が軋んでいるのは、本当だったけれど。
◇
帰り支度をしていた時だった。
テオが引き出しの前で立ち止まった。
「室長。これ——開けないんですか」
封筒。茶色い無地の封筒。朝、テオが渡してくれたもの。
「……仕事の書類は、今は見られない身だから」
「でも——」
テオの声が揺れた。
「これ、業務書類じゃないと思うんです。局長が渡した時——あの人の眉間の皺が、なかったんです。あの皺がない時って、俺の経験上だと——」
「テオ」
「はい」
「引き出しに入れておいて。戻ったら開けるから」
テオの目が潤んだ。唇を噛んで、ぐっとこらえた。それから封筒を丁寧に引き出しに戻して、引き出しを閉めた。
静かな音。
(……ごめんね、テオ。今は——開けたら、歩けなくなりそうだから)
鞄を肩にかけて、扉に向かう。
表札のない扉。四角い壁の跡だけが残っている。白い空白。
振り返らなかった。
◇
官舎の部屋。
靴を脱いで、鞄を机に置いて、帳面を取り出した。
蝋燭に火を灯す。冬の夕方は日が短い。窓の外はもう暗くなり始めていて、石畳に街灯の光が伸びている。
帳面を開く。最後のページ。まだ白い。
ペンを取った。インク壺を開けた。
(弁護人カルステン・フォン・メーア。「帳簿を独占管理していたリヒターが主導した」——三段論法で来るだろう。①帳簿の独占管理は事実。②三重保管体系を構築した本人だけが改ざん可能。③ヘルツは仕組みを理解しておらず、利用されていた)
前世の経理部にいた頃、監査で不正を疑われた同僚がいた。会社が弁護士を呼んで、会議室で三時間詰められた。結局、同僚は出勤記録と処理ログで無実を証明した。
——出勤記録。
ペンが走り始めた。
『法廷反証メモ——第一論点:帳簿操作の時間帯と私の出勤記録』
帳簿操作が行われたとされる日時。その時間、私はどこにいたか。外務局への書簡配達。受領印。配達の帰路の門衛記録。全部、帳面に書いてある。十年分。一日も欠かさず。
数字は嘘をつかない。紙も、嘘をつかない。
前世で「労働基準法」を知っていたから恩暇の条文を見つけられたように。前世で帳簿をつける癖があったから、十年分の記録が残っているように。
——二度目の人生の、二度目の前世の貯金を、使う。
ペンが止まった。書き終えた反証メモの横に、小さな余白がある。
そこに、何も書かなかった。書きたかったのは、リンデンバートの温泉の匂いとか、蜂蜜の焼き菓子の甘さとか、ベンチに座る隣の人の外套の色とか——仕事じゃないものだった。
帳面を閉じた。蝋燭の灯りが、暗い部屋の中でゆらゆらと揺れている。
窓の外に、冬の空。星は王都からだと見えにくい。リンデンバートなら——降るように光っていたのに。
引き出しの中の封筒。テオが言っていた。「眉間の皺がなかった」。
(……開けたら、きっと歩けなくなる)
だから、今は。
帳面だけ握って、目を閉じた。




