十五、雪(4)
どこからか声が聞こえてきた。ハンス・カストルプは懐かしく思い返した。
クローディア・シャウシャットの声だ。雪の中にも拘わらず、白いドレスを来て、栗毛色の髪を吹雪に靡かせてこちらまで歩いてくる。
「やあ、ハンス君。元気だったかな」
「シャウシャットさん、ぼくは、ぼくは……」ハンスは動揺を隠しきれず、いとこの亡骸をコートで覆うのが精一杯だった。
「ペトラ、またかい。これだからあんたは駄目なんだねえ」とペーペルコルンを見て、叱る素振りをする。しかし、その声には少しの怒気もない。
「ハンス君、こんな時に来ちゃってごめん。あたしもペトラが心配になってきてね」
ペーペルコルンはただ二人を見詰めた。その目は完全な虚ろになり、無限の底を覗かせている。
「おーい、ハンスきゅん」シュテールの声が聞こえて来た。その後ろにはエンゲルハルトが控えている。二人とも相当な防寒具の重装備で歩くのに難儀している模様である。
「また邪魔が入ったか」クローディアは肩を竦める。
「カロリーネ、元気だったー?」だが相手には優しく声を掛けた。
とても懐いていたのだろうか。シュテールはうきうきと歩いてくる。
さっと、クローディアは手を横薙ぎに振った。笑顔のままで。
途端にカロリーネ・シュテールの首は防寒具のフードごと体から離されていた。その顔にはあどけない笑みが変わらずに浮かんでいた。雪の上に転がっていく。
切断された喉から血がさっと吹き出して、クローディアの顔に掛かった。
ぺろりと赤い舌を出し、女はその血を啜った。
「苦しまないようにして上げたつもりだけど」
ハンスは何が起こったのか理解出来なかった。ただ相手を呆然と眺めていた。いとこの死も理解出来なかったが、これは想像を遥かに越えている。夢を見ているのではないかとすら思っていた。
エンゲルハルトの方が直截に驚いていた。と、言うよりも怯えていた。
何歩か後退っていく。重装備のせいで走り出すことはできないらしい。クローディア・シャウシャットはゆっくりと微笑みながら近付いた。
防寒具を破り、襟を露わにさせる。牙を出して、相手の白い喉首に噛み付く。エンゲルハルトはなお暫く抵抗しようと両の手足を藻掻かせていたが、強い膂力でそれを締め上げた。
骨が折れる音なども聞こえたが、クローディアは歯を深く突き立てて、全身の血を吸い出していった。
エンゲルハルトの顔の皮は頭蓋骨に張り付いて皺だらけになってしまっていた。眼は落ち窪み、唇は干涸らびた酸漿のようにも見えた。クローディアが手の力を離した途端、がくりと膝が折れるように曲がり、斜めに傾いで倒れた。
女は和やかに笑いながら、ハンスの方に振り返った。
「ハンス君、さあ、ベルクホーフに行こうか」
白い小さな手が差し出される。相手に言われるがままに、青年はそれを取った。
雪がまた降り始めてきた。女のてのひらにも一片落ちる。
「およ、丁度良い頃合いだねえ。雪が屍をすっかり覆い隠してくれることだろう。わざわざあたしが隠す必要はなくなったよ」
ペーペルコルンは表情を変えない。まるで動きを見せず、硬直していた。
「そうそう、いい子だ。ハンス君、君は従順でとても宜しい」
クローディアはハンスの手を引きながら、ゆっくりベルクホーフへと歩いて行った。
「さあさ、ペトラもそんなところで硬直していないで、さっさとベルクホーフへ戻りなさいな」優しく声を掛けた。
ペーペルコルンは黙って歩き出した。顔を俯かせてとぼとぼとした足どりで。まるで生ける屍のように見えていた。
ハンスは先程までの激しいペーペルコルンへの憎しみも、いとこの死も、仲間が死んだ事への驚きも、関心の外になっていた。ただ、クローディアに引き付けられるがままに、全てを忘れ去ろうとしていた。
もちろん、セテムブリーニやベルクホーフのことも、もうどうでもでもいいような気持ちになっていった。
「さあ、道々ゆっくりと、ベルクホーフの秘密を、時間の変化が起こるその訳を教えて貰おうか」
