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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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八、クローディア(1)

 その日の夕方、ハンス・カストルプを一人の来訪者が見舞った。クローディア・シャウシャットである。

 ハンスはその時も『水平状態』を保って、三十四号室のバルコニーで横になっていた。

 隣には例によってヨアヒムがいる。初めてベルクホーフで一夜を過ごした三十六号室で横臥しても別に構わないのだが、ヨアヒムがどうしてもと言うので、同じ部屋でという事になった。

 女だと知っても、いとこだから変にどきどきはしなかった。確かに知った時は興奮したものの、気持ちを切りかえるのは随分と労力がいるものである。それよりも惰性に身を任す方を単純な青年は選んだ。

 夕暮れの光が二人の顔を照りつけていた。

「眩しいな」とハンス。

「そうだね」とヨアヒム。

 阿吽の呼吸だ。自分にとって、『親友』がいるとすれば、それはやっぱりヨアヒムになるのかな、と思った。

 クローディアは、そんな時いきなり入ってきた。

 天使が降臨したかのように、その身体からは僅かに神々しい光が発しているように思えた。

 ハンス・カストルプは間が抜けた顔になっていた。

 事実は吸血鬼と混血ハイブリッドのクローディアに魅了されたハンス・カストルプの見た幻影だったのだが、この単純な青年がそんなことに気付けるはずもなかった。

「やあ、ハンス、昨日ぶり。もちろん、覚えてるよね?」

 昨日と同じ格好だが、その首にカメラは掛けられていなかった。

「ハンス君の知り合いですって言ったら、守衛さんあっさり通してくれたよ。びっくりするぐらい簡単だった。院長さん? べーレなんとかだかラダマンテュスとか言う人とも会ったけど、すぐに案内してくれた。ここ、余りにも不用心すぎない?」

「……」ハンスはいきなり話し掛けてくる相手にすっかり見蕩れていた。

 これが大人の女性か。綺麗だなあと、ハンス・カストルプは思った。

「誰だ、お前っ、ハンスにいきなり何のようだ!」ヨアヒムが咆えた。

「もしかして彼、ハンスの友達? 初対面の人に対して随分失礼な子だね。こんな簀巻き状態で言われても全然威厳はないけど」

 そこにあった椅子に坐り、気怠く太腿を組み替えた。見事な艶のある肌である。

 暫くハンスの視線はそちらの方に固定されていた。

 二分ほどして、やっと気を取り直したハンスは、

「ああ、シャウシャットさん、こいつはヨアヒム・ツィームセン。ぼくのいとこです。ちょっと思い込みが激しいやつなんです。失礼をお掛けします。昨日とはすっかり事情が違っちゃって……。ぼく、いきなり結核と診断されてこのサナトリウムに入院することになったんです。ヨアヒム、この人は、クローディア・シャウシャットさん。汽車の中で知り合ったんだ。悪い人じゃないよ。ただここに用があるらしくて……」と相手に眼を合わせずに言った。

「そ、そんな、知り合ったばかりなのに突然押しかけてくるなんて随分不躾じゃないか。ぼくはこんなやつ認めないぞ」

「それじゃあ仕方がないね。ちょっと黙ってて貰おうか」と言ってクローディアはヨアヒムの前で掌を広げた。

 ヨアヒムはきょとんとしている。暫くしてまた怒りがその顔に浮かんだ。

「あれ、効かない。おかしいな、もしかして菫の君なのか……でも、なんか引っかかる……あっ、そうかー、なるほどなるほど、道理で可愛い顔してる訳だ。キミ、女の子でしょ?」

 ヨアヒムはまた真っ赤になり、毛布に包まれたままぴょんぴょん跳ね上がった。

「な、なんで……!」

「やはり、図星だ。少しでもレズっ気があるならこれでも何とか出来るんだけどねえ。どうもハンス一筋らしい。あたしも伊達に生きてる訳じゃない。と言っても、君がハンス君を大好きってことぐらい、十年も生きてりゃあ、誰でも見抜けるよ」

