6―8 強欲の死魔①
あの後、堕とし児の女霊は何処に行ったのか。片足を切り裂いて動けずにいるはずだと思い込むのは人間だった場合の話なのか。
駅と商業施設を繋ぐペデストリアンデッキ。その周囲を取り囲む大なり小なりの商業ビル。その奥に進めば路面店が立ち並ぶ商店街がある。
「いない……何処に消えた」
走りながら商店街の時計台を見た。時刻は午前四時五分。あと一、二時間もすれば夜は明けるが、賑わいある街並みは依然として闇に沈んでいて人の気配はない。ただ別の気配は確かにあった。薄闇の上空で、もの寂しげに揺蕩う線香のニオイ。商店街を抜けた時だった。
立ち尽くすヘレナとその隣で座り込む諸星ミクルの姿があった。
「おい、ヘレナ、あれは何だ」
「……」
バキリボキボキ、ポキリポキ。骨が折れるような異音が鳴り響く。路面に倒れ込んでいる堕とし児の女霊に群がる黒い小さな影が八つ。古びた街灯の淡い光に照らされて、それが何なのか、分かる。野犬か何かだと思ったが、それは動物みたいな食い方をする八人の乳児だった。長い腕と脚は折られ、両の目玉はくり抜かれ、乳房は林檎を齧ったみたいな食われ方をする。赤子とは思えぬほどの力で名も無き死女は跡形もなく貪り尽くされた。
なのに。それなのに。どうして食い尽くした赤ん坊らは皆同じように涙を流しているんだろう。決してそれが美味しいからとか単純な理由で泣いているんじゃないと分かるくらいに悲愴に満ちた表情を浮かべていた。
なぜ食べたのか。なぜ泣いているのか。目的達成に対する感情の享受がそぐわないのは、食べる行為が意に反したことだから。じゃあ、その子らに食べるよう急き立てているのはどこのどいつだろう。
五階建てビルの屋上から刺々しく刺すような霊気を感じて見上げれば、そこには女の姿をした悪魔が立っていた。
「悲憤と慄然が織りなすハーモニー。腹の中で渦巻く混沌は至福に満ちた蜜の味。あぁ、いいわ、いいわよ、いいですわ。食べたくもないモノを食べさせて悲哀の情に陥れる感覚は」
嘲り笑う女の声。黒い装束に纏われた艶めかしい肢体。腰まで伸びた紫紺色のうねり髪に、いやらしく曲がりくねった二つの黒いツノ。
「レヴィナス・ヘルキャットァン……貴方は十年前に私の手で祓ったはずよ」
「えぇ、そうね。でも私はこうして今生きている」
「その子たち……妊婦から赤子を略奪したのは貴方の仕業ね」
「訊くまでもないないでしょうに……この通り見れば分からなくって?」
八人の乳児の臍から伸びた白い肉の管はレヴィナスの股を通って彼女の臍へと繋がっていた。八本の尻尾というよりは臍帯。十メートルほどあるそのへその緒は瞬時にして縮みだし、八人の乳児は巻きつく形でレヴィナスの肩や胸、腰に纏わりついた。
「度し難いほどの鬼畜。他人が大切にしていたものを根こそぎ奪い取って何がそんなに喜ばしい。何がそんなに快い」
「ふひ、ふひゃひゃひゃひゃひゃ。その問答に何の意味があるっていうの? 私は強欲の死魔レヴィナス。他人の大切なモノを奪うことに至福を覚え、そのためだけに生きてきた」
「相変わらず哀れな性根だわ。奪うことでしか幸せを享受できないあなたはどこまでも虚しいまま」
「虚しい? ふひ、微塵たりとも感じないわ。今、私にあるのは欲の充足、ただそれだけ。私に赤ん坊を奪われながら死に絶え、死んでなお、お腹を痛めて産んだ子に跡形もなく食べられる。ああ、なんて惨めで滑稽なの、臍帯を介して母と子の鬼哭啾啾がひしひしと伝わってくる」
