十二、ティーナッペル嬢(1)
「何時まで帰ってこないつもりなんです、ハンス。もう二年近く経ってるのよ。手紙すらも寄越してこないで」
顔を合わせるなり、大叔母は頭ごなしにハンスを怒鳴り付けた。
実質ハンスはやっと半年ちょっと山の上で過ごしていただけなのだが、下界ではもう二年を越える時が経っていたとは、改めて時間の流れの違いを思い知った。
院長室にて、ティーナッペル嬢は偉そうに両手を腰に当て、ラダマンテュスやクロコフスキーを睥睨していた。
「そ、それはの、ハンス君は結核に罹患していたのじゃ。このままハーンブルクに帰す訳にもいかんからのぅ。連絡をしなかったのはこちらの不手際じゃ。すまん」
「何を馴れ馴れしい。ほうぼう探し回ったのよ。ヨアヒムの入院したサナトリウムに行ってみたら、まさかそこにいるなんて!」バシッと机に掌を叩き付けた。
「お姉様、我慢してください。ハンスは悪くないんだ。運悪く病気に罹ってしまったというだけで……」ヨアヒムが弁護する。
「病気療養ならハーンブルクでもできるわ。重病のヨアヒムは仕方ないとして、何を好きこのんでハンスがこんな田舎で過ごさなきゃならないのっ! 私は仕事で忙しいの。早く帰るわよっ! ハンス」大叔母は立ち上がった。
「ま、待ってよ、お姉様」ハンスは哀れな声を上げて、それを留めた。「ぼくはすっかり山の上に馴染んじゃって、下界では生活し辛い身体になっちゃったんだ。何しろ速度が全然違うもんで……、それにベルクホーフで仲のいい人も出来て、とても去りづらいんだ」 「そんなものは都会の病院に行けば一発で治るわ。ハンス、キミは学業もあるのよ、単位がどうなってるのか知ってるの?」早口で捲し立てられる。
それを言われた途端、ハンスの顔は青くなった。自分は勉学を途中でほっぽり出してここにきたのだ。既に船の造り方など、完全に忘れていた。『大洋汽船』も本棚の表からは消えていた。全く関心の外に行ってしまっていたのだ。
「お金を私が払い続けているから一年生のまま休学処分で済ませて貰っているけど、普通ならば退学を勧められる状態よ。戻ってきなさい! ハンス。戻って勉強をしなさい! ハンス。人生で空白の時期を作っちゃいけないの、あればあるだけキミは真っ当な人としての一生を歩けなくなる。そんなのはごめんでしょ、ハンス。早くハーンブルクへ帰りなさい!」
「それはどうかね」よく通った声。セテムブリーニだ。ハンスは久々に彼女をとても頼もしく感じた。
「失礼だが、人生に空白の時期があって何が悪いんだね。例えばルネ・デカルトはベッドの中の思索を一番の楽しみとしていたと聞くよ。空白の時間を思索に充ててこそ、人はもっとも輝けるとは思わないかね」
「何を詭弁を!」ティーナッペル嬢は叫んだ。
ハンスは先日ペーペルコルンに感じたものが分かった。実業家の大叔母はペーペルコルンと似た雰囲気を持っていた。
力をこそ重視し、結果をのみ優先する。長らく忘れていた感覚を思い出させてくれた少女に、ハンスは驚愕とも畏怖ともつかない曖昧な思いを抱いた。わたしたちから言わせれば、それはますます愛とはかけ離れていく感情であると断言出来るのだが……。
「詭弁じゃない。わたしは世の中の真理を言っているんだ。実際わたしほど世界のことが良く見えている人間はこの世にはいないといえるんだよ。父が一番目で、わたしが二番目だったが、父亡き今はわたしが一番だろう」
セテムが父親のことを話したのは初めてだ。ハンスは興味を引かれた。
「それはどうですかねえ」ナフタ登場。早速、指を立てて、皮肉な口調で応じる。「セテムは二番目にこの世の真理を分かっていない者かもしれません。もっとも、その場合一番目分かっていなかったのは彼女の父親になる訳ですが」