クローディアは微笑んだ。
三人は連れ立って、ベルクホーフに着いた。 雪は益々深まっていく。丸い屋根の上に溢れるように掛かっていた。
「さあて、ペトラ。そこの木を切り倒してきな。あんたの力ならできるでしょ」クローディアは腕組みをして命令する。
ペーペルコルンは黙って頷いた。塀の外に生えていた木に近付くと強く拳を叩き込んだ。すると、大きな音を立てて、幹は地面へと倒れる。もうこうなれば誰が部下で上司だかよく分からない。クローディアの方が遙かにその場に適応してテキパキと指示することが出来ていた。
ハンス・カストルプは呆然としたまま立ち尽くしていた。クローディアの魅了は完璧らしい。話せることを話し切ってしまった後には、殆ど前後不覚になるぐらい、完全なまでに陶酔しきっているようだ。
鳥たちは鋭い鳴き声を上げると、助けを求めるように空へと飛び立っていった。
「あたしも、こんなことはしたくないんだけどね。ペトラ、あんたが大事を引き起こすから。まあ、あたしとしてはあまり関わりはなかったけど、ハンス君のいとこを殺しちゃったら、そりゃ、大騒ぎにもなっちゃう。ベルクホーフの住人を一人も殺さずに、その『魔の山』だっけ、を焼き払うこともできたでしょうに。どちらにしても時間の問題よ。それは別としても仕事はきっちりやるべき。目的のものを破壊しなくちゃ。ところで、ペトラ。あたしの調査の結果は聞きたくないの? そう。ハンス・カストルプ青年の言っていたプリービスラフ・ヒッペ。確かに一九〇○年の秋まで学籍簿が存在していたよ。ところが記録が不自然に止まっている。ティーナッペル家のお手伝いさんに聞いたところ、確かにハンスが女装をした同級生と庭にいた日があったらしい。その翌日が記録から消えた日に当たるのかどうかは、よく分からない。全く不自然な話だけど。それからレオナ・ナフタ、こいつは分からなかったけど、ルドウィナ・セテムブリーニと言う名の赤ん坊が先頃イタリーのヴェニスにてジョゼッペ・セテムブリーニ氏の娘として洗礼を受けていた。同姓同名の別人かと思っていたけど、ハンス君の話を聞いてなるほどと納得したね。所謂二つの平行世界がこう、こう、二つあってさ。それが本の内側と外側に存在している。本の内側の世界は本の外側の世界を模して作られているから、そっくり同じに見えはする。だが、この二つの形態は飽くまで入れ子状だ。本来なら交わるはずはない。それが『魔の山』という本によって無理矢理重ね合わされている。だから、それによって時間の流れに歪みが生じ、こっちの世界を戦争に向かわせないようにしていると。ところで、どう、あたしの調査は優秀でしょう。身分を使い分けられる技術があれば、この程度のことはすぐにできちゃう」
ペーペルコルンが一切話し掛けてこないので、退屈したのか、葉巻の先をカットして吸い始めた。
「……じゃあ、この世界は終わるの? 『魔の山』を燃やせれば」少女の唇が僅かに動いた。
「馬鹿だねえ。この二つの世界は本によって繋ぎ合わされているだけだから、本を燃やしても残り続けるだろう。第一、二つの○の近接部分がこのベルクホーフにあり、その『世界の臍』だっけ、の最奥にあたると言う理屈の本の存在が戦争を食い止めているというのだから、本さえ燃やしたら、戦争が起こって、ループは発生しなくなり、二つの世界の近接部分は遠くなっていき、やがては消えるはず……だとは思うけど、ほんと言うとあたしもよくは分からない。でも、空想科学小説を読んだ身からすればそう言う理屈が思い付くかな」
「あんた自身が超自然的な存在なのにね」
「およ、またいつも通りの皮肉な調子が帰ってきてるねえ、ペトラちゃん。おばちゃんは嬉しいよ」とクローディアは煙を吐き出しながらペーペルコルンの頭を撫でた。少女は勿論嫌がって身を引き離す。
「何するのよ!」
「さ、ベルクホーフを燃やしましょ。お名残は惜しいと思うけど、仕事は仕事と割り切らないと」