高揚したように頬を赤く染め、艶やかな声を上げた時、黒みがかった紫の弾丸がレヴィナスの頬を掠めた。
「赦さない。命の尊厳をどこまで踏みにじれば気が済むんだっ」
誰よりも怒っていたのは諸星ミクルだった。勇猛果敢に立ち上がった彼女の指先には霊力が込められていて、次こそは確実に狙いを定めて放つ。その気概が感じられた時だった。
「やめなさい、ミクっ!」
警鐘を鳴らすヘレナの声が届く前に既にレヴィナスは諸星の背後に立っていた。
「え? 奪って奪われて、それが生きとし生ける者の本能でしょ?」
異論は認めないその問いかけと共に薙ぎ払われる腕。ペティナイフのように鋭く伸びた五本の爪先が諸星の頸に迫った。
ピシュッ――。
鮮血が飛び散る。血飛沫が舞う。煩わしい羽虫を振り払うような一撃は言葉通りそこらにいる人間を蚊同然のように瞬殺できるほどの威力があった。
だが傷を負ったのは諸星を間一髪のところで庇ったヘレナだった。簡単に命を壊す攻撃。まともに食らっていれば諸星の頸なんて意図も容易く切り飛ばされていたことだろう。とは言え、諸星を抱えて俺のところまで避難したヘレナの頸からは悍ましいほどの出血があった。
「ご、ごめんなさい」
ヘレナの血を見て諸星は声を震わせながら謝った。ヘレナは狼狽している諸星を落ち着かせるように頭を優しく撫でながら穏やかな声で言う。
「これくらい平気よ、掠り傷にもならないわ。それよりも怪我はないかしら?」
「はい」
「そう、良かったわ。琉倭、ミクを頼むわよ」
言って、ヘレナはレヴィナスの方へ振り返った。後ろ姿からでも分かるくらい、ヘレナ自身も感傷的になっているのが伝わった。
「レヴィナス、奪ったからには奪われる覚悟を持ち合わせているわよね」
「ふひっ。奪われるモノなんて私には何もないわ。せいぜい、奪われたモノでも奪い返してみれば?」
分かりやすい挑発にヘレナの殺意の波動が芽吹く。赤い眼は据わり、胸元から取り出したのはあの夜、俺を斬り殺した黒い魔の凶器。死神の大鎌である。
「ああ、ソレ。思い出すな、確か、それで斬りつけられた後に異界の――」
レヴィナスが言い切る前に黒い鎌は弧を描くように薙ぎ払われた。迷いのない一撃。無駄のない斬撃。ヘレナはその場から動くことなく、届くはずがない間合いは瞬時に伸びた長い柄のリーチによって縮まり、三日月形の湾曲した鎌の刃は槍のように変形していた。
予想外に伸びた刃。頸を真っ二つに切断されるのは不可避の事実。躱しきれないと右腕で頸を守ろうともその片腕が大根の輪切りのようにストンと斬り飛ばされるのと同じように彼奴の頸もそうなる……はずだった。
ブチャリとそうなるはずだった頸とは別の頸が刎ねられたことにヘレナは眉をひそめる。自らそうしたのか、そうさせられたのか、紛れもなくヘレナの攻撃を庇ったのはレヴィナスの頸に纏わりついた一人の赤子だった。
頸と胴は泣き別れ、頸の断面からは血が溢れ出る。レヴィナスの肩を伝って流れ落ちる赤ん坊一人分の血。それに伴い脈打つレヴィナスの皮膚細胞。鼓動。うねり出す螺旋状のツノ。霊眼で目を凝らせば彼奴が何に反応しているのか、判った。血じゃない。もっと根深いもの。赤ん坊の死に、レヴィナスの体内に格納された母親の魂が悲哀の共鳴を引き起こしているのだ。
「ああ、私の中でたくさん悲しんでいる。たくさん怒っている。その分だけ力が漲ってくる!」
真珠のように丸い大きな紺色の瞳孔が生き生きと輝きだし、霊力が増幅し出す。瞬間、レヴィナスは彼女の肢体に纏わりついた七人の赤ん坊を力任せにぶん回した。




