十五、雪(3)
「いいか、ラダマンテュスには絶対内緒にしろよ」
サロンに入った時、セテムは忠告した。院長はここにはいないようだ。
「どうして?」ハンスは聞いた。
「病人に探しに行かせるな。警察が来るまで待て、とか言うだろう。そうしている内にツィームセン君を見失うぞ!」
前にあれだけ喧嘩をしたのだ、正直ヨアヒムを探したりはしたくないのだろうとハンスは思っていたが、セテムはセテムで正義感を持っているのか、テキパキと動いてくれ、忠告もしてくれた。ハンスはその好意に感じ入った。
「そ、そうだよね。じゃあ、誰に頼もうか」
「面白そう、あたし着いて行く!」シュテールが跳ねてこちらに近付いてきた。
「私も、ご一緒させて頂けるかしら。ツィームセンさんも、ベルクホーフの仲間ですもんね」
それを聞いてハンスは涙ぐんだ。
「みんな……」優しさが身に染みたのだろうか。ハンスは今日までこれほど皆に対して仲間意識を抱いたことはなかったのである。 他の軽度な患者や、見舞いに来ていたその親族たちも協力してくれた。
「私も行かせてよ。ベルクホーフの仲間が、カストルプのいとこがいなくなったって言うのに、私だけ引きこもっているのは真っ平ごめんよ、ふふふっ、ふふふふふふ」笑いながらペーペルコルンが近付いて来た。その顔には晴れ晴れとした笑顔が貼り付いていた。しかし、その瞳の奥はどこか虚ろで、なにかあらぬ方を眺めているようである。ハンスも異常さに気付き、軽く身を引いてしまった。
「ペトラ、き、きみも行くの?」
「いくいくいく! 絶対にいく!」ペーペルコルンはさらに詰め寄ってきた。
それぞれ何人か班を作って出発した。シュテールとエンゲルハルトの二人にハンスは付いていく事にした。セテムとは分かれての出発だ。ナフタは探したけれど姿が見えなかった。ペーペルコルンは少し遅れると言って皆を見送った。
ペトラ・ペーペルコルンは雪に覆われた木陰へ姿を隠し、じっと獲物を狙うように相手を待っていた。久しぶりに持ち出した甲冑を被っていた。
多少の追尾ならお手のもの。嗅覚や聴覚を研ぎ澄まさせて、相手の行きそうな場所を探り当てる。『エンス・ボート』で戦闘員として訓練された技能だ。まさか、このようなことに使うとは考えてもみなかったけど。
何度か咳をした。最近ずっと止まらない。悪寒もする。自分も結核になりつつあると、ペーペルコルンは分かっていた。でも、ハンスと同じ病気になれることは、とても喜ばしいことだった。
ヨアヒムを一番最初に見付けて、始末しようと考えていた。賊にやられたことにでもすればいい。そうすればハンスを独占出来る。 暗い顔でコートを身体に巻き付けて歩いてくるハンスのいとこを見付けるまでに、そう時間はかからなかった。
「どこへ行くのよ」姿を現して、相手の前に立ちはだかる。
「皆、探してるわよ」
「ああ、君か」上の空だった。眼中にもないといった様子だ。
少女は舌打ちをする。
「あなたね、ハンスを独り占め出来ているつもりなんでしょうけど」ペーペルコルンはファーストネームで呼べて嬉しい気分になった。
「ぼくが?」ヨアヒムはぞんざいな感じで答えた。余り自分に興味を抱いていないらしい。
――馬鹿ね。もうすぐ殺されるって言うのに。
「そうよ」
「ふざけるなよ!」案に相違して、相手はいきなり怒鳴り始めた。
「なんで、ハンスをぼくが独り占め出来ているなんて言うんだよ。あんなに尊い人を、なんでぼく一人が独り占め出来るって言うんだよっ! あんなに大切な人を、なんでぼくだけが、ぼくだけが、独り占め出来るって言うんだよ!」
少し伸び始めた蒼い髪を振り乱して両手を握り締め、この『少女』はペーペルコルンを批判した。
『尊い人』などという言葉が聞かれて、ペーペルコルンはビックリした。いつもヨアヒムはハンスと仲良く、自分の好きなように従えていると感じていた。この二人だけの空間に、誰も入れないだろう。友達以上の友達、気心知れた仲に見えた。なのに、『尊い』とは。しかも独り占めしているのではないと言う。考えられない答えだった。
「だって、人は、独占するしか、独占されるか、どちらしかないじゃない。弱肉強食。それが世の習い。何を馬鹿言ってるの」少女は相手を睨み付けて声を荒げる。
「きみは可哀想だね」表情に怒りの色を見せたままで、ヨアヒムはペーペルコルンを嘲笑った。「人を愛すると言うことを知らないんだな」
一撃は相手の胸を貫いていた。ペーペルコルンが長いナイフ(ランゲンメッサー)を振るったのだ。
「うっ」ヨアヒムの唇から血が漏れていた。「すぐには死ねないわ。苦しんで死になさい」
少女は僅かに掻き回しながら、ナイフを引き出す。
――幾度も手慣れた作業、のはずなのに。
笑顔を浮かべたつもりだったが、頬が震えているのが分かった。
――すぐに、逃げないと。ここから去って、他の人が見付けた後に、何食わぬ顔をして戻ってこないと。
しかし、なかなか足は進まなかった。血に塗れたナイフを宙で固定させながら、立ち尽くしていた。
「ヨアヒム! ヨアヒム!」ハンスの声が聞こえて来た。それを聞いても、いや聞いたからこそ、少女は動けない。
雪の上に倒れたいとこを見て、ハンスは早足で駆け寄った。
「ヨアヒム!」すかさず上半身を抱え起こす。ところが、その拍子に血を吐いた。
ヨアヒムの顔は蒼白だった。
「ハ、ハンス……」弱々しい声で、ヨアヒムは口にする。胸元からも口からも血が溢れ、止まらない。
「喋らないで」ハンスは押し留めた。
「カストルプ」ペーペルコルンは話し掛けようとした。
「何をしたんだ」ハンスは顔を上げ、怒鳴った。「ヨアヒムに何をしたんだ。メジュフロー・ペーペルコルン!」その顔はいとこと同じぐらい蒼白に見えた。唇は怒りで震えていた。
常日頃自分が人から呼ばれることを望んでいた名前で呼ばれているにも関わらず、少女の心は痛んでいた。
「な、何って、と、当然の事をしたまでよ」 ハンスの顔は冷たく強張っていた。ペーペルコルンはハンスのこんな顔を始めて見た。見下げ果てたような表情が浮かんでいる。普段は優しい青年のこの顔をペーペルコルンは直視出来なくなっていた。
次の瞬間にはもう無視をされ、ハンスはいとこに必死に話し掛けていた。
「ヨアヒム! ヨアヒム! 返事をしてくれ!」
「ハ、ハンス……!」その唇は紫色のままだった。
「戻ってきてくれ! 行かないでくれ」
「ハン……ぼ……くは……」
「ヨハンナ、ヨハンナ。幾らでも呼んでやるよ。戻ってきてくれるなら、何度でも呼んであげるよ」
「ハンス」『少女』の唇が動いた。「うれしいよ、きみ(ドゥ)。その名で呼んでくれるんだね」一息に言い切ると、がっくりと首を落とした。
「ヨアヒム、ヨアヒム、ヨハンナ、ヨアヒム、ヨアヒム! ぼくを、一人にしないでくれ!」ハンスは幾度もいとこの頬を叩き、呼びかけたが、一向に返事をしない。
既に事切れていたのだ。
「あーあ、殺しちゃったね」




