18 カッコウの飛び立つ日
あたしたちはまだあのとき中学生で、『好き』とか言ったわけでも、『約束』とかしたわけでもなくて……だけどあのときのあたしと裕也は、確かにつながっていた。心のずっと奥のほうで、きっと確かにつながっていたんだ。
「ゆーいっ!」
音楽室から校庭を見下ろしていたあたしに、カナがおどけた口調で声をかけてきた。カナは、あたしが北海道に引っ越してきてからずっと一緒の『親友』ってやつだ。でもずっと一緒も今日で最後。今日の卒業式が終わったら、あたしたちは別々の道へ進む。
「なに?」
「なにじゃないよー。いつまでひとりで思いにふけってんの? 朋樹たちが呼んでたよ? 優衣のこと」
そう言いながら、カナはあたしの隣に立って、一緒に雪の残る校庭を眺める。
「はぁー、さむー」
だけど外から冷たい風が吹き込んで、カナはすぐに窓を閉めた。
「ねえ、優衣。あんた、朋樹の気持ちわかってるんでしょ?」
窓を閉めると、カナがあたしに向かって言う。
「朋樹のこと、嫌い?」
「……嫌いじゃないよ」
「でしょ? だったら付き合ってあげなよー。あいつ何年あんたのこと想って……」
「ごめん。あたし誰とも付き合うつもりはないから」
カナがふうーっとため息をつく。
「優衣さ、そうやって『誰とも付き合わない』『好きな人もいない』って言ってる間に、女子高生ライフ終わっちゃったじゃない? もったいないよ、あんたかわいいのに」
あたしがかわいい? あたしは自分のことかわいいなんて一度も思ったことない。あたしって人付き合いもよくないし、カナみたいに素直に笑えないし。
「まあ、いいけどさ。べつに」
カナがちょっと首をかしげてにこっと笑う。あたしはバッグの中からチョコレートを取り出して、カナにひとつあげた。それから自分の分も手にとって口に入れる。キャンディーみたいに包んである、甘いミルクチョコレート。あたしはまた窓の外を見た。
来るわけなんかない。あいつがここに来るわけなんかない。だってあたしたちは何の約束をしたわけでもないし……
口の中でチョコレートがとろりと溶ける。カナが「そろそろ行こっ」と言って歩き出す。だけどあたしはその場を動くことができなかった。
「裕也……」
誰もいない校庭の隅っこで、野良犬とじゃれあうようにしている人影。その姿は遠くて小さいけど、あたしにはわかった。裕也の姿が、あたしにはわかった。
「優衣!? どこ行くの!?」
音楽室を出ようとしていたカナを押しのけ、あたしは廊下を走る。階段を駆け下り、上履きのまま、玄関を飛び出した。
雪の積もる山から吹き降ろす冷たい風が、あたしの頬を叩く。上着を着てないあたしの体を、一瞬で冷えた空気が包み込む。
白い息を吐きながら立ち止まった。しゃがみこんで、茶色い犬の頭をなでている背中が目の前に見える。やがて、あたしと同じように白い息を吐きながら、裕也が振り向いてつぶやいた。
「さっみーなぁ、ここ」
あたしの大好きな、少しかすれた男の子の声。その声はあの頃と全然変わってない。裕也は立ち上がると、黒くて長めの前髪を右手でかきあげて、あたしの前で笑う。
「来たよ」
「……うん」
そう言ってあたしは、涙の笑顔を見せる。そしたら裕也が、ほんのり茶色く染めたあたしの髪を、くしゃっとなでた。
これは夢かな? 夢かもしれないな? だって、本当に裕也が来てくれるなんて、ありえないでしょ?
校舎の窓からみんなが騒いでる。きっとカナは目を丸くしてあたしのことを見ているだろう。朋樹には悪いことしちゃったな……ごめんね。
「なんか、腹減った」
あたしの髪から手を離した裕也が、いたずらっぽい顔でそう言った。
「チョコレートなら、持ってるよ」
あたしがポケットの中からふたつのチョコレートを取り出す。茶色い犬がしっぽを振って、くんくんにおいをかいでいる。いつ裕也に会ってもいいように、あたしは毎日チョコレートをポケットの中にしのばせてたんだ。
「さんきゅっ」
裕也は笑って、ひとつを口に放ると、もうひとつをあたしの手に握らせた。裕也の手の温かいぬくもりが、あたしの手を伝わって胸の奥に入り込む。
あたしはそのチョコレートを口に入れて、空を見上げる。青く澄んだ空を、一羽の鳥がすうっと横切ってゆく。
その日、裕也と食べたチョコレートは、今までで一番甘い味のするチョコレートだった。