覚悟
十年前。
野党の真似事をして暮らしていた少年は、
ある兵士の墓標の前で、
行動には結果が責任が伴うことを知った。
「待てよ!」
少年が叫ぶと、去ろうとしていた男は立ち止まり、
ゆっくりと振り返る。
「お前だって、戦場じゃたくさんの人を傷つけてるんだろ。
なのに何で……」
言いながら、少年は自分の胸元を押さえた。
涙が枯れてなお、その奥の痛みは消えていない。
少年はこれまで、
人を傷つけることの本当の意味を知らなかった。
こんなにも、痛みと恐怖を伴うということを知らなかった。
きっと、ほとんどの人間が知らないのだろう。
知らない間に誰かを傷つけて、
取り返しのつかないことになって初めて気付く。
だが、この男は違う。
人を傷つける痛みも、怖さも知っている。
その重みを背負ってなお――
「何でそんなに真っ直ぐ立てるんだよ!?」
震える拳を握る少年の声は、その男にどう聞こえたのか。
少年の背後、戦友の眠る墓標を見据えて答える。
「俺には……俺達には、痛みや恐怖に耐えてでも、
成し遂げたいことがある。それだけのことだ」
そう言って、男は懐から煙草を取り出した。
「いつか時が来れば、お前にも分かるさ」
煙草に火を点け、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、
男は再び少年へと視線を向けた。
「お前、名前は?」
「……」
男の問いに、少年は答えることができない。
自分の名前をはじめ、戦前の記憶の大半が抜け落ちている。
当時、反乱軍の使用した毒ガス兵器の影響により、
記憶障害を起こしている人間は珍しくなかった。
事情を察して、男はばつが悪そうに頭をかく。
「名前がないと不便だな……」
気の抜けた表情でぼやく男の姿は、
先程までの威風堂々とした印象とは別人のようだった。
そのギャップが可笑しくて、少年はほんの少しだけ、
胸の痛みが楽になった気がする。
男が政府軍最強と言われる、餓狼隊の隊長だと知ったのは、
それからしばらく後のことだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「そういえば、あいつの名前聞いてなかったな……」
ソフィアの経営する酒場のホールで、
キバは一人つぶやいた。
朝も早いので客の姿はなく、店主であるソフィアは、
キバの連れて来た少女を引きずって、
店の奥に消えている。
少女は最初こそキバの後ろに隠れていたが、
キバが大丈夫だからと促すと、
観念してソフィアについて行った。
そして残されたキバは、
昨日の治療費を払ってもらう代わりに、
ソフィアから店の床みがきを命じられていた。
左腕を吊っているためやり難いが、
片手で器用にモップを動かし、
石の床を丁寧にみがいていく。
そんな時、店の入り口が不意に開かれた。
扉に付けられた鐘が鳴るのを聞きながら、
キバはそちらに目を向ける。
「店は夜から――って、お前かよ」
「やあ」
入って来たのは、白いスーツを着崩した金髪の男だ。
いかにも遊び人といった風体で、
軽薄な笑みを浮かべている。
「昨日は助かったぜ。また借りができたな」
「気にしなくていいよ。
こっちも興味深い噂を聞かせてもらったから。
例の『狙撃屋』……ここに連れ込んだらしいじゃない?」
「相変わらず耳がいいな」
半ば呆れながら、キバは男の言葉を事実と認めた。
男の名はウサギ。
「噂屋」のウサギと言えば、
便利屋業界では知らぬ者はいないほどの、
凄腕の情報屋だ。
昨日、負傷したキバの前に現れ、
狙撃屋の居場所を教えた人物でもある。
「お前から会いに来たってことは、
何か耳寄りな情報でも入ったのか?」
「あれ、僕からタダで噂を聞くつもりかい?」
質問を質問で返され、キバは思わず顔をしかめた。
言うまでもなく、金はない。
となると、代わりとなる情報を渡す必要がある。
「『狙撃屋』の正体だけどな……」
「うんうん」
「女だ。しかもこんな小っこいガキだ」