 ハンスは驚いていた。ヨアヒムが女だと言うことを自分は見抜けなかったし、ヨアヒムの軍人仲間も見抜けなかった。目敏いティーナッペル大叔母ですらもだ。それが、このベルクホーフに来た途端、ラダマンテュス、セテムブリーニ、そして、クローディアと言ったようにあっさり見抜ける人が次々と現れた。

 やはり、ここは下界とは違うのだ。通常とは異なった人々を呼び寄せる何かがあるに違いない。

 何とも恐ろしいところで自分は暮らす事になってしまった。ハンスは身震いした。

 そう言えば、風がとても強くなっていた。毛布をきつく巻き付けたお蔭で、寧ろ暑いぐらいだったが。一日でここまで毛布の巻き方に熟練したことにこの青年は内心上機嫌であった。

 ヨアヒムがすっかりしゅんとしてしまい、黙り込んだのを見て、クローディアは本題に切り込んだ。

「ハンス君、あたし、このサナトリウムに泊まりたいんだけど、いいよね。ラダマンテュスさんに許可を取ってくれて。やっぱり、あたしからだとちょっと頼み辛いからね」

「もちろん、もちろんです。後で必ずぼくの方で話は通して置きますので」ハンスは二つ返事で承知した。

「今、しんどければ後でいいんだ、どちらにしても今日は帰る予定だったからね。病気のところ済まなかった」

 ご満悦のクローディアはハンスに一礼をして、部屋を出て行こうとした。

「あっ、ま、待って下さい」ハンスはそれを呼び止めた。

「およ、どうしたね?」

「何か困ったことがあったら何でも言って下さいね」

「喜んで。ありがとう、ハンス君」

 後ろを向いて二三歩進むと急に振り返った。

「そうだ、忘れてた」

 いきなり横になっているハンスの側まですたすたと歩いてきて、

「はい」

 と紙切れを手渡す。ハンスは毛布から苦労して右手を出し、それを掴んだ。

 良い匂いがハンスの鼻腔を擽った。クローディアと顔が接近している事に気付いて、ドキドキと心臓が高鳴った。

「名刺ですか? ……以前も貰いませんでしたか」

「あの名刺にはリンドンの住所しか書いていなかったからね。今の連絡先はそこだから、よろしく」

 クローディアが去ると、ハンスは頭を楽しそうに振り、口笛を吹き出した。ああ、どこまで哀れで分かりやすい青年なのか!

 一方、ヨアヒムはというと顔色を蒼褪めさせて、どよーんと澱んだ空気を漂わせながら、だらんと頭を伸ばしたままになってしまっていた。毛布のせいで、オロシャの入れ子人形マトリョーシカのように見えた。

「ヨアヒム、大丈夫か?」ハンスは心配になって声を掛けた。

「きみ(ドゥ)のせいだよ、ハンス……」ヨアヒムは弱々しく言った。

「どうした? なんでぼくのせいなんだよ」

「あんな、どこの馬の骨ともわからないやつに」

「そんなこと言ったら誰でも最初は馬の骨同士じゃないか、ヨアヒム」

 ハンスはすっかり浮かれていつも以上に饒舌になっている。

「ああいう人が真に大人の女性ってもんだよ」 

「それは、ぼく、ぼくが、そ、そのっ、おとなの……じょせいじゃない……ぶつぶつ」ヨアヒムは口籠もってしまった。

「最近のヨアヒムは変だぞ。もっと昔のようにテキパキと動いてくれなくちゃ。何時も毅然としてないと。ヨアヒムはヨアヒムらしくないとさ」

「ハンス……!」ヨアヒムは頭をハンスに向けた。じっとハンスを見詰めている。その眼は輝き始めていた。

 この青年にして、このいとこありである。

 ハンスは流石に恥ずかしくなって目を反らした。

「それじゃあ、もう少し『水平』になって身体を休めようか」

「うん、そうだね」

空は薄暗く染まりつつあった。

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