十一、新入り(3)
ハンスは出来るだけ急いだ。少女の体温を冷ましてはならない。水を掛けることにも反対だったが、強く言われたので逆らえない。身体を汚してしまっているし、見られるのが恥ずかしいのは理解出来た。つくづく、冬でなくてよかったと思った。その金色の豊かな髪の毛へと目を遣った。
――こんな子供が、どうして山の中にいるんだろう。シャウシャットさんの知り合いと言うことだけど、もしかして娘さんかな? ううん、そんなはないよな。いくら何でも年齢が近すぎる。知り合いと言うことだし、回復したら何か聴けるかも知れない。とにかくベルクホーフへ連れて行くのが先決だ。
山の一番下までいった時、大きく時間の流れの質が変わり、ハンスは大きく蹌踉めいた。行きは一人だったから良かったけど、今は二人だ。
少し駆け上れば、また魔の山の時間に入る。そうすれば何も問題はない。ふと少女の顔を覗く。顔面は蒼白で、唇は先程から紫のままだ。
「もうすぐだからね」
「うん」
意識はあるようだ。
服も着ているし、体温を奪われる心配はもうないと思うが……。
その後は無言で山を登り続けた。これが結構きつく、足は疲れたが、雪の日に移動するほどではないだろう。健康な患者のように本格的にスキーをした訳ではないが、何度か歩いたことはあった。
ベルクホーフの扉が見えてきた時、ハンスはほっと一息吐いた。
ヨアヒム、セテムブリーニ、ラダマンテュスの順で飛び出してくる。ナフタは後ろから何歩か遅れて付いてきた。
「な、なんじゃそれは!」ベーレンス顧問官は神妙な顔になって叫んだ。
「向こうの山小屋でこの女の子が倒れてたんだ。意識はある。ラダマンテュス、何とかしてくれ」
「そ、そうじゃの、何者かは知らんが先ずは助けんと」
「大騒ぎですねえ」とナフタは涼しく言う。
「ぼ、ぼくは反対だぞ。ハンス、いくら何でも軽率すぎるよ。外の者を無断で連れてくるなんて、どうかしてる!」いとこは暗い顔になって言った。
「倒れてる人を見過ごせないよ」ハンスは恐縮して答えた。
「その通りじゃ。放っておく訳にはいかんん。医は仁術じゃからの。院長権限で特別許可じゃ。ヨア、ここは納得してくれい」
こうまで言われたらヨアヒムも渋々頷くしかなかった。
「で、この娘の名前は何ていうんじゃ?」「えーと、確かペトラちゃんと言ってたよ」ハンスは記憶を探った。
「その、名前で呼ばないで」コートにくるまれた少女の声が聞こえる。
「おお、幸い、まだ意識はあるようじゃの。じゃあ、君の名前は何というのじゃ」
「ペーペルコルン、メジュフロー・ペーペルコルン」その声は弱々しい。
「変わった名前じゃの。もしかしてホランドから来たのか」
「う、うん、そうよ、早くっ!」少女は叫んだ。「お願いだから、トイレを貸して!」
「そ、それは大変じゃ、すぐ案内せい!」
金髪の娘はベッドですやすやと眠っていた。無事にトイレにもいけて、すっかり安心したようだった。
「ううむ、まあ食中毒じゃな。取り敢えず煎じ薬を処方して置いたぞい。暑さ寒さの揃わぬ季節じゃから、生のものを食って腹を壊したのじゃろうて」側の椅子に座ったラダマンテュスは静かに言った。
「大丈夫なんですか?」ハンスが心配そうに聞く。「命に別状は?」
「あのまま一人でいたら危なかったかもしれんが、喋る力はあるようじゃし、もう大丈夫じゃろう。治るまでまだ暫くは時間が掛かるかもしれんが、何れは元に戻る。今回ばかりはハンス君の大手柄じゃのう」
ハンスは褒められて嬉しいのか悲しいのかよく分からなかった。
「それにしても、こうして見ると、まるでお人形さんのようじゃのう」ラダマンテュスは軽く手を伸ばしてそのふわふわとした髪の房を撫でた。
「う……」ペーペルコルンはそれに反応して寝返りを打った。
「何歳なんでしょう」
「ううむ、少なくともハンス君よりは年下じゃな。妹分として心よく迎えてやってくれい」そういうラダマンテュスはペーペルコルンよりも幼く見えるのだった。
「そ、そんな! まだこの娘がここ(ベルクホーフ)に住むって決まった訳じゃないでしょう」
「ま、それはそうじゃな」ラダマンテュスはまた悪戯っぽく笑った。
「それじゃ、わしは下がらせて貰うよ。余り大声で話していると病人が目覚めるじゃろうて」
「ぼ、ぼくはどうすればいいんですか?」
「それぐらい自分で考えんかい。まあ下がった方がいいじゃろな」そう言って、院長は足早に出て行った。
ハンスも出ていこうと心に決め立ち上がった。ところが、ベッドの横を通過した時、ギュッとその手を掴まれた。ペーペルコルンが握ったのだ。ビックリしたが、相手はまだ眠っているらしい。悪い夢を見ているのか、その顔は歪んでいる。凄い汗が額から流れていた。ハンスのものと合わさった掌も湿っていた。
ハンスはちょっと恐く感じたが、相手が年下であるのに、日和った態度を取るのは流石に大人げないと考え、そのままにして置くことにした。
――しかし困った。
部屋を出ることが出来なくなったのである。少女は手を離すこともなくずっと握ったままでいた。振り払って行こうとも考えたが、この弱気な青年にそんな決断力はなかった。
そのままで、数時間。とうとう日が暮れてしまった。夕闇が窓の向こうのテラスに広がってくる。横臥療法に使う寝椅子が寂しげに置かれていた。
「ハンスー、ハンスー、どこにいるんだい!」弱々しい声が廊下から響いてきた。ヨアヒムだ。声を掛けようと思ったが、この状態を見たら、いとこはどれだけの苦しみを覚える事だろう。今までの例があるため、躊躇された。その間にいとこの声は遠くなっていった。
「う、うう……あれっ、私!」ペーペルコルンは目を覚ましたらしい。こちらを見てくる。
「ちょっ、ちょっと何するのよっ!」凄い力で掌が振り払われた。ハンスは身体のバランスを失って後ろに倒れる。いとこ以上の力である。
「い、いたたっ! き、君が、握ってきたんだろっ!」腰を擦りながら起き上がり、ハンスは叫んだ。
「あっ、ごめん、私……」少女は顔をすっかり赤くして頭を垂れた。「もしかしてずっと?」
「うん。そうだよ。ずっと握られてたよ」
「な、何といったらいいか、ごめん、いや、ありがとうございましたっ、まさか助けてくれるなんて」ペーペルコルンは顔を上げた。
「いえいえ、そこまでのことはしてないよ。困っている人がいたら、助けるのは当たり前だ」
少女がこちらを見ていることに気付いたが、ハンスは落ち着いてそれを見詰め返した。
――相手はまだ子供だ。ぼくが、どぎまぎする必要はないじゃないか。
自分に言い聞かせる。
「ぼくは、ハンス・カストルプ。ちょっとの間かも知れないけどよろしくね」ハンスは出来るだけ優しく声を掛けたつもりだった。
少女は何も言わず、また顔を俯けさせていた。