少女の身長をジェスチャーで示しながら言う。
それに対し、ウサギの答えはあんまりな内容だった。
「そんなのとうの昔に知ってるよ」
命がけで仕入れたネタを一蹴され、
思わずウサギをにらみつけるキバ。
「噂屋」の実力を考えれば当然とも言えたが、
だからといって腹が立たないわけではない。
「そう怒らないでよ。実のところ確証はなくてね。
今日は事実の確認をしに来たんだ。
直接会った君の証言なら、対価としては十分だよ」
そう言ってウィンクするウサギ。
この仕草で女性を――場合によっては男性をも誘惑し、
情報を入手するのが彼の常套手段だ。
「それじゃあ、君に関わりのある噂を基に、忠告を一つ」
「忠告?」
穏やかでない単語に、思わず聞き返すキバ。
「昨日の連中だけどね。
狙撃屋を取り返そうと必死になってるみたいだよ。
その内ここにも来るだろうから、気を付けてね」
深刻そうに言うウサギだが、
キバはいまいち危機を感じることができない。
「気を付けろって言っても、
狙撃屋以外は雑魚しかいないだろ?」
「そうでもないんだよ。
あそこのボスって無駄に顔が広くてさ。
今頃、凄腕の用心棒でも雇ってるかもしれない」
ウサギの言葉に、キバは少し考える。
ケチなマフィアだと侮っていたが、
「狙撃屋」の例もある。
忠告は素直に聞いておいた方がいいだろう。
「分かった。注意してみる」
「それがいいだろうね。
じゃあ、新しい噂を聞いたらまた来るよ」
そう言うとウサギは、
入って来た時と同じく軽い足取りで出て行った。
キバは床みがきを再開したが、
今度は店の奥から現れたソフィアに声を掛けられ、
またもやモップを動かす手を止める。
「ねえ見て見て!
この可愛さ、もはや芸術レベルよ!」
やたらと高いテンションで、
足早に近付いてくるソフィア。
隣では、狙撃屋の少女がその手を引かれていた。
先程までのコート姿ではない。
汚れていた彼女を風呂に入れると言っていたから、
そのついでに着替えさせたのだろう。
ここの従業員用だろうか。
飾り気はないが魅惑的な黒のドレスが、
小柄な少女の体を包んでいる。
「一目見て『これはイケる!』って思ったのよね。
わたしの目に狂いはなかったわ」
得意げに語るソファに呆れつつ、
キバは様変わりした少女の姿を眺める。
昨日の格好では少年のようにも見えたが、
今の少女を見て間違える人間はいないだろう。
本人は慣れない薄着に戸惑っているようだが、
似合わないかと聞かれれば答えはノーだ。
「いいじゃねえか」
「やっぱりそう思うわよね。
よかったらうちで働いてみない?
あなたならすぐ人気者になれるわよ!」
ソフィアの提案に「若過ぎるだろ」とは思うが、
キバは何も言わない。
今の世の中、
年齢に会わない仕事をしている子供はたくさんいる。
少女はどう答えるべきかとキバを見上げるが、
「自分で考えて決めろ」
としか言わなかった。
それを聞くと今度はソフィアの方を向き、
少女は首を横に振る。
「残念。でも気が変わったらいつでも言ってね」
どこか嬉しそうに言うソフィアだが、
簡単に諦めるつもりはないらしい。
よほど気に入ったようだ。
そんな会話をしていると、
入り口のドアが再び開いた。
ドアに付いた鐘の音に、今度は三人で振り向く。
そこには、ガラの悪い二人の男が立っていた。
キバにとっては見覚えのある二人組だ。
昨日少女に絡んでいたいた男達。
同時に、現在事を構えているマフィアの下っ端でもある。
「それ以上進むな。潰すぞ」
近付いてこようとした男達に、キバが低い声で警告する。
それを聞いて、二人組の足がびくりと止まった。
二人――特に昨日股間を蹴られた方が青ざめる。
「お、俺達はボスからの伝言を伝えに来ただけだ……」
「伝言?」
内容の予想はついていたが、念のため聞き返す。
「おとなしく狙撃屋を返すなら、
今後この店には一切手を出さないそうだ。
あんたのことも大目に見てくれるってさ」
