十一、新入り(2)
一方その頃、ペトラ・ペーペルコルンはベッドの中でうずくまっていた。突然激しい腹痛によって目を覚まされて、ずっとお腹を押さえていたが、少しも痛みは治まらない。脂汗が額を流れるのが分かった。
昨日の季節外れの牡蠣がまずかったのだ。確実に発熱していた。顔が火照って、悪寒がする。
変な妄想が次から次へと頭の中に浮かんできていた。今まで風邪すら一度も引いたことのない少女にとって、それは想像を絶する辛さだった。
手が強張って感覚が鈍くなってきた。脚の力も抜けてしまって、何度も嘔吐を繰り返したが、枕を汚すばかりでベッドから這い出すことが出来なかった。
誰かを呼ばねば。しかし、夜になるまで料理人はやってこない。クローディアは旅立ってしまった。なぜ、よりによってこんな日に。ペーペルコルンは悪態を吐こうとしたが、高熱によりその気力も奪われていった。
「し、しにたくない」少女は思わず口走った。言って後悔した。自分は死ぬことなど恐れていないはずなのに。
その時、自分の股間辺りが温く湿ったことに気付いた。下痢まで起こしたのだろうか。
――今まで、こんなことはなかった。言葉に出来ない恥の感情を少女は覚えた。こんなザマ、他人に見られたら、堪らない。クローディアならば指を差して嘲笑するだろう。それが少女の頭の中の部下の姿だった。
瞼を閉じたが力が入らない。その拍子にもう一度強く嘔吐した。
まだ、動けるかも知れない。身体を大きく揺さぶると、布団ごと床に転がった。その拍子にまた下痢をした。ぬるりとした液体に腰が滑った。
外に、外に出ないと。井戸に行くか、小川でも見付けて、身体を洗わないといけない。落ちた衝撃でか、手足が前より動かせるようになっていた。
僅かに床を這い進んだ。小さな山小屋なので、出口まではすぐにいける。両手両足だけではなく、腰の力も精一杯使って前へ躙りよる。
途中で激しく嘔吐して木目の上に吐瀉物をぶちまけた。身体の力が、抜けていくのが分かる。またお尻の辺りが温くなった。
「し、しにたくない……だれかたすけて……」少女は掠れた声で呟いた。頬に何かが伝わった。自分は泣いているのだ。
今まで涙を流したことなんてなかったのに。
ずっと我慢してきたのに。こんな予想外の苦しみを前に脆くも崩れ去ってしまうとは、自分が情けなくて、仕方がなかった。
「き、君は誰なんだ?」驚愕した声が聞こえた。
弱々しく少女は顔を上げた。青年が目の前に立ち尽くしている。
詰んだ。終わった。
少女は自嘲のために唇を動かしたが、それが相手に伝わったかは分からない。
「ぼ、ぼくはハンス・カストルプ。君は?」
「ペ、ペトラ」内心驚いていた。死ぬかも知れないと言う時にメジュフローの名前ではなく、元々のペトラの名を伝えてしまうとは。
「君は、シャウシャットさんの知り合いかい?」
しかも、この青年は、あのベルクホーフの住人ではないか。一番こんな姿を見られたくない相手だ。少しばかりヌボーッとした何を考えているか分からない顔立ちではあったが、写真よりもイケメンだとペーペルコルンは感じた。人の声を聞いたことで余裕が戻ってきたらしい。
「う、うん。た、たすけて……、ここからどこかへ連れて行って」
――もう、なりふり構っていられない。
開いた扉から寒気が入り込んできた。山の上だと言っても、五月の初日はまだまだ寒い。「わ、分かった」ハンスは近寄って、ペーペルコルンを抱き上げようと腰を屈めた。その手が震えていることに少女は気付いた。
「でも……このままじゃ……イヤ」
「ええっ!」青年は戸惑っているようだ。
「水を汲んできて。井戸からでいいから」
「でも、そんなこと……」
「いいの。皆にこんな姿見られるより、あんた一人に裸見られる方がまだましだから」自分でも妙なことを言っていると思ったが、この青年の顔を見ると警戒心が和らげられていくのを感じていた。
ハンスはペーペルコルンのパジャマを脱がした。恐る恐ると言った感じで、指先まで戦いている。汚れたズボンを脱がせるに際しては細心の注意で取り扱っていた。いつの間にか、少女は己の裸の背中を晒していることに気付いた。
「さあ、井戸水を汲んできて」
「わ、分かったよ!」ハンスは外へと走り出す。ちゃんとドアを閉めてくれた。
少女は仰向きに寝転がって天井を見た。今日は初めてのことが多過ぎて、動揺している。初めて男性の目の前で裸になるのだ。しかも、こんな状態で。ただ、もう恥ずかしさも麻痺していた。早く助かりたい、そればかりを祈っていた。
嘔吐は止んだようだ。また始まらないうちになんとか出来ないものだろうか。
ハンスが井戸水を汲んだ桶を手から提げながら入ってきた。ペーペルコルンが未発達な乳房を晒しているのを見たが、寧ろ安心したようだった。
――子供だと思われている。
なぜか、すぐそれを理解した。クローディアの話では、この青年は女性を見たら動揺しやすい性分だという話だ。それが全くそう言う素振りを見せないということは、恐らくそうなのだろう。
「その水を掛けて」
「ええっ!」
「その水を私に掛けて、早く!」
ハンスは身を乗り出して桶を逆さにし、全ての水をペーペルコルンに振りかけた。
とても冷たい。でも、その中でペーペルコルンは汚れを洗い落とした。布団を雑巾代わりにしてしっかりと拭いた。
「もう一回、汲んできて! お願い」
ハンスは空になった桶を手に外へ走り出す。その際も、寒気が入らないようにドアを閉めてくれた。山の生活にはもうすっかり慣れきっているらしい。暮らすようになって一年近く経つのに、山を歩いたこともろくにない自分とは大違いだ。
妙な悔しさを感じた。
ハンスが都合三往復ほどして、ペーペルコルンの汚れは完全に落ちた。けれども床の隅には汚れた水が広がってしまっていた。布団も水が染みてぐじゃぐじゃになっている。
「だ、大丈夫? 唇が紫になってるよ……」ハンスは弱々しく言った。
「だ、大丈夫」
「このままじゃ、風邪を引いちゃうよ。肺炎になったらもっと大変だ。そうだ」
ハンスはペーペルコルンを水の届いていないところまで引き摺っていった。そして、いつの間にか部屋の中から探し出してきていたタオルを使ってまず髪を、それから上半身を拭いた。
「いくらなんでも下は、マズイよね」と言ってタオルを渡す。
ペーペルコルンはもう言われるがままに下半身を拭いた。相手に頼もしさを感じ始めていた。
「服はないの?」
「ある」
ペーペルコルンはクローゼットを指し示した。ハンスはその中の一着を取り出して持ってきた。甲冑は櫃の中に畳んで隠してある。見られる心配はない。
少女は急いで着換えた。怠さが残っていたが、手はまだ動かせる。
ハンスは下着には気付かなかったようだ。もう慣れたのか、特に動揺している様子も見えなかった。それが憎たらしく思えた。
ハンスはコートを脱いで、少女の身体を覆う。背の低いペーペルコルンはそれで全身をすっぽりとくるみ込まれた。
「冷えるかも知れないけど、このままにはして置けない、いいね?」
「うん」少女は弱々しく頷いた。熱が上がってきたのかも知れない。頭がぼんやりとして、身体がとても熱くなっていた。
ハンスはゆっくりと、少女を横抱きにして、外へと歩き出した。