「消えてしまえばいい、こんな世界……」ペーペルコルンはぶつぶつと独り言を呟いた。「まあ、それはそれとしてちゃんと仕事はやってよね」いつもよりは真面目な口調で、念を押すようにクローディアは繰り返した。「『エンス・ボート』では上の命令は絶対だ。いかなる事があっても遂行しなくてはならないし、その事を知った人間は消さないといけない」
ペーペルコルンは黙々と従った。
それほど時間は掛からずにベルクホーフの周りは薪で埋め尽くされた。ブロックの様に固めて横長の建物を囲うように敷き詰めていく。バルコニーには雪が積もって、患者は誰も出ていなかった。恐らく部屋の中で暖炉に当たり身体を温かくしているのだろう。もう、こんな時間だし、寝床に着いているかも知れない。ペーペルコルンは最後の方は斧を使った。流石に身体に堪えたのだ。少しずつ弱ってきているのを感じる。咳を何度もした。
「ペトラ、もしかして結核になったの?」
「そんな、ゴホッゴホッ、そんな訳ないじゃない」精一杯強がってみせる。強くなければ生きていけないのだから。
「無理はしちゃいけないよ。何だかんだ言っても、あんたは人間の身、あたしよりも遙かに弱いんだからね。どれだけ力があろうとも、実際のところ死にやすいのはペトラだし」世話焼きなクローディアはそう言うと葉巻を雪の上に抛り投げ、足で踏み潰した。
腕を伸ばしてオイルライターの火を、薪の上へと翳す。暫く時間が掛かったが、ゆっくり炙るように近付けていくと、やがては小さな炎が生まれ、徐々に大きくなっていった。
ハンス・カストルプはそれを目の当たりにしてもまだぼんやりとしている。
やがて目が痛くなるような深く濃い黒煙と、強い熱気が顔に吹き付けてきた。ペーペルコルンは辛くなって、後ろに退いた。燃えているのだ。
そう、ベルクホーフは燃えている。
どこからか騒ぎ声が起こった。
残っていた患者達の中で、気付いた者たちが逃げようとし始めたのだろう。入り口の方から多くの黒い頭が姿を現した。押し合いへし合いをしている様子だ。
クローディアはゆっくりと逃げ惑うベルクホーフの住人達の前へと歩いて行った。
「その、本当に殺すの? 一人残らずやっちゃうの?」戸惑ったペーペルコルンは相手の後ろ姿に声を掛けた。
「ペトラ、あんたが最初にダイナマイトで建物ごと粉砕すれば良いとか言い出したんだよね。対してあたしは飽くまで穏健策を呈示した。そのために尽力したよ。でも、あんたはそれをふいにした。いつの間にかベルクホーフに住むようになっていたし」
「そ、それは……」ペーペルコルンは口籠もった。その顔はまだ蒼白い。
「わかってるよ。あんた、ハンス・カストルプのことが好きなんだろ」クローディアは振り向かない。
「そ、そんな……」
「ほら黙った。やっぱり図星だよね」
「……」
ペーペルコルンが黙るとクローディアは歩みを進め、入り口まで近付いた。
「まあ、ハンス・カストルプはあたしが飼うけど」
ベルクホーフの住人の一人の前に立ちはだかり、その頭を優しく触った。
すると途端にその人の影が横に捩れて傾いた。エンゲルハルトと同じように、血を吸い出されたのだろう。
クローディアは喉首に吸い付かなくても相手から血を抜き出すことが出来た。ただ、それでも噛み付いた方が更に深く血を吸い出せると言うことらしかったが。
クローディアは優雅に舞うように辺りを旋回していきながら、逃げ惑う人々を、ある者は血を吸い出し、ある者はシュテールにそうしたように頭を切り落としながら歩いて行く。
酸鼻極まりない風景だったが、しかし、ペーペルコルンの部下である女の足どりは意外に軽やかであり、楽しげであった。夜空まで赤く照らし出された中を、軽く何度もステップしながら、人と人の間を巡る。
ベルクホーフはゆっくりとだったが、少しずつ焔を吐いて燃え上がっていく。
――いつもは人情家ぶっているくせに。
少女は冷笑した。
――私以上に虐殺を楽しそうにやっている。 クローディアも笑い始めていた。嫌味のない笑い方だ。前にも何度かペーペルコルンはクローディアの『やり方』を見た。
