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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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九、湯治(3)

 更衣室である。木の板で四角く囲まれた中で各々服を着換えるのだった。

 温泉は水着を着て入ることになっている。

 ハンスとヨアヒムを除くメンバーは全員部屋の入り口側の方で着換えを始めている。騒ぎ声が聞こえてきた。

 カロリーネ・シュテールに到ってはパンツを板の上に投げて引っ掛けてしまっていた。一番背の高いクロコフスキーが台に乗ってそれを取ってやっていた。既にいつも着ている白衣の前を大胆に広げている。

 ハンスとヨアヒムは部屋の後ろ側の、遠く離れた隅の方で着換えていた。

「ハンス……」隣から板越しに、声が聞こえてくる。

「どうした?」

「ぼく、温泉には入らないよ」

「ええっ、どうして?」

「い、言わせるのかい」

「なんだよ、言わなきゃ分からないじゃないか」単純な青年である。

「男用の水着は、パンツだけだろ……」

「あ、そう言えば……」

 ハンス・カストルプも幾度か河で泳いだ経験はある。ヨアヒムは魚釣りはするのに、決して泳ごうとはしなかった。自らの不明を恥じると共に、道中ヨアヒムがそれをずっと気にしていたことに思い至った。

「女用の水着は貰ってないのか?」

「あるよ、三着も。ラダマンテュスに貰った」

「じゃあ、それを着ればいいじゃないか」

「ぼ、ぼくが女だとバレちゃうじゃないか」

「そ、そういえば」

 でも、よく考えるとベーレンスとクロコフスキーは勿論、セテムにもヨアヒムの正体はバレている。ナフタは不明だが、知っていてもおかしくないし、シュテールやエンゲルハルトは性格的に大騒ぎするとは思えない。

 結果として、知られようが別に構わないのではないかと思ったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。

「絶対にイヤだよ、皆の前で裸同然になるなんて」

「うーむ」

 ハンスは暫し黙って考え込んだ。

 女性用の水着が三着。かつ、自分は幼い頃から女装をさせられていた。つまり、女装し慣れている。ぼくとヨアヒムは幼なじみだ。だとしたら、ヨアヒムが男で女装し慣れている、ということにしても別におかしくはない。実際は決してそのようなことはなかったのだけど。

 それなら、取るべき道は一つじゃないか。ハンスはもう既に穿き終わっていた水着のパンツを脱いだ。

 そして、再び板越しに小声で話し掛けた。

「ヨアヒム、その女用の水着を一着投げ上げてくれないか? 木の板の向こう側へとね。ちょっと高いけどきみ(ドゥ)の力ならいけるだろ」

「な、なんでそんなことを……」

「いいから、やってよ」

 ヨアヒムは水着を丸めて、ぽんっと板の向こう側に投げ込んだ。シュテールみたいに引っかかると言うことはなく、ボールのように円弧を描いて、ハンスのいる向こう側へと見事に落下した。

「ありがと」

「何するつもりなんだ」ヨアヒムが不安げな声で聞いてくる。

「まあ見てなって」ハンスは落ち着いた声で返した。

 素早くワンピースの水着に身を滑り込ませる。肩紐をしっかりと結んだ。ブカブカになるかと心配したが、ヨアヒムの体格に合わせて作られた物のようで、トップはずれていなかったし、ボトムはぴったり股間に当たっていた。

 一瞬恥ずかしいと感じはしたが、女性用水着も大叔母に何度も着せられたことがあるので、順応は早かった。

「心配しないでいいから、ヨアヒムもその服を着なよ」

「ええっ」

「出てみたら分かる、いいから」

 ハンスはすぐに板の外へ足を踏み出した。続いて恐る恐るヨアヒムが出てくる。この群青色の水着も、地味で露出はなかったが、とてもよく似合っているように感じた。残念ながら胸の盛り上がりは、ほとんど見られなかったが……。

