3―15 昼間の死神④
ヘレナの館に辿り着いた俺は寝室のベッドで眠る沙月の姿を確認した。改めてほっとする。ヘレナの気遣いだろう、暖かそうな毛布に包まれている沙月は穏やかに眠っているが、目許には泣いたような痕があった。
「ヘレナ」
「何よ」
「ありがとう」
「え」
俺が感謝の言葉を述べるのがそんなにもおかしいのか。ヘレナは不意打ちでも食らったかのようなきょとん顔で俺の顔を見ている。
「何だよ。別にそんな驚くようなことじゃないだろ。単純にお前がいなかったら俺も妹も大変なことになっていたと思うから。助かったよ、ヘレナ」
言うとヘレナは自身のお腹を手で押さえて苦しそうにした。
「おい、いきなりどうしたんだよ、お腹でも痛いのか?」
「ううん、何だか胸がぎゅ~ってなって……苦しいの。だけどそれが何だか心地よくて……私、琉倭に感謝されたことが嬉しいみたい」
にへへへ、とはにかむヘレナの顔は初めて喜びを知った子どもみたいに無邪気なものだった。全く調子が狂うというか、こいつ、何に対しても耐性がなさすぎやしないか。
「にしてはお前、対面座位とかそういう変な知識は知っているくせに何に対してもうぶいよな」
「だって私は人間じゃないもの。人の形をしているだけでその正体は人間から忌み嫌われる死の偶像……誰かに褒められたことなんてないわよ」
「……でもならなんでそういう変な言葉は知っているんだ?」
「それはその……夜の営みを見てしまったからよ」
「お前、覗き見なんて……」
「ち、違うわよっ。視えてしまったの、視たくてみたんじゃないもの。……で、でもすごかったわ」
思い出すかのようにヘレナの頬が紅潮する。
「夢中になって見てんじゃねえか」
「だ、だって気持ちよさそうに啼くんだもの、どんなものか知りたくもなるわ。……一人でやってもあんまりそういう風にはならないもの」
「……」
こいつはまた爆弾発言を。俺のこと、誘ってんのか。男を振り回す魔性の女でも言わないような台詞をさっきから口走っているが。
「ってあなた、どさくさに紛れて私の秘密を掘り下げないでもらえるかしら」
自分で言っといてキレられても困るんだが。
「話したくなければ言わなきゃいい話だろ。それとも何だ、俺にしてくれって頼んでんのか」
「はぁぁぁ? ばっっっか言わないで! そんなわけなぁぁぁいじゃない、莫迦っ、阿保っ、変態っ……この変態っ!」
頬をさらに真っ赤にさせて、沙月が起きてしまうのではないかと思うほどの声量で暴言を吐く。それこそこんな馬鹿みたいなやりとり、眠っているとはいえこれ以上沙月には聞かせられない。俺は沙月を抱きかかえる。ついでに机に置いてあった自前のナイフを手に持って、ヘレナの寝室を出ていく。
「ちょっと待ちなさいよ」
「はあ、まだなんかあんのかよ?」
「……今夜はちゃんと約束守りなさいよね。待ってるんだから」
「ああ、分かってるよ。じゃないと何されるか分かったもんじゃないからな」
「相変わらず一言多いわね」
むっと睨んできたヘレナに「冗談に決まってるだろ。あんま怒んなよ、可愛い顔が台無しになるぞ」と宥めるように言ってその場を後にした。
沙月を抱えながら屋敷へ帰る。左手にはナイフがある。俺が自室の机に保管していたナイフだ。微かに血のついたナイフ。沙月の首には涙の痕よりも目立つナイフを突き立てたような痕がある。
「沙月、これは俺のナイフだ。お前が傷ついていいものじゃない。お前は俺と違って生きたい目をしているんだから……こういうのはやっちゃ駄目だ」
なんて言っても眠っている沙月には絶対に届かない言葉だ。でもそうだな、目を覚ました時にお前がまた誰かのために自分の命を落とそうとするのなら俺が止めてやる。その逆も然り、お前が殺人衝動に蝕まれて殺したくもない相手を殺しそうになった時、止めてやるのもまた兄としての役目だ。