普段言っている事をこう言う場所では簡単に翻す。やはり、その辺り、どうしても闇の力によって生かされる聖別され得ない眷属の一人なのだろう、と少女は思っていた。
ところが、一つの影がクローディアの前に立ちはだかった。
「およ、誰かね」
炎と雪風に靡く銀の髪。白衣を身に纏った高い背の女性が立っていた。
「クロコフスキー!」ペーペルコルンが先に叫んでいた。
いつも以上に冷ややかな目付きで、こちらを睨んできた。それを頼もしく思ったのか、生き残った住人達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「ああ、ベルクホーフのお医者さんだったか。それで何か、あたしに御用?」
そう言って相手に近付こうとしたが、途端にその足先が翻った。素早く身体を後ろに飛び下がらせて、何メートルも退いた。
たたらを踏みながら押し留まる。地面に両手を突いて、相手を見た。
「あんたも、『エンス・ボート』だね?」
クロコフスキーは長い半月刀を後ろに隠していたのだ。僅かの間にそれを用いてクローディアに切りかかろうとしたのである。
「そうです。十年ほど前までは、ですが」
「そういえば、そんな騎士がいたと言う話は聞いた事あるよ。相当な手練れだったが、いきなり姿を消したとね。それが、今目の前にいるとは……全く恐れ入ったよ」思い出すように娘は目を細める。
「私は救って頂きました。ラダマンテュス――このサナトリウムの院長に。何も生きる甲斐がなかったところに、目的を与えて貰ったのです。それから十年、必死で勉強を続け、やっとその元で働けるようにして頂いたのです。その場を破壊しようと欲する者は、絶対に許せません」刀の柄を強く握り締める。
この普段は無口な女性が、ここまで喋ったのをペーペルコルンは初めて見た。
「ふーん、そうなんだ。でも、あんたにも死んで貰うよ。見られた以上は仕方がない。あんたの大事なモノ、全て破壊させて貰うね!」
そう言って、クローディアは驚異的な脚力で大地を蹴り、赤い空の下に砂埃を広げて、一直線にクロコフスキーへと突撃してきた。
その小さな手から爪は長く尖り、相手を刺し貫けるほどにまでなっている。両手を広げ、牙を剥き出しにして、飛び掛かった。
剣刃一閃。
クロコフスキーの刀はクローディアの爪を叩き切り、続く二撃で反対側の腕を斬り落としていた。それはもんどりを打って地面へと落下する。
「引っかかったねえ。そいつは替え玉だ」
斬られた腕が肘を軸にしてグルグルと回り、高速で地面を這って、クロコフスキーの長い足を掴んだ。
片腕だけになったクローディアは爪を再び伸ばして、もう一度相手に近づき、肩を鷲掴みにした。
強い力でねじ曲げていた。血が出るほどだ。「ううっ」クロコフスキーが僅かに顔を歪める。だが、毅然として、相手を睨み付けていた。
「流石に強い。だが、これはどうだ」今度は相手の喉首に噛み付こうと首を近付けた。その首が胴体から切り離された。
何メートルも彼方に吹っ飛ばされる。しかし、クローディアの身体は未だに倒れる様子はなく、床に落ちた腕は長い爪で、クロコフスキーの足を骨の底まで締め付けていた。
首はと言うと、こちらも凄い勢いで地面を這って来ていた。
「バカだねえ。幾ら切ってもあたしは倒せないよ!」
とうとうクロコフスキーは相手の胴体を切り伏せると、足を切断された腕に掴まれたまま、後ろに退いた。
クローディアの首が勢いよく跳躍し、元の場所へと収まった。斬られた胴体もすぐに繋がっている。
女医の足を掴んでいた腕が後ろ向きに飛び上がり、こちらも剥き出しとなっていた元の関節へと接合される。驚くべき治癒能力だ。
「やれやれ、それでなかなか倒れないとはね」
ペーペルコルンもここまでクローディアが追い詰められるのは初めて見た。だが、クローディアは有能だ。飽くまで余裕の笑みを絶やさず、相手を睨み据えている。