 でも、この場合は好都合だ。

「ハンス、その姿は……」

「ぼくの後ろに来なよ」ちょっとお節介焼きな、鬱陶しい感じがするかと内心気が咎めたが、ハンスはヨアヒムの前に立って歩き始めた。気心知れる相手にだけ取れる態度だ。

「や、やあ、みんな」

「おんやあ、カストルプ君、なんですかあ、その格好は?」

 ナフタが着ていたのはツーピースの水着で、フリルまで付けた薄紫色だった。露出された肌は黄色に近く、ハンス・カストルプは風貌から『契約の一族』だと見抜くとともに亜細亜人に近似したものを感じていたが、嘗て知っているプリービスラフ・ヒッペとはまた異質に思われた。声高に黄禍論を叫ぶ連中にとって彼らの肌は『契約の一族』同様脅威の対象であるらしいが。ハンスは世論の偏向に時々は歯がゆいものを覚えていた。

 しかし、知的な営為もその胸元に眼が吸い寄せられるまでは、だった。今まで黒衣で隠してきたから分からなかったが、この修道士は、実に豊満な胸の持ち主だったからである。しかもその谷間はハンスの丁度視線が落ちる先に位置していたのだった。身長ならば誰も勝つことが出来ないクロコフスキーと並んでも引けをとらないだろう。

 ハンスはクラクラとしてきた。

「ぼ、ぼくらは小さい時から女装をされてきまして、そ、それで、これが慣れてるんで特別にお願いしたんです」弱々しい声で説明する。

「ハンス、それは、い、いくら何でも破廉恥だぞ!」セテムブリーニが叫んだ。こちらは澄んだ空色のワンピースの水着だった。

 ハンスは空かさず、その胸を見ていた。途端に自分を恥じたが、こちらは禁欲的なまでにすっぽりと全体が包み込まれていたので、よく分からない。しかし、ナフタと比べると劣るであろう事は分かった。

「カストルプ君も、なんといっても矢っ張り年頃の男の子ですからねえ。セテムみたいな堅物には到底惹かれませんよ」と、優雅に両腕を頭の後ろで交差させ、足を絡めてポーズを取った。「さあて、カストルプ君、幾らでも見ていいんですよ」

 ハンスは途端にびくんと背筋を伸ばして、魔笛に誘われるかの如くに注視を始めた。

「見ていいんですよ」

「見てもいいんですよ」ナフタは何度も繰り返す。ところが、ハンスの真摯なまでの熱視線を受け止めた途端、その顔は染まっていった。最初は涼しげに口笛を吹いていたが、突然、

「あーっ!」と喚きだしたかと思うと、両手を前に突きだしてハンスの両目を強く押さえ付けてしまった。

「おい、お前、何をするんだ」セテムは思わず何度か咳込んだ後、後ろからナフタに飛びついて羽交い締めにした。

「やはり近隣で『悪魔』と異名を取るだけあるな。何をし出すかわからんやつだ、ゴホッ、ゴホッ、こんな奴をハンスの側には置いておけない! ハンス、わたしと温泉に入ろう」

「やれやれ、折角湯治に来たのに、仲良く入ることもできんのかい」

 ラダマンテュスが小学生用と思しいセーラー水着で出てきた時は、その場にいる皆はとても痛ましいものを見る目付きになって沈み込んだ。

「な、なんじゃ、みな、どうしたんじゃ!」皆が波を打ったように静かになったので、戸惑っているようだった。

 そういえば、この人は何歳だろう。ハンス・カストルプは思った。最初会った時に聞きそびれたな。とても幼いようだけど、喋り方はお婆さんのようだ。

 シュテールとエンゲルハルトの二人組はほぼ同時に出て来た。彼らはハンスとヨアヒムが来ている水着と同じものを着ていた。実質男女混浴なのを恥じている様子もなく、ハンスはこちらには落ち着いて対応をすること事が出来た。

「はやくー入渠しようよー」

「それを言うなら入浴」やはり平常運行のようだ。

「あれ、ハンスきゅんもヨアきゅんもあたちらと同じ?」シュテールは興味を引かれたようである。

「うん、この方が何というか気持ちが落ち着いて」ハンスが説明する。

「ふふーん」エンゲルハルトは何かよからぬ事を思い付いたような、この人らしからぬ狡そうな目付きで二人を隅から隅までまで見渡していた。

クロコフスキーが最後に出て来た。こちらの黒の水着姿もハンス・カストルプを興奮させたが、わたしたちはそのことで紙幅を裂きたくないので、止めておきたい。

「ハンス」浴室に向かう廊下の途中で、ヨアヒムが後ろからこっそり声を掛けて来た。

「何だよ」

「ありがと」とても、優しい声だった。

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