電車のような人生
最近、よく思うことがある。
どうして私は生きているのだろうか、と。
いや、正確には「生きている」というより、「生かされている」に近いのかもしれない。
人生とは、時間という名の電車に乗せられている感覚に似ている。
一度乗ってしまえば、途中で引き返すことはできない。
止まることも難しい。
ただ、前へ前へと進み続ける。
私はその乗り物の中で、ただ揺られている。
自分の理想や夢を叶える方法なんて、正直まったくわからない。
そもそも、その「夢」や「理想」だって、本当に自分のものなのだろうか。
もしかすると、祖先や社会や周囲の価値観を受け継ぎ、
それを「自分の願い」だと思い込んでいるだけなのかもしれない。
そう考えると、人生は映画にも思えてくる。
自分が主人公のはずなのに、
どこか他人事のように、自分自身を鑑賞している感覚がある。
だが、それにしてはあまりにもリアルすぎる。
苦しみも、焦りも、孤独も、妙に生々しい。
この乗り物から降りる方法は、一応存在する。
人生を終えるという形で。
死ぬ時、人は強制的に降ろされる。
あるいは、自分から降りる人もいる。
皆、同じ「時間」という列車に乗っている。
だが、その中での過ごし方は人それぞれ違う。
人生に目的など本当にあるのだろうか。
結局、毎日を少しずつ積み重ねていくこと。
それしかないのではないかと思う時がある。
それでも、人は夢や希望を持ち、一歩ずつ前に進もうとする。
きっと、それ自体に価値があるのだろう。
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自分の考えが正しいからといって、
それを他人に押し付けるべきではない。
自分の正義を「絶対の正解」だと思い込み、
他人を裁き始めた時、人は少しずつ孤独になる。
周囲から人が離れ、
誰も助言してくれなくなる。
もしかすると、いわゆる「老害」と呼ばれる存在は、
そうやって生まれるのかもしれない。
人は、自分を完全に客観視することができない。
自分が他人からどう見えているのか、
本当の意味ではわからない。
それでも人は、
「自分こそ正しい」と信じ込んでしまう。
助言されても、指摘されても、
飲み込めなくなる。
そうして、頑固になっていく。
同じ乗り物に長く乗り続け、
一度も立ち止まれないまま走り続けると、
少しずつ人は壊れていくのかもしれない。
不思議な話だ。
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そして最近、もう一つ考えていることがある。
人間の体には、およそ60兆個もの細胞が存在すると言われている。
では、その一つ一つに「意思」があったとしたらどうだろう。
それぞれの細胞が、何かしらの意識を持っていたら。
私という存在は、
無数の小さな意思の集合体なのかもしれない。
さらに視点を広げてみる。
もし地球そのものを、一つの生命体として考えたなら。
私たちは、地球から見れば「細胞」の一つに過ぎない。
人類という細胞が活動することで、
地球の内部では炎症のようなものが起きているのかもしれない。
環境破壊も、争いも、
地球視点では「細胞の暴走」に見える可能性がある。
だが地球自身は、
その異変に気づいているのだろうか。
あるいは、気づいていてもどうにもできないのだろうか。
そう考えると、
一つ一つの小さな存在にも、無視できない影響があるのかもしれない。
細胞が集まり人間になり、
人間が集まり社会になり、
社会が集まり文明になり、
文明が集まり惑星規模の存在になる。
さらにその先には、
銀河や宇宙ですら、何か巨大な生命の細胞なのかもしれない。
正直、自分でも何を言っているのかわからない。
でも、考えてしまう。
私は何のために生まれたのか。
何のために生きるのか。
今もまだ、その答えはわからない。