いかにも寛大な風に聞こえるが、
狙撃屋を返さないなら容赦しない、
ということでもある。
事実上の脅迫だった。
「交渉に応じるつもりがあるなら、
狙撃屋を渡してくれ。
この店に隠してるのは分かってる」
隠してるも何も、目の前にいる。
昨日のこともそうだが、
二人とも狙撃屋の顔を知らないらしい。
(雑だなあ……)
呆れて、鼻息を漏らすキバ。
どちらにせよ、少女を渡すつもりは毛頭なかった。
少女は昨日までの狙撃屋ではない。
人を傷つけることの痛みも、怖さも知っている。
そんな彼女を、
再びマフィアの道具にさせるわけにはいかない。
向こうが力ずくで取り戻そうとしているなら、
「拳屋」として阻止するだけだ。
「狙撃屋ねえ……あんた知ってるか?」
とぼけた顔で、キバはソフィアに尋ねる。
彼女もまた、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「さあ、植木屋なら知ってるけど」
「てめえら……」
完全になめきった二人の態度に、
男達の額に青筋が浮かぶ。
一人が肩を怒らせて歩み寄るが、
彼が何か言うよりも先に、
キバのつま先がその顎に突き刺さった。
男の体が宙を舞い、
背中から床に落ちる。
「忠告はしたぜ」
「あ、アニキぃ!」
もう一人の男が、倒れた男に慌てて駆け寄った。
助け起こそうとするが、
白目をむいているのを見て諦める。
「よくもアニキを!」
「何だよ、潰さなかっただけマシだろ?」
「うるせえっ!!」
男は怒鳴りながら立ち上がったが、
その顎の先を何かが引っ掛けた。
頭全体がかくんと揺れる。
結局もう一人の男も白目をむくと、
仲良く並ぶ形で床の上に倒れた。
「店内ではお静かにお願いします」
男の顎を引っ掛けた拳を掲げたまま、
ソフィアが朗らかに笑う。
「あなたもよ。店内では、もっとスマートにね」
「……了解」
キバは答えると、
成り行きを見守っていた少女へと向き直った。
自分が着ているドレス。
その胸元をぎゅっと握り締め、
少女は小さな体を震わせている。
知っているのだろう。
彼女を取り戻そうとしている連中の欲望が、
どれほどの暴力を伴うものなのか。
キバは彼女の前に片ひざを突くと、
その大きな目を見て言った。
「なあ、俺の拳を買わないか?」
「え……?」
それを聞いて、少女が疑問の声を上げる。
「肉が欲しい奴は肉屋に行けばいい。
靴が欲しい奴は靴屋に行けばいい……」
「拳屋」キバは、
そう言いながら自分の胸を指差した。
「暴力におびえてる奴は、拳屋のところに来ればいい」
そして立ち上がると、左腕を吊っていた布をはずす。
動かすと鈍い痛みが走るが、そのままでは何かと不便だ。
「報酬は、そうだな……
お前の銃。あれをもらおうか」
少女の答えは聞かぬまま、
酒場の入り口に向かって歩き出す。
後のことはソフィアに任せ、
そのまま店を出て行こうとしたが、
「待って!」
少女の声に立ち止まる。
「人を傷つけるのは、あんなに痛いのに……
君もそれを知っているはずなのに……」
キバが振り返ると、ほんの一瞬だけ、
少女の姿に重なって、十年前の自分が見えた気がした。
「どうして君は、『拳屋』でいられるの……?」
少女の口から出たのは、
十年前、キバが抱いたのと同じ疑問だ。
いつか時が来れば、お前にも分かるさ――
あの時に言われた言葉を思い出し、
キバは苦笑する。
「自分が傷つくより、他人を傷つけるより、
お前みたいな奴が傷つく方が、
何倍も痛いんだよ……俺にとってはな」
「彼」とは少し違うかもしれないが、
それがキバの見付けた答えだった。
「お前にも、いつか分かる時が来るかもな」
会話の流れで、
まだ少女の名前を聞いていなかったことを思い出す。
「そういえば、お前の名前は?」
キバが尋ねると、少女は首を横に振って答えた。
「名前は、無い」
「そうか……」
名前も無いなんて、どこまでも似ている。
そう感じながら、キバはその場を後にした。