十六、ページの向こうへ(4)
赤い焔が空を焦がす。砲声は絶え間なく続いていた。
ここは戦場だ。爆弾が破裂し、あちこちで人の叫び声が聞こえ、悲痛に尾を引いていった。
ラッパが響き、太鼓の音が轟く。
青年達の部隊はその中を突き進んでいく。暗い鬱蒼とした森を抜けて来たのだ。それは長く辛い旅だった。みんな剣付銃を下げて、外套も靴も泥だらけである。
ハンス・カストルプもまた、その中にいた。
他の青年たちと同じように、その身体は泥まみれである。長い行軍を経て街道を進んできたのだ。
「探さなきゃ、ページの終わりを。その向こうへいかなきゃ!」
ハンスは少し行列から外れて、歩き出した。 ――『魔の山』は終わろうとしているんだ。
「枝はそよぎて……語るごとし……来よいとし友……此処に幸あり」
――いとし、友か。
ベルクホーフの皆の顔が浮かんできた。
――こんな古い曲に共感できるなんてな。
炸裂弾がすぐ隣に打ち込まれる。仲間達に直撃し、二三人が、もう人間ではなくなって、地面へと倒れた。
その衝撃を背中に受けながら、ハンスはなおも進む。
「行かなきゃ、ページの向こうへ、この世界は続くんだ」
ハンス・カストルプは仲間たちと離れて一人で遠くへ歩き出した。
路は段々丘陵になっていく。長い時間を掛けて登り切ると、ハンスはその上に立って、戦場を見渡した。塹壕の間に、多くの人が倒れ伏している。
「ページの終わりを、目指すんだ」
僅かに赤い空に青い晴れ間が見えた。そこが裂け目となって、風景が少しずつ歪んでいくように思った。
「ここが、ページの終わりだ。そして、ここから、向こう側へと続いていくんだ!」
ハンスは大きく両手を前に広げた。
「危ない、撃たれるぞ!」誰かの声が聞こえる。
鈍い衝撃が身体を貫いたのを、この単純な青年は感じた。前のめりに丘から転げ落ちて行く。少しずつ世界は解体され、身体の下にあるはずの草叢の感覚すらなくなっていくように思った。
さようなら、ハンス・カストルプ。
拝啓、ルドウィナ・セテムブリーニ様 レオナ・ナフタ様
あなたたちがこの手紙を読むころ、ぼくはこの世界にはいないでしょう。
そして、この手紙をあなたたちが読んでいるということは、まだこの『魔の山』の世界は続いているということです。
ぼく、セテムの時計を見ていたんです。そしたら、セテムは調整を止めていたけど、『魔の山』の時間はまだ何分か、下界の時間より遅れている事に気付いたんです。誤差かも知れないけどね。
ぼくは、可能性に掛けることにしました。そして、この世界がまだ、続いてくれていたらいいなと、ぼくは願います。
ページを何枚か抜き取って置きました。そこに、この手紙を書いています。そこから、新しい『魔の山』の続きを書き始めて下さい。
あなたたちなら、きっと出来るはずです。
新しい世界のぼくは、きっとあなたたちのことを知らないでしょう。
前の世界のぼくは、忘れて下さい。
ぼくはページの向こうに消えて行くのですから。
この小さな手紙が、小さな○の外に溢れて、大きな○に残っていてくれたら、と思います。
敬具
ハンス・カストルプ
追伸 それから、あなたたちが思っているほど、ぼく、単純じゃないですよ。
新しい世界のわたしたち――ルドウィナとレオナは手紙を大事に畳んだ。
消し炭となった本の中にひっそりと挟み込まれていたその手紙を。
この世界は続いていた。わたしたちは生きていた。
残りの紙の上に紙を足して、新しい書物を作った。
そこに新しい物語を書き付けるのだ。
これまでと同じように、ベルクホーフにわたしたちはいた。ルドウィナの書斎だ。
「だから、親しくなんて、なりたくなかったんです」机に坐ったレオナは目頭を押さえていた。明らかな嘘である。
ルドウィナは窓を眺め、静かに佇んでいた。その横顔を昼の光が照らしている。
「おぬしら、新しい客人じゃぞ!」小さな深海色の髪の少女――ラダマンテュスが微笑みながら部屋の中に入ってくる。
二人は廊下を通って、サロンへと入った。
ヨアヒムは前回までの通り、ハンスを迎えに出ているらしい。それを待っているシュテールとエンゲルハルトは興味津々である。
どうやら、馬車が止まったようだ。玄関前が騒がしい。
ハンス・カストルプ。新しくやってくる君と、わたしたちはうまくやっていけるだろうか。とても不安だ。
でも、前の君が繋いでくれた世界を、わたしたちもまた、守りたいと思う。君から託されたこの消しゴムも。
繋いでいくことが出来るのならば。
希望を託すことが出来るのならば。
新しくやってくる君に掛ける言葉は、もう決まっている。
もちろん、これしかないよ。
「ベルクホーフへようこそ!」




