十一、新入り(1)
なかなか瞼が上がらない。
「ハンス!」
「ハンス!」
「カストルプ君!」
声が聞こえて、目を覚ますと、そこはベッドの上だった。どうも、三十六号室らしい。窓からは心地良い朝の光が差してきて、ハンスの顔を照らしている。
ヨアヒム、セテムブリーニ、ナフタの三人が自分を取り囲んでいることに気付いた。普段は仲の悪い三人も今日ばかりは心配そうにハンスを覗き込んでいた。
無事にハンスが起き上がったのを見て、ナフタは少し唇を綻ばせたが、すぐに余裕の表情を取り繕った。
「カストルプ君、いつまで寝てるんですか。もうすっかり明るくなりましたよ」
「ええっ、もしかしてぼく、ずっと倒れてたのか?」
「昨日、廊下で倒れているのを見付けたんだ。心配したよ。顔が真っ白だった」セテムブリーニが心配そうに言った。
「ぼ、ぼくが付いていればよかったんだ。ごめんねハンス……ぼくがしんどくなったばかりに……」とヨアヒムが済まなそうに言った。
「いや、いいんだよ。昨日のぼくはちょっとおかしかったんだ」幸い、目眩は残っていない。
「そういえばセテム、昨日石工党でナフタが大騒ぎしていたけど、あれはどうなったの」
「あー、あれか」セテムは肩を竦めた。「警察が来たよ。客が呼んだようだ。一時間ぐらい話をして帰って貰った。石工党がテロ事件を主導しているなんて新聞は書き立てるけれど、根拠は何もないんだ。なので、わたしがその橋の爆破計画などに関与した訳がないし、そもそも石工党はそんなテロ組織ではない。人数が少ないし、最近は活動も静かにしているし、それにテロ事件が起こっている時間帯にはベルクホーフにずっといたという大きなアリバイがある訳だから、わたしを逮捕できるはずもない。結局騒いだ客の早とちりだという事になってそこで話は終わってしまったという訳だ。ナフタの悪ふざけはこれで二回目だしね。たっぷり搾って貰ったよ」
石工党については、一度セテムからちゃんと話を聞いとかないといけない。ハンス・カストルプは決意を固めた。
「セテムの慌てようが面白くて、ついやってしまうんですよ」
何を思ったのか、ぺろっとナフタは舌を出した。ハンスはその姿にあどけなさを覚え、可愛いと思ってしまった。
――そういえばシャウシャットさんの時もそうだった。ぼくは、年上の女性がふっと見せる幼い仕草に魅力を感じてしまうのかも知れない。
珍しくハンスは自分を冷静に分析することが出来ていた。起き抜けの頭がようやく醒めてきたらしい。
「そ、そういえばシャウシャットさんはどうしたんだろう。昨日ぼくは、彼女に逢いにサロンへ向かったんだった」
三人が顔を見合わせたのが分かった。ちょっとマズイことを言っちゃったかなとハンスは思った。
「ちょっと、ハンス。きみ(ドゥ)は一体何を……」ヨアヒムの声は震えていた。
「そ、そんなやましいことは何もしてないよ!」
「ハンス、もしかして昨日、様子が変だったのは……」セテムまでがこちらを震えながら見詰めてきた。涙がその眼の縁に溜まっている。
「あー、シャウシャットさんなら戻ってませんねえ。今朝から見てないんですけど、もしかしたらもう帰ってこないのかも知れませんね」ナフタが言った。こちらは表向きは平然としている。
「ハンス、君は今純潔なのか?」セテムが大真面目に聞いてくる。
ハンスは目を見張った。何を言い出すんだ。
「そ、い、いや、当然じゃないか! ぼ、ぼくは純潔だよっ! シャウシャットさんは少しおかしかった。でも、ぼくは逃げてしまった」
「やっぱり何かあったんだな!」ヨアヒムはハンスの腕を強く掴んだ。
「いっ、いたたたたっ! 離してくれ!」ハンスは叫んだ。
「ご、ごめん」ヨアヒムは頭を垂れた。
「ほ、本当に何もなかったんだよっ! シャウシャットさんがいきなりぼくへ倒れ込んできて、ぼくはそれを押しのけて外へ走ったんだ。その途中でなんか、頭がおかしくなって……」
「全く、とんでもない牝猫だ!」セテムが腕を組んで言った。「今度帰ってきたらとっちめてやる必要がある!」
「皆さん、度量がありませんねえ」肩を聳やかしながら、ナフタが突然言った。「わたしは別にカストルプ君の、な、なんにん目でも、い、いつ、だ、誰で、ど、こで、な、なにをしていようが……べ、別に構いません……よっ」一言ごとに声の調子は不安定に変化し、最後に到ると極端に小さくなっていた。
ナフタはローブの袖で顔を覆っていた。
「なんじゃ、面白そうじゃの、わしもまぜとくれい」脳天気なラダマンテュスの声が聞こえた。とことこと部屋の中に入ってくる。
「この病人どもが、静かにしなさい。皆、静養しなければならん身体なのじゃ。なぜか来ているナフたんを除いてな」軽い口調ではあるが、教え諭すように言った。「それにしても、昨日の謝肉祭はおじゃんじゃった。全く大変なことをしてくれおったのぅ。逃げた患者を連れ戻すのが大変じゃったよ。釣られて逃げた者がほとんどでセテムを心から恐れている様子はなかったから、助かったがの。わしの絵も皆の前で改めて披露しようと企んでおったのに……。ナフたんも、少しは態度を改めんと出入り禁止にするぞい。どうせ、それでも来るじゃろうが……」ぶつぶつと文句を言っていた。サナトリウムの院長も大変だとハンスは思った。
「喧嘩は止めじゃ、諸君。有意義な事に時間を使いなさい」
ラダマンテュスがその場を取り鎮めた事で、皆の気は他に反らされ、ハンスも空腹を覚えたので、全員で朝食を取ることにした。
腹がくちくなると、ハンスはもう一度クローディアに逢って話がしたいと思うようになった。しかし、居場所が分からない。ラダマンテュスやクロコフスキーに聞いても昨日から見かけていないという。
なぜ、あのような事をしたのか。それになぜ、あれほどベルクホーフのことを詳しく知りたがっていたのか。
どうしても本人に聞きたいと思った。最初に貰った紙切れには本人の滞在地が書かれていた。ちょうどこのベルクホーフがある山の向かい側だ。
ハンスはこれまで幾度もその小屋を風景の一部として捉えたことはあった。クローディアがそこに住んでいることは把握していたが、すぐにベルクホーフへと移ってきたので、特に訪問しようという気もなくなっていた。
しかし、クローディアと逢えなくなった以上、僅かでも可能性があるのならば、そちらを探すしか方法がない。
サロンに移動して、時計を見る。十時前だった。
「そうだ、ちょっと遅いけど、ぼく、朝の散歩に行ってきます!」
ハンスは、ヨアヒムが止めるのも聞かず、
部屋を飛び出した。自室に戻り、コートを衣桁から外す。
山の高低差による時間の変化は身体に堪えるが、ちょっと我慢すれば大丈夫だろう。すぐ隣の山だ、何とか登り切れるはずだ。
絶対に問いただしたい。珍しくハンスは強い意志に突き動かされていた。