「あたしも本気を出さないといけないようだね」
さっと爪が伸びたままの手を広げ、焼け焦げた夜空に突き出した。
すると、今まで倒れていたベルクホーフの住人たちが立ち上がった。首がないままに、あるいは各関節はねじ曲げられたままに、生ける屍となったものたちが、迫り来る炎に身体を焼かれながら次々と女医へと向かって歩いてくる。
「手段は選んでいられない。あんたにこいつらを倒せるのかね? 自分の大事な患者たちを殺すことはできないよねえ!」クローディアには珍しくドスの利いた声で、相手を恫喝する。
白銀の髪を持つ女性を十重二十重に生ける屍が取り囲む。少しも乱れず、ゆっくりとした動きで逃げられないように、少しの隙間も作らずに。
だがクロコフスキーは一向に動揺せず、半月刀の先を地面に突き立てて、静かに何かを念じ始めた。
途端に場の炎が凍った。
雪ではない。それとはまた違う質の冷気が押し寄せてきたのだ。時間が止まったかのように、ベルクホーフの炎は突然静かになった。
立ち上がり、ゆっくりとこちらに向かい掛けていた生ける屍たちの身体は、瞬く間に凍り付いて、静かに崩れていった。
「こう言う力を、破壊にしか使えない私は愚かでした。いや、今も愚かなままであり続けています」
クロコフスキーの瞳が、ペーペルコルンとクローディアを蔑むように見ていた。
「口だけは威勢がいいね。なるほど、流石に剣技のみで幹部にのし上がった訳じゃないね。あんた、その容姿を見れば分かるが、北欧のエルフの混血だろう? 通りで、こんな魔法の真似事のようなことが使える訳さね」
「さしたる事のない力です。壊す力など、幾らあっても意味がない。クローディア・シャウシャット。それから、ペトラ・ペーペルコルン」
「何よ!」少女は辛うじて元気を絞り出して咆えた。
「あなたには、昔の私に似たところがあると、ずっと思ってきました」
「だから? あんたなんて何も知らないし、興味もない」
「あなたは、いつまで人を殺すんですか。そして、それをいつ終わらせるんですか?」
「そんなの、いつまでもよ、いつまでも私は……死ぬときまでは……」肩の力が急速に抜けていくのが分かる。その言葉を口にするのがとても辛かった。
「あなたは、とても可哀想ですね」
『可哀想』。
――どいつもこいつも、『可哀想』。
――何が、『可哀想』だ。私がどれだけ血の流れるような努力を重ねてきたと思ってるんだ。私には、それしかなかったのだ。破壊を行うより他に誰も喜んでくれなかったし、それを最大の義務として教わったのだ。こんなやつに何が分かる。こんなやつ、こんなやつらに気持ちを理解されたくはない。
「ふっ」少女は息を吐いた。
「ふざけんじゃねえよおおおっ」そのまま斧を両手に持って高く跳躍し、相手へ飛びかかる。ペーペルコルンの膂力は強大だ。一撃を食らったものは生きていけないだろう。
急降下し切って、クロコフスキーの白銀の髪の毛に向かって斧を振り下ろした時、自分の両腕が鈍く震えるのが分かった。突き出された半月刀の一撃だけで斧が粉々に砕かれていた。振動は手甲にまで伝わり、そこからひびが入ったかと思うと、甲冑へと深く続いて行き、全体が大きく割れてしまった。
ペーペルコルンを騎士たらしめていたものが、壊れてしまったのだ。
「『エンス・ボート』の騎士には武器が与えられる。私にはこの半月刀でしたし、あなたはその鎧がそうでしょう。私は敢えてそれを砕きました。貴方はもう組織には居られない。私は砕かずに組織を離れましたが」
ぱっくりと割れた甲冑の残骸が雪の上に倒れた。
「え、えっ」ペーペルコルンがやっと漏らした声はそれだった。
持ち前の力を増幅させる鎧。不壊のものだと教えられて、組織と同じ名前を持つ首領エンス・ボートから送られたその鎧。
それがいとも容易く、砕かれた。
――終わった。
一瞬だけ、ハンス・カストルプの顔が浮かんだ。微笑んだ。
少女は倒れ込んだ。その意識は深く沈み込んでいった。