やはり二人は幼い頃からの知り合いらしい。ハンスは例の写真を思い返していた。
「な、なんだと」セテムが怒って相手へ飛びかかろうと身構えたが、大叔母がそれに声を被せてきた。
「そんなことはまあ、どうでもいいから、さっさと帰りましょっ、ハンス」
「でも……」ハンスは途中まで言って黙った。
「そうだ、お姉様、ハンスがどういう生活をこのベルクホーフで送っているのか、それだけは見ていってもいいんじゃない? 何も見ずにすぐに帰っちゃうと言うのは流石に味気ないよ。お姉様も、観光旅行は嫌いじゃないって言ってたよね?」ヨアヒムがすかさず口を挟んだ。本当に頼れるいとこだとハンス・カストルプは思った。
「ま、ヨアヒムが言うなら少しぐらいは……」大叔母はちょっと考え直したようである。「ささっ、ぼくが案内するよ」といとこはティーナッペル嬢の手を取り、軽やかに歩いて、院長室から連れ出していった。
「ほっ、助かったよ」ハンスは胸を撫で下ろす。
「それにしても、大叔母とな。えらく若く見えるが、あの女は何歳なんじゃ?」自分の事は差し置いてベーレンスは聞いた。
「母方の曾祖父が最晩年に設けた娘なんです。今年で確か二十八だったかな。いや、下界では時間の流れ方が違うので、二十九か。まあ、色々事情があったんですけど、結果としてティーナッペル家の全財産を相続することになったんです。ぼくは早くに親を亡くしたので、養ってくれたのもこの大叔母で、頭が上がらない人なんですよ」とハンスは自分の知っている限りの情報で説明した。
「なるほど、どうりでカストルプ君が普段以上に畏縮している訳ですねえ。よっぽど怖い目に合わされたのでしょう。察するに……女装させられたんじゃありませんか?」
「ど、どうして分かったんです」ハンスは驚いた。
「そりゃ普通に分かりますよ。世話をずっとしていたなら、カストルプ君に女装をさせそうな人物は、あのちょっとエキセントリックな女以外にありえないでしょう」
「お前が言うか」セテムブリーニは開いた掌を額に当てて呆れていた。
「ま、ともかくわたしたちもツィームセン君を追いましょう。彼女一人では力不足でしょうしね」さらっとヨアヒムの性別を暴露してナフタは言った。そのことを知らない者はここにはいなかったが。
「それじゃあ、皆で見にいこうかの。クロコフスキーは書類の整理を続けとくれ」
銀髪の女性はテキパキと作業を続けていった。まるでラダマンテュスの秘書のようだ。ちょっと気の毒だなとハンスは思った。
四人は廊下を歩いて、三十四号室までいった。ヨアヒムが案内しそうな場所は、そこしか考えられない。
ドアを開けると、いとこの話し声が聞こえて来た。
「お姉様、どうだい。これが『水平状態』というやつだよ」
見るとティーナッペル嬢が毛布にくるまれて寝椅子に横たわっている。ちょっと驚いたようでぽかんと口を開けて、天井を見つめていた。
「やはり、魔の山の感覚に合う者と合わない者がいるらしいの」ラダマンテュスが言った。
「どういうことなんですか、それ?」ハンスは聞いた。
「ハンス君みたいなのんびり屋は合うのじゃが、この女のように妙にせかせかした気質の者には到底適応できんのじゃ。『水平状態』になった途端、時間の変化をモロに受ける事になるからのぅ。下界の時間の流れの中でしか生きられん人間も当然いるのじゃ」
ハンスは驚いて、口を開けたままの大叔母の元へと近寄った。
「お姉様、しっかりして下さい」何度もその身体を揺すったが、ティーナッペル嬢は相変わらずぼんやりとしている。
「仕方がない、ハンス、このまま外へと運び出すぞ」セテムブリーニが言った。
「運び出すって、誰が?」ハンスは驚いて叫んだ。
「病人はいかん、病人にやらせてはいかんよ!」ラダマンテュスが両手を挙げて必死に介入した。




